憲法ゼロから憲法#55

教育を受ける権利と学習権——旭川学力テスト事件

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第3章 人権各論 #55/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

二十六条の二階建て——権利の条文に、なぜ義務があるのか

二十六条の二階建て(一項=すべて国民に教育を受ける権利/二項前段=保護者に普通教育を受けさせる義務/二項後段=義務教育は無償) 図:二十六条の二階建て

  • 一項=すべて国民に教育を受ける権利
  • 二項前段=保護者に普通教育を受けさせる義務
  • 二項後段=義務教育は無償

まず、条文の作りを確認しておきましょう。二十六条は、一項と二項でできています。一項が権利、二項が義務と無償です。権利の条文なのに義務が出てくること自体が、最初のつまずきどころです。なぜでしょうか。考えてみてください。生まれたばかりの赤ちゃんに「自分で学校に申し込みに行きなさい」と言っても意味がありません。子どもは自分一人では、学ぶという営みを完成させられません。だから誰かがその子を学校に通わせる手続きをして、初めて権利が意味を持ちます。二項は一項を働かせるための仕掛けなんです。

条文日本国憲法 26条1項

日本国憲法 第二十六条第一項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

この主語の話は、次の節で詳しく見ていきます。

条文日本国憲法 26条2項

日本国憲法 第二十六条第二項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする

そこも大事な点です。世の中では「子どもの義務教育」という言い方が、よくされます。でも正確には違います。義務を負うのは保護者です。子どもではありません。この言い換えの違いは、言葉の綾では終わりません。「義務教育」という言葉だけを聞くと、子どもの側に「学校に行かなければならない」という義務があるように響きます。でも、条文が義務を課しているのは保護者です。子どもではありません。子どもが学校に通えない事情があったとき、それが誰の話になるのか、そこがポイントです。答える前に、言葉を一つ確かめておきましょう。ここで言う普通教育とは、小学校・中学校・高校で行われる、専門教育ではない一般的な教育のことです。そのうえで、まず問われるのは、保護者が普通教育を受けさせる義務を、きちんと果たそうとしているかどうかです。子ども自身が「サボっている」かどうか、という話には、なりません。

「子どもの義務教育」という日常の言い方は、この主語のずれを覆い隠してしまうんです。補助輪がなければ、自転車が倒れてしまうのと同じように、義務という支えがなければ、子どもの権利は現実には機能しません。無償の話は、今日の最後の節で、もう一度詳しく見ます。どこまでが無料になるのか、という話です。まず今日は、一項の権利の中身から掘り下げていきましょう。

誰の権利か——子どもの学習権

主体と学習権(条文の主語はすべて国民/性質上とくに子どもに重要/学習権=みずから学習できない子どもが大人一般に対して要求する権利) 図:主体と学習権

  • 条文の主語はすべて国民
  • 性質上とくに子どもに重要
  • 学習権=みずから学習できない子どもが大人一般に対して要求する権利

さっき見た一項、条文の主語は「すべて国民」でした。ただ、この権利には、性質上とくに重要な意味を持つ主体がいます。大人は自分の意思で学ぶ場所を選び、学び直すこともできます。でも子どもは違います。自分一人では学ぶ機会を作れません。だから二十六条は、子どもの学習権を中心に読むべきだと考えられています。この言葉を最高裁が、旭川学力テスト事件の中ではっきり語っています。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和五十一年五月二十一日

旭川学力テスト事件①——学習権(大人一般に対して教育を要求する権利) この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。

ここが大事な点です。もし、この権利が国だけに向いていたらどうなるでしょうか。両親が共働きで手が回らず、国も何もしてくれなかったら。学習権が大人一般に向けられているからこそ、そういう穴が生まれません。親も私学も教師も、そして国も。学習権を満たせる立場にある大人は、みんな、この要求の受け手になります。そして、これが今日いちばんの持ち帰りにつながります。「誰の権利か」がはっきりすると、「誰が教える中身を決めるか」も自動的に絞られてきます。決定権は、決める人の都合ではなく、子どもの学習要求を満たせる立場にあるかどうかで、配られています。

このつながりを頭に置きながら先に進みましょう。

法的性格——社会権的側面と自由権的側面

二十六条の法的性格(社会権的側面=制度の維持と条件整備を国に求める権利、教育基本法・学校教育法が具体化/自由権的側面①=すでにある制度を使わせろという権利/自由権的側面②=ある中身の教育を強制するのはやめろという権利) 図:二十六条の法的性格

  • 社会権的側面=制度の維持と条件整備を国に求める権利、教育基本法・学校教育法が具体化
  • 自由権的側面①=すでにある制度を使わせろという権利
  • 自由権的側面②=ある中身の教育を強制するのはやめろという権利

ここで少し立ち止まって、二十六条の性格を整理しておきましょう。社会権は、どれも二つの顔を持ちます。一つは、国に「動いてくれ」と求める社会権的側面です。学校という制度を作り続け、維持すること。そして教員を配置し、施設を整えるなど、学べる条件を整えることです。この二つを実際に形にしているのが、教育基本法と学校教育法です。教育基本法は、教育がめざす目的や理念を定める法律です。学校教育法は、学校の種類や仕組みそのものを定める法律です。この二つの法律があって初めて、教育を受ける権利は、絵に描いた餅で終わらずにすみます。

もう一つは、国に「余計なことをするな」と言う自由権的側面です。二十六条の自由権的側面は、さらに二つに分かれます。ここで、方向が逆になっている点に注意してください。一つ目は「使わせろ」という方向です。もう用意されている学校や制度を、正当な理由もなく使わせない、ということを許さない権利です。二つ目は「やめろ」という方向です。ある中身の教育を、押しつけるのをやめろ、という権利です。一つ目は、たとえば、正当な理由もなく退学させたり、通わせなかったりすることを許さない、というイメージです。二つ目は、たとえば、特定の立場だけを唯一正しいものとして教え込み、それ以外の見方を教えることを禁じるような教育。そういう中身を押しつけられない権利、というイメージです。

この二つ目、実は今日の後半でもう一度そのまま出てきます。旭川学力テスト事件が引いた「越えられない線」。最高裁が使った言葉で言えば、子どもが自分で考え自分の足で立てる人間に育っていくのを邪魔するような教育の強制、これとまったく同じ内容を指しているんです。今は、名前と中身、そして向きの違いだけ覚えておいてください。入口に鍵をかけるな、というのが一つ目。中身に手を突っ込むな、というのが二つ目。そう覚えると区別しやすいと思います。

誰が決めるのか——二つの極端な考え方

二つの極端な考え方と最高裁の評価(国家教育権説=国が決めるという考え方/国民教育権説=親を中心とする国民全体が決めるという考え方/最高裁の評価=ともに極端かつ一方的) 図:二つの極端な考え方と最高裁の評価

  • 国家教育権説=国が決めるという考え方
  • 国民教育権説=親を中心とする国民全体が決めるという考え方
  • 最高裁の評価=ともに極端かつ一方的

さて、ここからが今日の核心です。冒頭の問いに戻りましょう。教える中身を誰が決めるのか。この問いには、かつて大きく二つの考え方がありました。一つは、国が決めるという考え方です。もう一つは、親を中心とする国民全体が決めるという考え方です。ここで注意してほしいことがあります。この二つ目の考え方には「国民教育権説」という名前がついています。そこ、よく間違えられるところです。逆です。「国民」教育権説は、国ではなく、親を中心とする国民全体が決めるという考え方です。一つ目の、国が決めるという考え方の名前は「国家教育権説」と言います。

だから先に中身を頭に入れておくことが大事なんです。この二つの考え方は、それぞれ危うさを持っています。たとえば、理科の授業で扱う内容を、国が全国一律に決めてしまってよいでしょうか。時々の政治の考え方が、教室にそのまま持ち込まれそうです。それが国家教育権説の危うさです。では逆に、各学校の教師の判断だけに、すべて委ねてよいでしょうか。学校ごとに教える内容がばらばらになりそうですね。全国的な教育の水準を誰も確保できなくなります。それが国民教育権説の危うさです。最高裁は旭川学力テスト事件で、この二つの考え方に、はっきりと答えを出しています。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和五十一年五月二十一日

旭川学力テスト事件②——二つの見解の排斥(ともに極端かつ一方的) 当裁判所は、右の二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできないと考える。

国が決めるのか、親と教師が決めるのか。どちらか一方が全部決めるという発想そのものを、最高裁は採りませんでした。最高裁が何を置いたのか、そこが今日の本題です。次の節で詳しく見ていきましょう。

判例の答え——親・私学・教師にも教育の自由がある

旭川学力テスト事件の三段(①親・私学・教師にそれぞれ教育の自由/②国も必要かつ相当な範囲で権能を持つ/③越えられない線=二十六条・十三条) 図:旭川学力テスト事件の三段

  • ①親・私学・教師にそれぞれ教育の自由
  • ②国も必要かつ相当な範囲で権能を持つ
  • ③越えられない線=二十六条・十三条

最高裁は、二つの考え方を退けたあと、三段構えの答えを置きました。一段目はこれです。子どもの学習権を満たせる位置にいる大人——親、私立学校、教師——には、その責任の裏返しとして、教育の自由が認められる。さっき見た学習権を思い出してください。学習権は大人一般に向けられた権利でした。親、私学、教師は、みんな、その学習権を満たしうる立場にいます。なぜ責任から自由が出てくるのか。ここを飛ばさずに見ておきましょう。学習要求を満たすというのは、その子に何をどう教えるかを選ぶということです。選ぶ余地がなければ満たしようがありません。

責任と自由は表と裏で一組です。だから、それぞれに教育の自由が認められるんです。たとえば、独自の教育方針を掲げる学校が、その方針に沿ったカリキュラムを組む自由、といったイメージです。親の教育の自由は、たとえば、その子の体調や性格に合わせて、家庭でどう学ばせるかを決める。そういうイメージです。ただし、一つだけ注意してほしいことがあります。親、私学、教師の中で、教師の教育の自由だけは完全なものではありません。そこに、大学の先生との違いが関わってきます。学問の自由の回で、大学の先生には教授の自由が認められると確認しましたね。

今日、その違いを根っこから言語化します。大学の先生の教授の自由は、学問の自由の一部として、研究者自身の自律から認められる自由です。これに対して、小中高の先生の教育の自由は、子どもの学習権を満たす責務の裏返しとして語られます。ただし、根拠になる条文まで分かれているわけではありません。判例は、小中高の先生についても、学問の自由を定めた二十三条を根拠に、一定の範囲で教授の自由を認めています。学説には、子どもの学習権を実質化する権利として二十六条に根拠を求める見方や、両方に求める見方もあります。ただ判例は二十三条から出発しています。同じ条文から出発しても、認められる理由と広さが違う。ここが今日の急所です。ここで少し立ち止まりましょう。大学の先生には認められる教授の自由が、中学校や高校の先生には、なぜ同じようには認められないのでしょうか?

次の節で、最高裁が挙げた三つの理由を見ていきましょう。

国の権能——三つの理由と、必要かつ相当な範囲

教育内容決定権の配分図(A=親・B=私学・C=教師=それぞれ学習権を満たす責務/D=国=必要かつ相当と認められる範囲で権能) 図:教育内容決定権の配分図

  • A=親・B=私学・C=教師=それぞれ学習権を満たす責務
  • D=国=必要かつ相当と認められる範囲で権能

最高裁は、普通教育の教師に完全な教授の自由を認めない理由として、三つを挙げています。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和五十一年五月二十一日。……は判旨中略

旭川学力テスト事件③——教師の教育の自由の限界(批判能力・学校選択・全国水準の三つの理由) 大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく……普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。

一つずつ確認しましょう。一つ目は、児童生徒には教える内容を批判する能力が備わっていないこと。大学のゼミでは、学生が教員の説に反論したり、別の文献を持ち出したりできます。でも中学校の理科の授業で、生徒が教師の説明そのものを批判的に検証するのは簡単ではありません。二つ目は、子どもの側に学校や教師を選ぶ余地が乏しいこと。大学は複数の大学から自分の意思で選んで入ります。でも義務教育の年齢の子どもは、多くの場合、住んでいる地域の学校に通うほかありません。三つ目は、教育の機会均等をはかるうえで、全国どこでも同じくらいの質を保たなければならない、という要請です。どの地域に生まれても一定の教育を受けられるようにする。これも大学には無い要請です。

大学のゼミでは教員が読む文献も進め方も自分の判断で決められますが、普通教育の教師は、検定教科書と学習指導要領という共通の枠の中で、教え方を工夫する自由を持つにとどまります。この三つの理由があるからこそ、教師の自由だけでは足りないところが残ります。そこに、国の出番が生まれます。判旨は、国に権能を認める理由も述べています。子ども自身の利益を守るため、そして、子どもがきちんと育つことに社会全体が寄せる関心にこたえるためです。たとえば、ある学校が理科の授業をほとんどやらなかったとします。その子はあとから自分で取り返すことができません。他の学校と比べて不公平だという話ではありません。その子自身が取り返せないから、国が最低限の中身を決めておくんです。社会全体が寄せる関心のほうは、その子が育つことがその家庭の中だけで完結しない、という意味です。つまり、国が出てくる理由も、子どもの学習権を満たすという目的から来ています。決める側の都合ではありません。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和五十一年五月二十一日。……は判旨中略

旭川学力テスト事件④——国の権能(必要かつ相当と認められる範囲) 一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は……あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。

判例は、この範囲そのものを数字や一覧で定義してはいません。ただ、外側の枠は次の節ではっきり示されます。外枠が見えると内側の広さも推測できるようになります。この三つの理由が、大学と何が違うのかを根っこから説明しています。教師の教育の自由が認められるけれど完全ではない。その理由が、やっと言葉になりました。

越えられない線——国家的介入の限界

教育内容決定権の外周(外周=越えられない線=二十六条・十三条/国家的介入の例=誤った知識や一方的な観念の押しつけ) 図:教育内容決定権の外周

  • 外周=越えられない線=二十六条・十三条
  • 国家的介入の例=誤った知識や一方的な観念の押しつけ

では、その外側の枠を見ていきましょう。国の権能にも、越えてはいけない線があります。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和五十一年五月二十一日

旭川学力テスト事件⑤——越えられない線(国家的介入の限界) 子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができる。

実は、まったく同じ内容を指しています。自由権的側面の二つ目、覚えていますか。さきほどの判旨の言葉で言えば、子どもが一人の独立した人格に育つのを妨げるような教育、その排除を求める権利でした。先に置いた道具が、ここで具体的な相手を得ました。相手の名前は国家的介入です。十三条は、幸福追求権の回で見た、一人ひとりを個人として尊重せよ、と定めた条文です。この基準は、条文のどこにも書かれていません。最高裁が判例で作り出した線です。ここで、線のどちら側にあるか、二つ並べて確かめておきましょう。たとえば、特定の立場だけを唯一正しいものとして教え込み、それ以外の見方を教えることを禁じるような教育を、国が強制する場合。これは線の外側、越えてしまっている側です。

これに対して、全国どこの学校でも一定の学力を身につけられるように、学習指導要領で教える単元の範囲を示す程度であれば、この線には触れません。特定の結論を押しつけるか、共通の土台を示すだけか。ここが分かれ目です。なぜこの線が必要なのでしょうか。もう一度、今日の出発点に戻りましょう。二十六条が守ろうとしているのは、子どもの学習権でした。教える中身を決める力は、決める側の都合で配られたわけではありません。子どもの学習要求を満たせる位置にいるかどうかが、配り方を決めていました。もし国が誤った知識を押しつけてよいとしたら、それは子どもの学習権を満たすどころか、子どもを国家の統制の対象にしてしまいます。

これが決め手です。だから二十六条と十三条は、ここに越えられない線を引いているんです。

論文で書く規範:旭川学力テスト事件の結論——教育内容決定権の三段 ①子どもの学習権を満たせる位置にいる大人——親・私学・教師——には、その責任の裏返しとして、教育の自由が認められる(ただし教師の自由は完全ではない。理由=児童生徒の批判能力の欠如・学校選択の余地の乏しさ・全国的水準確保の要請)。 ②国も、子ども自身の利益を守り、子どもの成長に対する社会公共の関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲で、教育の中身を決める権能を持つ。 ③子どもが、一人の自立した人格として育っていくことを踏みにじるような国家的介入は、憲法二十六条・十三条の規定上からも許されない。 (規範(最高裁判所大法廷判決・昭和五十一年五月二十一日)。答案の書き方は論文シリーズで扱う)

この三段が、旭川学力テスト事件が出した答えの全体です。次は、この答えが実際の教育現場で、どう働いているかを見ていきましょう。

学習指導要領の法的拘束力——伝習館高校事件

学習指導要領の位置づけ(委任の系列=法律〈学校教育法〉→省令〈施行規則〉→告示〈学習指導要領〉/告示するのは文部科学大臣・判決当時は文部大臣/目安にすぎないなら破っても違法ではないが法規なら違反が違法になる/伝習館高校事件が法規としての性質を認めた) 図:学習指導要領の位置づけ

  • 委任の系列=法律〈学校教育法〉→省令〈施行規則〉→告示〈学習指導要領〉
  • 告示するのは文部科学大臣・判決当時は文部大臣
  • 目安にすぎないなら破っても違法ではないが法規なら違反が違法になる
  • 伝習館高校事件が法規としての性質を認めた

「必要かつ相当と認められる範囲」。この抽象的な言葉が、現実にはどんな形で働いているんでしょうか。その答えが、学習指導要領です。学校教育法施行規則にもとづいて、教育課程の基準を定めたものです。ただ、これから見る判決が出た当時の名前は文部省でした。判決を引用するときは当時のまま、今の制度として語るときは文部科学省と、使い分けてください。この学習指導要領に、どれくらいの強さがあるのか。これが争われた事件があります。伝習館高校事件です。高等学校の教師が、学習指導要領の定める内容から外れた授業を行ったとして、懲戒免職の処分を受けたことをめぐって争われた事件です。

ただし、その処分の重さそのものが妥当だったかどうかは、別の判決で扱われる、別の論点です。今日扱うのは、その手前の話にとどめます。学習指導要領という基準に、そもそも、どれくらいの強さがあるのか。ここだけに絞ります。もし、ただの目安にすぎないなら、それを守らなくても直ちに違法にはなりません。せいぜい、望ましくないという評価にとどまります。でも、法規としての性質を持つなら、話が変わります。そこから外れること自体が違反であり、違法という評価につながります。この事件で最高裁は、はっきりと述べています。

判例最高裁判所第一小法廷判決・平成2年1月18日

伝習館高校事件——学習指導要領の法規性(旭川学力テスト事件への明示引用) 高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示第九四号)は法規としての性質を有するとした原審の判断は、正当として是認することができ、右学習指導要領の性質をそのように解することが憲法二三条、二六条に違反するものでないことは、最高裁昭和四三年(あ)第一六一四号同五一年五月二一日大法廷判決(刑集三〇巻五号六一五頁)の趣旨とするところである。

単なる参考資料ではなく、法規としての拘束力を持つ、というのが最高裁の結論です。なぜ単なる目安ではなく法規だと言えるのか、そこが今日いちばんつながってほしいところです。実は、この判決自身は理由を述べていません。原審の判断をそのとおりだと認めただけです。ですから、ここからはここまでの材料で考えます。さっき見た国の権能を思い出してください。国は、必要かつ相当な範囲で教育内容を決定する権能を持っていました。学習指導要領は、その権能を現実に実行する手段なんです。もう一つ、形の面があります。学習指導要領は、法律である学校教育法から、省令である施行規則へ、そして告示へ、という委任の系列にもとづいて公示されています。中身の面で国の権能を実行する手段であり、形の面でも法律の系列に支えられている。だからこそ単なる目安ではなく、拘束力のある基準として位置づけられます。

判決自身も、この判断が旭川学力テスト事件の趣旨に沿うものだと、はっきり述べています。国の権能をどこまで具体化してよいかという問いが、学習指導要領という形で、いつも顔を出しているんです。

教育を受けさせる義務と、義務教育の無償の範囲

無償の範囲(授業料=憲法二十六条二項後段・判例で確定/教科書=立法政策の問題として法律による上乗せ・義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律ほか) 図:無償の範囲

  • 授業料=憲法二十六条二項後段・判例で確定
  • 教科書=立法政策の問題として法律による上乗せ・義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律ほか

最後に、二項に戻りましょう。「義務教育は、これを無償とする」という一文です。無償の範囲がどこまでかを争った判決があります。教科書代なども無償に含まれるはずだ、と主張した事件です。最高裁はこう述べました。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和三十九年二月二十六日。……は判旨中略

義務教育の無償が争われた判決(授業料不徴収の意味) 憲法二六条二項後段の「義務教育は、これを無償とする。」という意義は、国が義務教育を提供するにつき有償としないこと、換言すれば、子女の保護者に対しその子女に普通教育を受けさせるにつき、その対価を徴収しないことを定めたものであり、教育提供に対する対価とは授業料を意味するものと認められるから、同条項の無償とは授業料不徴収の意味と解するのが相当である。……憲法の義務教育は無償とするとの規定は、授業料のほかに、教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものと解することはできない。……国が保護者の教科書等の費用の負担についても、これをできるだけ軽減するよう配慮、努力することは望ましいところであるが、それは、国の財政等の事情を考慮して立法政策の問題として解決すべき事柄であつて、憲法の前記法条の規定するところではない

判決の言葉をもう一度見てください。「教育提供に対する対価」とは、授業料を意味する、とはっきり書いてあります。だから、教科書や制服代、修学旅行の積立金までは、この条項からは出てきません。実際に無料でもらえることと、それが憲法の要請かどうかは別問題です。そこが大事な区別です。教科書が無償なのは、憲法の要請ではなく、法律による上乗せです。判決自身も、この点にはっきり触れています。教科書などの費用をどこまで軽くするかは、国の財政の事情を見ながら決める、立法政策の問題だと述べているんです。義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律という法律が、実際にその政策を形にしています。

今の教科書無償の法律を廃止しても、二十六条二項の違憲にはなりません。憲法が直接保障しているのは授業料の無償だけなので、教科書の無償を定めた法律をやめても、二十六条二項に違反するとまでは言えません。憲法の最低ラインと、法律による上乗せは、そこまではっきり別物なんです。受益権の回で、憲法は下限であって上限ではない、と確認しましたね。なぜ判例は、無償の範囲を授業料だけに絞ったんでしょうか。もし教科書や学用品まで憲法上の無償に含めてしまうと、どこまでが必要な費用か際限なく広がってしまいます。だから判例は、対価という言葉がはっきり指す「授業料」に絞って、憲法の保障を認めました。それ以上の上乗せは、財政の状況を見ながら法律で判断すればよい。これが決め手です。

当たり前に見える仕組みほど、実は憲法ではなく法律が支えている、ということがよくあります。

今日の地図(保存版)

今日の結論(国が全部でも親と教師が全部でもない/親・私学・教師=学習権を満たす責務/国=必要かつ相当な範囲/外周=二十六条・十三条の越えられない線/根っこ=子どもの学習権) 図:今日の結論

  • 国が全部でも親と教師が全部でもない
  • 親・私学・教師=学習権を満たす責務
  • 国=必要かつ相当な範囲
  • 外周=二十六条・十三条の越えられない線
  • 根っこ=子どもの学習権

それでは、今日の内容をまとめましょう。冒頭の問いはこれでした。教える中身を誰が決めるのか。最高裁は、どちらか一方に答えを求めませんでした。親、私学、教師には、それぞれ学習権を満たす責務として教育の自由が認められる。ただし教師の自由は完全ではありません。国も、必要かつ相当と認められる範囲で、教育内容を決定する権能を持つ。そして、その外側には越えられない線がある。子どもが、誰かに言われるままではなく自分の考えで育っていくのを妨げるような、国からの働きかけは許されません。教育内容を決める権限は、誰か一人が独占するものではありません。子どもの学習権を満たせる立場にある者どうしで、分け合っているんです。国の取り分には「必要かつ相当」という枠があり、その外側には、二十六条と十三条が引いた越えられない線があります。

最後に、もう一度確認しておきましょう。二十六条が守ろうとしているのは、子どもの学習権です。決定権は、決める人の都合ではなく、子どもの学習要求を満たせる立場にあるかどうかで配られています。論点名を丸暗記するだけでは絶対に出てこない筋です。この筋さえつかんでおけば、学習指導要領の話も、義務教育の無償の話も、全部、同じ根っこから説明がつきます。最後に、少しだけ宿題を残しておきます。社会権には、あと二つの柱が残っています。勤労の権利と、労働基本権です。それでは、また、お会いしましょう。

参照条文

  • 日本国憲法 26条1項
  • 日本国憲法 26条2項

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