予見可能性の対象と程度——誰を基準に、何を、どこまで
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第5章 過失 ②/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
前回の到達点を受ける——今日の問い
図:今日の問い——予見可能性は、何を、どこまで
前回、過失犯の骨組みを組み立てました。中心は結果回避義務で、予見可能性はあくまで前提でした。では、その前提のほうを、今日は正面から開けます。前回組み立てた到達点を踏まえると、予見可能性は誰を基準に、何について、どこまで必要なんでしょうか?予見可能性という一言には、実は三つの問いが隠れています。今日一日で、その三つを、ひとつずつ開けていきましょう。
なぜ予見可能性が要るのか
図:なぜ予見可能性が要るのか
中心でないなら要らないのでは——多くの人が、そこで立ち止まります。中心でないからといって、要らないわけではありません。考えてみてください。結果を予見する可能性が、まったくのゼロだったとします。そのとき、その結果を回避しなさいという義務を負わせることができるでしょうか。避けようがありませんよね。だから、予見可能性がゼロなら、結果回避義務そのものが立たないんです。中心ではないけれど、無ければ中心そのものが成り立たない。これが、予見可能性が前提として要る理由です。そのゼロの場面は、あとで「予見可能性そのものがゼロのとき」という形で、設例で実物を確かめます。
予見可能性の基準者——誰を基準に
図:予見可能性は、誰を基準に測るか
前回、過失を3つの関門のどこで検討するか——体系的地位が変わると、答案の書く場所も変わるという話をしました。今日は、その2か所それぞれで予見可能性を誰の目で測るのかという話をします。構成要件のところで問題になる過失——構成要件的過失は一般人を基準に測ります。責任のところで問題になる過失——責任過失は行為者個人を基準に測ります。呼び方も、それぞれあります。一般人を基準にする側を客観的注意義務、行為者個人を基準にする側を主観的注意義務と呼びます。客観・主観という言葉は、混ざりやすいところです。構成要件の部品を並べた回で出てきた客観・主観は、他人が見て分かるか、本人の頭の中か、という部品の置き場所の話でした。今日の客観・主観は、誰の目で測るか——一般人か、その人自身か、です。別物として持ってください。
図:なぜ、基準者が2つに分かれるのか
構成要件は、社会通念を基礎とした当罰的行為の類型です。だから一般人という物差しで測ります。社会の常識で型どりしたもの、という意味です。人を殺す型、物を盗む型、というように。責任は、行為者に対する非難可能性です。だから、その行為者自身を物差しにします。その行為者を責められるかどうか、です。この2つの基準は、あとで「基準者が2つある実益」という場面で、同じ事案の結論が実際に割れる形で体感してもらいます。
予見可能性の対象——結果と因果関係
図:予見可能性の対象——2つ
もう1つ、決めておくことがあります。予見可能性は何について必要なのか、です。対象は2つです。1つは結果、もう1つは因果関係です。ただ、危険の現実化を判断したあの回で問うたのは「因果関係があるかどうか」でした。今日問うのは「その因果の経過を予見できたかどうか」です。ここは混同しやすいので、意識して切り分けてください。この2つの対象、結果と因果関係、それぞれに「どこまで」予見できればよいのかという問いが続きます。
設例S——問うのは「Aだったか」ではなく「人だったか」
図:事案の骨格——建物解体現場のXとA
では、設例で体感してもらいます。舞台は、建物の解体現場です。Xは、2階から不要になった鉄パイプの束を、下の集積場所へ投げ落とす作業をしていました。下は、立入禁止の柵で囲ってありました。ただ、その柵には人が通り抜けられる破れ目がありました。近道として、そこを通り抜ける人が実際にいることは、現場の作業員のあいだで知られていました。Xも、それを知っていました。ある日Xが下を見ずに束を投げたところ、破れ目から入り込んでいたAに当たり、Aが死亡しました。Aがそこにいることは、Xはまったく知りませんでした。ここで、いったん立ち止まって考えてみましょう。Aがそこにいることは、予見できませんでした。それでも、Xに過失はあるでしょうか?
知らなかったのだから過失は無い——多くの人が、そう感じます。でも、それでは、まだ何かが足りません。
図:「Aだったか」ではなく「人だったか」
ここで、予見の対象を分けてみます。「Aという、その人」がそこにいることは、予見できませんでした。でも、もう1段、対象を上げてみてください。「柵の内側に人がいて、投げた束が当たって死ぬ」——これは、どうでしょう。予見できましたね。この「柵の内側にいる人」という対象、法律の言葉で言えば構成要件レベルの結果です。構成要件の部品を並べた回で出てきた構成要件的結果と、同じものです。今日は「どのレベルで捉えるか」を問うているので、構成要件レベルの結果、という言い方で通します。これが予見できた以上、「下を見てから投げる」という結果回避義務がありました。
だから、Xには過失があります。この違いを、条文で確かめてみましょう。
条文自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律5条
自動車運転処罰法5条(過失運転致死傷) 自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、七年以下の拘禁刑又は百万円以下の罰金に処する。 ただし、その傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。
これは、自動車の運転で人を死傷させたときの条文です。今日の設例とは別の場面ですが、条文の書きぶりを見てください。条文が要求しているのは「人」を死傷させたことであって、特定の誰かではありません。ここは、覚えるべき規範ではありません。条文の文言、そのものです。前回、過失を処罰する条文は刑法典に8か条しかない、自動車運転など特別法には別の規定がある、という話をしましたね。それが、この条文です。
設例T——予見可能性そのものがゼロのとき
図:設例T——同じ現場で、条件だけを変える
もう1つ、変奏を用意しました。設例Tです。同じ現場です。ただし、柵に破れ目は無く、人が入り込んだ形跡も一度もありませんでした。ところが、その日に限って、Aが高い塀を乗り越えて侵入していて束が当たりました。設例Sと、何が違うでしょうか?Aが死んだこと自体を予見できていない点は、設例Sと同じです。でも、もう1段の対象、柵の内側に人がいることは、どうでしょう。構成要件レベルの結果すら、予見できません。結果回避義務も、立ちません。だから、設例Tでは過失はありません。
図:設例Sと設例T——程度でなく有無の違い
ここを、正確に区別してほしいんです。設例Sと設例Tの違いは、「どのくらい予見できたか」という程度の差ではありません。「予見可能性そのものが、あるか無いか」という一線です。この一線を越えて初めて、「では、どこまで予見できれば足りるのか」という程度の話に進めます。
結果の予見可能性の程度——危惧感説と通説
図:ここからは「どこまで」の話
ここからが、今日いちばんの山場です。結果について、どこまで予見できれば足りるのか。さっきは「柵の内側に人がいる」ことが予見できるか、という話でしたね。今度は、その予見の程度、どのくらい具体的に予見できていればよいかという話です。まず、危惧感説と呼ばれる考え方を見ておきましょう。危惧感説は、何が起こるか分からないという漠然とした不安感で足りる、とします。なぜそこまで緩めるのか。理由は、公害事件などで過失犯の処罰を広げる必要がある、というものです。危惧感説は、通説でも判例でもありません。通説は、構成要件レベルの結果についての予見可能性が必要であり、それで足りる、とします。
実は、この2つは、たった1つの理由から出てくるんです。
⭐ 論文で書く規範:結果の予見可能性の程度——通説の規範 構成要件レベルの結果についての予見可能性が必要であり、それで足りる。 予見可能性は結果回避義務を導くものであるから、一般人を結果回避へと動機づける程度の具体的予見可能性が必要である。 一般人を結果回避へと動機づける程度の予見可能性があれば足りると解すべきであるから、法定的符合説にみられる程度の抽象的な認識可能性をもって十分であると解すべきである。 (規範(通説で立てる))
理由を順番に見ましょう。予見可能性は、結果回避義務を導くものです。だから、一般人を結果回避へ動機づける程度の具体的な予見可能性が必要です。これが下限です。ここより緩いと、たとえば漠然とした不安感だけでは一般人は結果回避へ動機づけられません。危惧感説は、下限を割っています。一方で、一般人を動機づける程度の予見可能性があれば、それで足ります。だから、法定的符合説にみられる程度の抽象的な認識可能性で十分です。法定的符合説は、以前、錯誤の回で見た、どの程度の抽象度で符合を見るかという考え方です。細部まで一致していなくても、構成要件レベルで一致していれば足りるという発想がここでも生きています。
それが上限です。下限は、「柵の内側に人がいて、束が当たる」まで見えていたこと。ここまで見えたから、下を見てから投げよう、と動機づけられます。漠然とした不安感だけでは、下を見ようとまでは思えません。そこが、下限のすぐ外側です。「Aという人が、その日、破れ目から入ってくる」——そこまでは要りません。設例Sで「Aだったか」を問わなくてよかったのは、この上限があるからです。動機づけに要る情報が構成要件レベルまで——そこが対応づけです。回避行動を選ばせるのに、細部までは要りません。だから、動機づけに足りる水準と、法定的符合説が見る抽象度が、同じところに来ます。
図:予見可能性は、どこまで必要か
図にすると、1つの理由から下限と上限の両方が出てくることが、はっきり分かります。
図:危惧感説と通説——どこが違うか
整理すると、こうなります。危惧感説のように緩めすぎると、処罰の範囲が無制限に広がってしまいます。これが、前回名前だけ渡した宿題の答えです。これで三つ目の「どこまで」に、結果の側から線が引けました。「予見できなかった」という言い分が通るかどうかは、この線をどこに引くかで決まります。
判例で確かめる——結果の予見可能性
図:事案の骨格——無謀な運転と、後部荷台の2人
今、設例Sで見た論理が絵空事でないことを、実際の最高裁判断で確かめてみましょう。舞台は貨物自動車です。運転していた人が、指定された速度を大きく超えて走行し、ハンドル操作を誤って、道路脇の信号柱に車の左側後部を激突させました。この後部の荷台には、実は2人が同乗していました。運転していた人は、荷台に2人が乗っていることを知りませんでした。荷台にいた2人は、この衝突の衝撃で亡くなっています。助手席にいたもう1人も、怪我を負いました。運転していた人が、後部荷台に人が乗っていることを認識していなかった以上、過失は無いと言えるでしょうか。
さっきの設例Sと、そっくりですね。「そこにいることは知らなかった」という話と。最高裁の判断を、そのまま見てみましょう。
判例最高裁判所第二小法廷決定・平成元年3月14日
後部荷台の同乗者事件 被告人において、右のような無謀ともいうべき自動車運転をすれば人の死傷を伴ういかなる事故を惹起するかもしれないことは、当然認識しえたものというべきであるから、 たとえ被告人が自車の後部荷台に前記両名が乗車している事実を認識していなかつたとしても、右両名に関する業務上過失致死罪の成立を妨げないと解すべきであり、これと同旨の原判断は正当である。
無謀な運転をすれば、人の死傷を伴う事故を起こしかねないことは、当然認識できたと言っています。それでも、業務上過失致死罪の成立は妨げられない、としています。設例Sの論理は、実際の最高裁判断そのものでした。さっきの条文とは、別の事件です。この判断が出たのは、今の特別法ができるより、ずっと前です。当時は、刑法211条、業務上過失致死罪として扱われていました。同じ「人」という言葉の使われ方を確認するための、別々の材料です。
設例U——基準者が2つある実益
図:設例U——同じ事案で、Xだけが変わる
もう1つ、変奏を見てもらいます。設例Uです。設例Sの、Xという作業員が実はその日初めての新人だったとします。柵の破れ目のことも、人が通り抜けることも、誰からも知らされていませんでした。ここで、さっきの基準者の話を思い出してください。まず、一般人、その現場の通常の作業員を基準にしてみます。通常の作業員なら、破れ目のことも人が通ることも知っています。だから、一般人を基準にすれば予見できました。構成要件的過失は、あります。X個人を基準にすると、知りようがありませんでした。責任過失は、ありません。
図:設例U——基準者が2つある実益
整理すると、こうなります。責任過失が無い以上、犯罪は成立しません。ここが、前回の続きの実際の効き目です。
因果経過の予見可能性の程度——基本的部分
図:もう1つの対象——因果関係のほうへ
最後に、もう1つの対象、因果関係のほうを見ていきます。同じ発想が、そのまま妥当します。予見可能性は結果回避義務を導く、というあの理由です。因果経過については、その経過の基本的部分について予見できれば動機づけとしては十分です。細かい経路のすべてではなく、大きな筋道、という意味です。
⭐ 論文で書く規範:因果経過の予見可能性の程度 因果経過については、因果経過の基本的部分を予見できていれば足りる。 一般人を結果回避へと動機づけるのに、細部の機序まで見えている必要はないからである。 (規範(通説で立てる/この内容を認めた判例=最決平12・12・20))
具体的な機序、たとえばどういう経路をたどって結果に至ったか、その細部までは予見できる必要がありません。
図:因果経過は、どこまで予見できればよいか
この構造を、実際の最高裁判断で確かめてみましょう。
判例で確かめる——生駒トンネル火災事件
図:生駒トンネル火災事件——事案の骨格
舞台は、近畿日本鉄道東大阪線の生駒トンネルです。トンネル内の電力ケーブルの接続工事で、施工資格を持つ被告人が誘起電流を大地に流すための接地銅板の取り付けを怠りました。その結果、誘起電流が本来流れるべきでない部分に、長期間にわたって流れ続けました。そして、炭化導電路という電気を通す経路が形成され、火災が発生しました。予見できていたかどうか——そこが、この決定の急所です。判旨を、そのまま見てみましょう。
判例最高裁判所第二小法廷決定・平成12年12月20日
生駒トンネル火災事件 被告人は、右のような炭化導電路が形成されるという経過を具体的に予見することはできなかったとしても、右誘起電流が大地に流されずに本来流れるべきでない部分に長期間にわたり流れ続けることによって火災の発生に至る可能性があることを予見することはできたものというべきである。 したがって、本件火災発生の予見可能性を認めた原判決は、相当である。
炭化導電路が形成される、という具体的な経過までは予見できなくてもよい、と言っています。誘起電流が長期間流れ続けることで火災に至る可能性——その予見が、まさに基本的部分にあたります。実は、判旨には「基本的部分」という言葉は1度も出てきません。「基本的部分」は、学説がこの判断を整理するために使う言葉です。判例が実際に言っているのは、「具体的な機序までは要らない、火災に至る可能性が予見できればよい」というところまでです。答案でも同じです。「基本的部分」を、判例が述べた言葉として引かない——そこだけ、気をつけてください。
到達点——予見可能性を3つの問いに畳む
図:到達点——予見可能性を3つの問いに畳む
今日、開けてきた予見可能性の中身を、3つの問いに畳んでみましょう。1つ目、誰を基準に。一般人か、行為者個人か。2つ目、何について。結果か、因果関係か。3つ目、どこまで。構成要件レベルの結果か、因果経過の基本的部分か。この順番になるのは、前の問いの答えが決まらないと、次の問いが立たないからです。誰の目で測るかが決まらなければ、何を予見できたのかも決まりません。何について問うかが決まらなければ、どこまで、も測れません。設例Sなら、一般人の目で、結果について、構成要件レベルまで予見できた。だから過失あり、です。3つとも埋めて、はじめて結論が出ています。この3問が、そのまま答案を書く順番になります。
誰の目で、何について、どこまで。これを決めて、初めて結論が出ます。
今日の地図(保存版)
図:今日の地図
では、今日を振り返りましょう。予見可能性がゼロなら、結果回避義務そのものが立たない、という話から始めました。誰を基準に、は一般人と行為者個人の2つ。何について、は結果と因果関係の2つ。どこまで、は下限と上限で、危惧感説では緩やかすぎて、通説がちょうどよい線を引いていました。3つの設例で、その線引きが結論を左右することも確かめましたね。そして生駒トンネルの決定で、「基本的部分」という学説の言葉と、判旨そのものの違いも見ました。今日、扱えなかった話もあります。予見できたのに、結果回避義務が無いとされる場合が、実はあります。
211条の「業務」の意味や、過失致死傷罪そのものは各論の回で扱います。危険運転致死傷も、同じ法律の中にもっと重い類型があります。あちらも各論で扱います。失火罪、過失犯の共同正犯、過失による教唆や幇助も、それぞれの回で扱います。責任能力や期待可能性は、責任を学ぶ章で。結果的加重犯も、別の回で扱います。1つずつ、積み上げていきましょう。
参照条文
- 自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律5条