刑法ゼロから刑法#83

未遂の教唆と教唆犯の故意

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第9章 共犯 ⑳/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

前回の受けと、今日の問い

前回の受けと、今日残った1つの要件 図:前回の受けと、今日残った1つの要件

前編(#82)で、教唆犯の客観的な成立要件を確認しました。①教唆行為、②教唆に基づいて正犯が実行行為に出ること、既遂罪の教唆犯なら③正犯結果が発生すること、の3段階です。この回は、そこに残った主観面、④教唆犯の故意を扱います。教唆犯の故意が何を認識していればいいかが、今日の核心です。先に、こんな場面を考えてみてください。ある人のポケットが空っぽだと知っていながら、Aが「あいつの財布、抜いてこいよ」とBを唆したとします。盗めるはずがありません。Aは最初から失敗させるつもりでした。それでも、Aは罰せられるでしょうか。

問題の所在——故意はどこまで届くか

故意はどこまで届いていればよいか 図:故意はどこまで届いていればよいか

教唆行為をする段階で、Aには、自分が唆していることの認識はあります。問題は、その先です。②Bが実行行為に出ることまで分かっていれば足りるのか、それとも③結果が実際に発生することまで分かっていなければならないのか。ここで説が分かれます。

条文刑法38条1項本文

刑法38条1項 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。

犯罪を犯す意思、つまり故意がなければ、原則として罰しないというこの一般原則は、教唆犯にも及びます。だから、教唆犯が成立するには、単に①教唆行為をしただけでは足りず、その故意の中身をどう見るかが問われるんです。ここに、実行認識説と結果認識説という、2つの立場が対立します。

実行認識説

実行認識説——②まで届けば足りる 図:実行認識説——②まで届けば足りる

実行認識説は、②正犯が違法な実行行為に出ることまでの認識・認容があれば、教唆犯の故意として足りると考えます。ポイントは、教唆犯がそもそもなぜ処罰されるのか、という出発点にあります。教唆犯は、他人をそそのかして犯罪をする気にさせ、実行に向かわせたことをとらえて処罰される類型です。つまり教唆行為は、殺人罪のように結果発生までを内容とする基本的構成要件そのものではなく、他人に違法な実行行為をさせるという、修正された構成要件に当たる行為なのです。だとすれば、故意が及ぶべき範囲も、基本的構成要件が求める内容、つまり結果の発生にまで広がっている必要はない、ということになります。

実行行為までしか見ていなくても、結果はどうなってもいいという話にはなりません。この点は誤解されやすい所です。実行認識説も、結果が起きてよいとまでは言っていません。この説は、教唆犯の故意として何を要求するかの線を、②で引いているだけです。結果が実際に起きるかどうかは、あくまで正犯の側の問題として切り離しているんです。

結果認識説

共犯の処罰根拠、何だったか 図:共犯の処罰根拠、何だったか

もう1つの説の前提として、共犯を罰してよい根拠は、因果的共犯論、惹起説です。共犯も、正犯の実行行為を通じて、法益侵害という結果を引き起こしたから罰せられる、という考え方です。この根拠を、教唆犯の故意にもそのまま当てはめるのが、結果認識説です。

結果認識説——③まで要る 図:結果認識説——③まで要る

結果認識説は、共犯の処罰根拠が、正犯の実行行為を通じて法益侵害という結果を引き起こしたことにある以上、教唆犯の故意も、その結果についての認識・認容にまで及んでいなければ一貫しないと考えます。だから、②実行行為までの認識では足りず、③結果発生までの認識・認容を要求します。具体的には、Aが唆した結果、Bが実際にどんな結果を引き起こすかまでAの認識が届いていなければ、Aの行為とBが引き起こした結果とのあいだの結びつきを、Aの故意の側から説明できません。共犯の処罰根拠を結果への因果性に置く以上、その因果性の届く先まで、故意も届いていなければならない、という一貫性の要求です。

山場1:未遂の教唆の可罰性

Aは、相手のポケットが空だと知っていながら唆した 図:Aは、相手のポケットが空だと知っていながら唆した

冒頭の場面に戻ります。Aは、狙う相手が少し前にコンビニで支払いをして、財布をポケットに入れ忘れているのを見ていました。ポケットが空だと知ったうえで、Aは「財布、抜いてこいよ」とBを唆します。Bは実際にポケットへ手を入れました。これは窃盗罪の実行の着手にあたります。でも、何も入っていないので、何も取れません。この、教唆者が最初から未遂に終わらせるつもりで唆す場面は、一般に、アジャン・プロヴォカトゥールと呼ばれます。おとり捜査との関わりが議論されることもありますが、今日はそこには踏み込みません。ここで問われているのは、Bに窃盗未遂罪が成立するとして、Aにその教唆犯、つまり窃盗未遂罪の教唆犯が成立するかです。答えは、実行認識説と結果認識説のどちらを採るかで、真っ二つに分かれます。

実行認識説では、②実行行為までの認識で足ります。Aは、Bが実行に着手するところまでは、はっきり望んでいました。だから、実行認識説では教唆犯の故意がそろい、Aには窃盗未遂罪の教唆犯が成立します。

実行認識説と結果認識説の対比——未遂の教唆の結論 図:実行認識説と結果認識説の対比——未遂の教唆の結論

結果認識説では、Aの認識は②までしかなく、③結果発生までの認識・認容がありません。だから、教唆犯としての故意を欠きます。では、故意がなくても、不注意で他人に犯罪を決意させた、つまり過失による教唆犯として罰する余地はないか。そこは、過失による教唆犯の成立を認めないのが通説です。詳しい理由は別の回に譲りますが、この通説を前提にする限り、故意を欠くAには、教唆犯は成立しません。つまり不可罰です。整理すると、実行認識説なら可罰、結果認識説なら不可罰。2つの論点のように見えますが、実は同じ物差しの目盛りを、Aの事例に当てはめているだけです。

Aが財布は入っていると思って本気で盗ませるつもりで唆していた場合は、Aの認識は③結果発生まで届いています。実行認識説でも結果認識説でも故意はそろうので、Bが空振りに終わっても、Aには窃盗未遂罪の教唆犯が成立します。説が分かれるのは、Aが最初から③を望んでいなかった、今日の場面だけなんです。表で見ると分かるとおり、違いはたった1点です。②実行行為までの認識で線を引くか、③結果発生まで線を引くか。その線引きの位置が、そのままAへの評価を裏返しています。

山場2:意外にも結果が発生してしまった場合

故障していたカメラ——結果が出てしまった場合 図:故障していたカメラ——結果が出てしまった場合

もう1つ、場面を変えます。ここで検討するのは、窃盗罪の教唆犯が成立するかどうかだけです。窓を割ることや家に立ち入ることは、Aも実現を望んでいたので、この山場では問題にしません。Aは、空き家の管理会社のチラシで防犯カメラの設置を知り、そのカメラが今も作動していると思い込んでいました。「窓を割って中の物を持ち出せ。カメラに映って、どうせ捕まる。持ち出せやしない」とBを唆します。ところが、そのカメラは半年前から故障していました。Bは窓を割って侵入し、誰にも見つからないまま、金品を持ち去ってしまいます。Aが望んでいたのは、窃盗未遂どまりだったのに、現実には窃盗が既遂に達してしまいました。

この場合も、どちらの説でも同じ結論になるわけではありません。ここでも説によって道が分かれます。結果認識説、つまりさっきの不可罰説の側に立てば、答えは単純です。Aには、もともと③結果発生の認識・認容がありません。結果が現実に生じたかどうかは関係なく、教唆犯としての故意はもとから欠けています。だから、ここでも窃盗罪の教唆犯は成立しません。過失犯を罰する規定があれば、その成否を別途検討するだけです。実行認識説の側では、Aには②までの認識、つまり教唆犯としての故意がすでに認められています。問題は、その故意の中身と、実際に起きた結果とのあいだにズレがあることです。未遂の教唆のつもりだった故意で、既遂の結果が生じてしまった。共犯者が思い描いていた事実と、正犯が実際に実現した事実とが食い違う場面を、共犯の錯誤と呼びます。有力な見解は、このズレを共犯の錯誤の一種として扱います。事実の錯誤で見たとおり、故意は、認識していた事実と実際に起きた事実とが、構成要件として重なり合う限度でしか認められません。Aが認識していたのは窃盗の未遂まで、実際に起きたのは窃盗の既遂です。重なり合うのは未遂罪の部分だけなので、未遂罪の限度でだけ、教唆犯の成立を認めるという処理になります。共犯の錯誤そのものの詳しい扱いは、別の回に譲ります。

ここには、決まった正解があるわけではなく、自分で考えてほしい論点として残しておきます。見方の1つは、結果の認識はいらないと言っておきながら、結果が出た途端に錯誤の理屈で帳尻を合わせているようにも映る、というものです。もう1つの見方は、実行認識説は最初から教唆犯の故意を②までと線引きしているのだから、その線の外側、つまり③で現実に起きたことは、Aの故意が届いていない出来事として扱うのが理屈として一貫している、というものです。窓のケースに当てはめて、自分ならどちらの見方を取るか、考えてみてください。

帰結・選び方の基準

どちらの説でも書けるが、選び方の基準はある 図:どちらの説でも書けるが、選び方の基準はある

実行認識説、結果認識説、どちらの立場でも答案は書けます。ただ、選ぶときの基準は示せます。共犯の処罰根拠を惹起説、つまり正犯の実行行為を通じて結果を引き起こしたことに求めるなら、故意の中身もその根拠と揃えた結果認識説のほうが、一貫した筋になります。ただし、結果認識説のほうが正しいとまでは言い切れません。2つの説の違いは、出発点にあります。実行認識説は、教唆という行為の定義から出発しているので、それ自体は筋が通っています。結果認識説は、共犯をなぜ罰してよいかという根拠から出発し、その根拠と故意の範囲を最初から揃えています。だから、惹起説から出発するなら、今日見た2つの場面を同じ理屈で説明できる結果認識説のほうが、答案の筋が通りやすい、ということです。

今日の地図(保存版)

今日の到達点 図:今日の到達点

教唆犯の故意は、②正犯の実行行為までの認識で足りるとする実行認識説と、③正犯結果の発生までの認識・認容を要するとする結果認識説に分かれます。そして、最初から失敗させるつもりの未遂の教唆は、実行認識説なら可罰、結果認識説なら不可罰です。さらに、未遂の教唆のつもりで意外にも結果が発生してしまった場合、不可罰説の側では、ここでも教唆犯は成立しません。可罰説の側では、共犯の錯誤として処理する見解が有力で、重なり合う限度で未遂罪の教唆犯が認められます。教唆犯の故意の対立が未遂の教唆の可罰性にそのまま写るのは、教唆犯の故意がどこまで届くかという1本の物差しで、未遂の教唆の場面を測っているからです。物差しの目盛りを②に置くか③に置くかを決めた時点で、Aの事例がその目盛りに届いているかどうかも、自動的に決まります。3つの論点のように見えても、実は1本の物差しの延長にすぎません。

参照条文

  • 刑法38条1項本文

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