片面的教唆・幇助と過失・結果的加重犯
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第9章 共犯 ㉓/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
前回の受けと、今日の4つの問い
図:決意を生じさせるか、後押しするか
これまで、教唆犯と幇助犯の意義と成立要件を見てきました。教唆はいまだ決意を有しない者に決意を生じさせること、幇助はすでに決意を有する者を後押しすることでした。正犯の実行を、物理的または心理的に促進していれば足りる、つまり因果的に促進していれば足りる、というのが前回の到達点でした。凶器を渡すのも、勇気づける声をかけるのも、実行を後押しする力があれば、どちらも幇助にあたります。その「促進していれば足りる」という物差し、今日も使います。今日は、教唆・幇助の定義と、いま確認した促進という物差しを、4つの特殊な場面に当てはめて、成立するかどうかを確かめていきます。定義と物差しさえ手元にあれば、結論は自分で導けるはずです。
こんな場面を考えてみてください。Aは、Bが夜中に塀を越えて倉庫へ忍び込もうとしていることに気づき、塀の脇にこっそり脚立を立てかけておきました。Bはそれを「作業の人の置き忘れだろう」と考え、それを使って塀を越え、窃盗をしました。AがBを手伝ったことを、Bはまったく知りません。それでも、Aは幇助犯になるでしょうか。唆したり手伝ったりしたことが相手に伝わっていなければならない、というその思い込みを、今日最初にほどきます。結論を先に言うと、Aは幇助犯になります。脚立という物が、Bに気づかれないまま実行を客観的に促進しているからです。なぜ気づかれていなくてもよいのかを、この後じっくり見ていきます。
場面1:片面的教唆・幇助——共同正犯とどう違うか
図:片面的共同正犯は否定
以前、片面的共同正犯を見ました。共同実行の事実はあるのに、意思の連絡が一方通行だった場合です。結論は否定でした。共同正犯には相互の意思連絡が要るから、片方しか気づいていないなら、共同正犯にはならない、という話でした。では、教唆や幇助でも、同じように否定になるのでしょうか。ここからが今日の1つ目の場面です。
図:片面的教唆——気づかれなくても、決意は生じている
片面的教唆とは、教唆者が教唆行為を行ったのに、被教唆者はそれと気づかないまま実行を決意することです。結論から言うと、通説はこれを肯定します。教唆の定義をもう一度思い出してください。決意を生じさせること、でした。「決意を生じさせたと相手に気づかせること」とは書いてありません。相手が気づいていなくても、教唆行為によって現に決意が生じていれば、定義にそのまま当てはまります。
図:片面的幇助——物質的幇助と精神的幇助で分かれる
では片面的幇助はどうでしょうか。幇助者が幇助行為を行ったのに、被幇助者はそれと気づかずに実行する場合です。こちらは、幇助行為の性質によって結論が分かれます。物質的幇助、凶器の提供などの形のある援助であれば、肯定されます。被幇助者に認識が無くても、その物が客観的に実行行為を容易にしているからです。これに対して、精神的幇助、助言や激励などの形のない援助は、否定されます。相手がその声かけを認識してはじめて、実行行為が容易になったと言えるからです。誰にも届かない言葉は、後押しとして働きません。物として残る手助けは、気づかれなくても効きます。言葉や合図だけの手助けは、届いてはじめて効くんです。実際に、片面的な物質的幇助を肯定した大審院(戦前の最上級の裁判所)の判例もあります。認識のない相手に対する物質的な援助でも、幇助犯の成立が認められています。
図:Aが置いた脚立は、物質的幇助にあたる
冒頭の場面に戻ります。Aは、Bが夜中に塀を越えて倉庫へ忍び込もうとしていることに気づき、塀の脇にこっそり脚立を立てかけておきました。Bは誰かが用意したとは気づかないまま、それを使って塀を越え、窃盗をしました。もし、Aが脚立を置かず、Bに聞こえない離れた場所から「頑張れ」と励ましていただけだったなら、それは精神的幇助の形をとっていても、Bに届いていない以上、幇助犯にはなりません。同じ「気づかれていない手助け」でも、物質的か精神的かで結論が裏返るんです。脚立は実際に使われて、塀を越えて忍び込むという実行を物理的に容易にしています。前回のメモは、気づかれず使われもしなかったので、Bの行動にも気持ちにも何の影響も与えていませんでした。分かれ目は、気づかれたかどうかではなく、実行を現に後押ししたかどうかです。
図:片面的な3類型、なぜ共同正犯だけ常に否定か
ここで3つを並べてみます。片面的共同正犯は常に否定、片面的教唆は肯定、片面的幇助は物質的幇助が肯定・精神的幇助が否定でした。共同正犯だけが常に否定される理由は、共同正犯が相互の意思連絡、つまり双方向のつながりを要求するのに対し、教唆・幇助は一方向のつながりで足りるという、構造そのものの違いにあります。この一本の違いが、共同正犯と、教唆・幇助の結論を分けています。幇助の中で物質的か精神的かが分かれるのは、さっき見た、届かなくても実行を容易にするかどうかの違いでした。
場面2:過失による教唆・幇助——唆す側・手伝う側に故意がない
図:過失による教唆・幇助、罰せられるか
2つ目の場面です。唆すつもりも手伝うつもりもなかったのに、不注意な一言が相手を決意させてしまった。あるいは、不注意な行為が実行を容易にしてしまった。こういう、過失による教唆・幇助を考えます。結論はどちらも成立しません。
条文刑法38条1項
刑法38条1項(故意) 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
そこで効いてくるのが、この38条1項です。罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。過失犯を処罰するには、特別の規定が必要だという条文です。ところが、過失による教唆や、過失による幇助を処罰する特別の規定は、刑法のどこにもありません。これは定義に当てはまるかどうかという話ですらなく、条文の骨組みの段階で、処罰の対象から外れているということです。たとえば、Aが友人Bとの雑談で、「隣の家、平日の昼はいつも留守らしいよ」と何気なく話した。Aに唆すつもりはまったくなかったのに、Bはそれを聞いて空き巣を決意してしまった。こういう場面です。
場面3の前に、場面2との違いを一言で
図:同じ「過失」でも、どこの過失かが違う
次の場面3に入る前に、1つだけ区別しておきます。さっきの場面2は、唆す側・手伝う側の行為が過失であるかどうかの問題でした。これから見る場面3は、唆される側・手伝われる側がやった犯罪そのものが過失犯であるかどうかの問題です。過失という言葉が、教唆・幇助する側とされる側のどちらにあるかで話が変わる、その点が混同しやすいところです。過失の位置が、教唆・幇助する側にあるか、される側にあるか、その違いだけ押さえて次に進んでください。
場面3:過失犯に対する教唆・幇助——唆される側の犯罪が過失犯
図:過失犯に対する教唆——否定。間接正犯で埋まる
場面3は、唆される側・手伝われる側に成立するのが過失犯である場合です。まず教唆から見ます。通説の結論は否定です。「教唆」という日常語の意味に立ち返ってください。教唆とは、決意、つまり故意を生じさせることでした。過失犯には、そもそも決意=故意がありません。だから、教唆という言葉が指している事態そのものが起きていないんです。たとえば、Aが、前方の水面で人が泳いでいると知りながら、モーターボートを操縦するBに「このまま全速でまっすぐ進んで」と声をかけ、Bが前方の確認を怠ってそのまま進み、泳いでいた人にけがをさせた場面。Bは不注意だっただけで、人を傷つけようという決意はどこにも生まれていません。
過失犯を利用してしまった側が何の罪にもならない、というわけではありません。要件を満たせば、以前見た間接正犯として処理されます。さっきのAのように、相手の不注意な行為を、道具のように一方的に利用していたと言えれば、自分がその犯罪を実現した者として扱われます。教唆という形では処罰できませんが、間接正犯という別の枠で、処罰の空白は生じません。
図:過失犯に対する幇助——肯定。語のズレが無い
では幇助はどうでしょうか。こちらは肯定です。同じ「過失犯に対する」なのに教唆と結論が割れるのは、「幇助」という言葉には、教唆のような語のズレが無いからです。幇助は、すでにある決意や実行を後押しすることでした。過失で走っている人の背中を押して、その人が転びやすくすることは、日常語としてそのまま成り立ちます。故意を持って走っているか、うっかり走っているかは、後押しという言葉の意味を変えません。
図:場面2・場面3のまとめ、4行
ここで場面2と場面3をまとめます。過失による教唆・幇助は、どちらも38条1項ただし書、特別の規定が無いという条文の骨の話で否定されました。過失犯に対する教唆・幇助は、「教唆」「幇助」という言葉そのものの意味に当てはまるかという語義の話で、教唆は否定・幇助は肯定に分かれました。
場面4:結果的加重犯に対する教唆・幇助——重い結果まで生じたら
図:基本犯を教唆・幇助したら、重い結果まで生じた
最後の場面です。基本犯、たとえば傷害をAがBに教唆・幇助したところ、Bが実際に暴行を加えたら、被害者が死亡してしまい、傷害致死という結果的加重犯が成立してしまった。こういう場面です。なお、Aが死亡まで考えて唆していた場合は、そもそも傷害致死そのものを教唆・幇助した話になるので、今日の場面の外です。今日考えるのは、Aは基本犯しか考えていなかったのに、重い結果まで生じてしまった場合に限ります。
図:鍵になるのは、重い結果に過失が要るか
ここで鍵になるのは、以前見た問いです。結果的加重犯の重い結果について、行為者に過失、つまり予見可能性は必要でしょうか。以前、結果的加重犯の共同正犯のところで見ました。必要説と不要説で対立していて、必要説は責任主義(責任が無ければ処罰しない、という考え方)から過失を要求する通説、不要説は基本行為と重い結果の因果関係があれば足りるとする、判例の伝統的な立場でした。この対立軸が、今日の教唆・幇助にもそのまま使われます。
図:必要説なら場面3に帰着、不要説なら教唆・幇助とも肯定
必要説では、結果的加重犯を、故意でやった基本犯に、正犯者自身の過失で生じた重い結果が乗ったものと捉えます。たとえば、Aが「殴ってやれ」とBを唆し、Bが殴ったところ、相手が思いがけず転倒して頭を打ち死亡したとします。死亡という部分だけを取り出すと、Bにとってこれは過失で生じさせた結果です。重い結果の部分だけを切り出せば、さっき見た場面3、過失犯に対する教唆・幇助と同じ問いになります。必要説に立つときは、まず場面3に戻って考える、という筋です。一方、不要説に立てば、基本行為と重い結果との間に因果関係があれば足り、過失は問いません。この立場からは、教唆・幇助とも問題なく肯定されます。
ドミノに例えるなら、最初の牌を倒すよう唆した・手伝ったら、連鎖が起きて思っていたより遠くの牌まで倒れてしまった場面です。不要説は、最初の牌を倒せば連鎖が起きること自体は見えていたはずだと考え、必要説は、遠くの牌が倒れることまで予見できたかをあらためて問います。連鎖の距離をどこまで自分の予見の範囲に含めるかで、必要説と不要説が分かれる、という構造は共通しています。
図:共同正犯との違いは、主体の立ち位置だけ
最後に1点だけ整理します。以前見た結果的加重犯の共同正犯は、正犯どうしが一緒に実行した関係でした。今日の結果的加重犯に対する教唆・幇助は、唆した・手伝っただけの関係です。主体の立ち位置は違いますが、使っている本質論、必要説と不要説の対立そのものは、同じものを使い回しています。
山場——4つの場面の可否マトリクス
図:ここまでの4つの場面、結論だけ思い出せますか
ここまでの4つの場面、結論だけを思い出せますか?答え合わせの前に、一度自分の中で言葉にしてみてください。答え合わせです。片面的教唆は肯定、片面的幇助は物質的なら肯定・精神的なら否定。過失による教唆・幇助はどちらも否定。過失犯に対する教唆は否定、幇助は肯定。結果的加重犯に対する教唆・幇助は、必要説なら場面3に戻って考える、不要説ならどちらも肯定。1つずつ、なぜその結論になるのかも、言えましたか。理由も確認します。片面的な場合は、教唆にも幇助にも、定義の中に「相手が気づくこと」が入っていないから。ただ、励ましのような精神的幇助は、届かなければ後押しにならない。過失による場合は、38条1項ただし書の特別の規定が無いから。過失犯に対する場合は、「決意を生じさせる」という教唆の言葉に、決意の無い過失犯が当てはまらないから。幇助にはその引っかかりが無い。結果的加重犯に対する場合は、重い結果に過失が要るかで、場面3に戻るかどうかが決まるから。4つとも、やったことは同じでした。教唆・幇助の定義の言葉か、38条1項の条文に、その場面の事情を当ててみる。当てはまれば肯定、はみ出せば否定。場面4だけは、その前に重い結果に過失が要るかという本質論を1つ挟む。これが今日の結論です。
図:4場面×教唆・幇助の可否マトリクス
この表にまとめます。片面的、過失による、過失犯に対する、結果的加重犯に対する、この4つの場面で、教唆と幇助それぞれの可否と理由を並べています。覚える必要はありません。どのマスも、教唆・幇助の定義、そして61条1項・62条1項・38条1項ただし書のどれかに立ち返れば、その場で導き出せます。表は、あなたが自分で導けることを確かめるための地図であって、暗記の対象ではありません。
今日の地図(保存版)
図:今日の到達点
今日を振り返ります。片面的教唆・幇助は、教唆が肯定、幇助は物質的なら肯定、精神的なら否定でした。共同正犯だけが常に否定されるのは、双方向の意思連絡を要求するかどうかの違いでした。過失による教唆・幇助は、どちらも否定。38条1項ただし書に、特別の規定が無いからでした。過失犯に対する教唆・幇助は、教唆が否定、幇助が肯定。言葉の意味に当てはまるかどうかの違いでした。そして結果的加重犯に対する教唆・幇助は、重い結果に過失が要るかという本質論次第で、必要説なら過失犯に対する教唆・幇助の問題に戻り、不要説なら教唆・幇助とも肯定される、という結論でした。
冒頭のAが、Bが気づかないまま脚立を使って窃盗をしたのに幇助犯になるのは、脚立が物質的幇助にあたり、相手の認識が無くても客観的に実行行為を容易にしているからです。相手に気づかれていたかどうかではなく、幇助行為の性質が、実行を容易にする力を持っていたかどうかで決まる、ということでした。
参照条文
- 刑法38条1項