憲法ゼロから憲法#54

生存権と二つの裁量——朝日訴訟・堀木訴訟

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第3章 人権各論 #54/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

生存権の二つの顔——社会権的側面と自由権的側面

二十五条の二つの顔(社会権的側面=国に動いてくれと求める側=抽象的権利/自由権的側面=国に余計なことをするなと言う側=具体的権利で裁判規範性あり) 図:二十五条の二つの顔

  • 社会権的側面=国に動いてくれと求める側=抽象的権利
  • 自由権的側面=国に余計なことをするなと言う側=具体的権利で裁判規範性あり

中身に入る前に、条文そのものを確認しておきましょう。

条文日本国憲法 25条

日本国憲法 第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

この条文が、二つの違う強さを持っています。混乱するのが自然です。ここで、先に宣言しておきます。二十五条には、二つの顔があります。国に「動いてくれ」と求める側と、国に「余計なことをするな」と言う側です。「動いてくれ」と求める側を、社会権的側面と呼びます。こちらは抽象的権利にとどまります。法律が無ければ、裁判所を動かせません。もう一方、「余計なことをするな」と言う側を、自由権的側面と呼びます。こちらは法律が無くても、それだけで裁判所を動かせる具体的権利です。損失補償の回の二十九条三項です。補償の法律が無くても、三項だけを根拠に補償を請求できました。あれが具体的権利の見本です。生存権の社会権的側面は、ちょうどその反対側にあります。

強さは条文の名前ではなく、側面ごとに決まります。ここで、自分で作った場面を考えてみましょう。生活保護を受けている、ある人が、庭先で野菜を育てて食費を浮かせていたとします。ある市が条例を作って「生活保護受給者は敷地内で作物を育ててはならない」と決め、その人の家庭菜園を強制的に撤去させたとします。これは、その人が市に何かを「してくれ」と求めている場面でしょうか。違います……逆です。市の方から、余計な制約をかけてきています。これは、自由権的側面が制約された場面です。だから、法律が無くても、それだけで具体的権利として裁判で争えます。

実は、この弁別、前に一度、似た形で出会っています。知る権利の回で、社会権的側面だけが一段弱い、という話をしましたね。今日の生存権が、その棚の本体です。側面ごとに強さが変わるのであって、権利の名前だけで決まるわけではありません。

法的性格——三つの学説を「誰を拘束するか」で並べる

法的性格の四立場を誰を拘束するかで並べる(プログラム規定説=誰も拘束しない政治責任のみ/抽象的権利説=立法者を拘束・法律を作る義務/具体的権利説①=裁判所も動かせる違憲確認訴訟/具体的権利説②=裁判所が金額まで決められる給付訴訟) 図:法的性格の四立場を誰を拘束するかで並べる

  • プログラム規定説=誰も拘束しない政治責任のみ
  • 抽象的権利説=立法者を拘束・法律を作る義務
  • 具体的権利説①=裁判所も動かせる違憲確認訴訟
  • 具体的権利説②=裁判所が金額まで決められる給付訴訟

さて、今見た社会権的側面は、抽象的権利だと言いました。でも実は、この位置づけをめぐって学説が分かれています。二十五条の法的性格と呼ばれる論点です。暗記にすると苦しいので、一つの軸で並べてみましょう。「誰を拘束するか」です。一番弱い説から見ていきます。プログラム規定説です。二十五条は、政治的・道義的な義務を国に課したにとどまる、という考え方です。国が守らなくても政治責任が問われるだけで、法的な義務ではありません。理由は二つあります。一つは、憲法が前提とする資本主義では自助の原則が妥当する、というものです。もう一つは、予算の配分は国の財政政策の問題だから、というものです。

でも、この説には批判があります。生存権は、そもそも資本主義が生み出す格差を解消するために作られた権利のはずです。それに、予算こそ二十五条にもとづいて組まれるべきだ、という批判です。この批判を受けて、判例と通説は次の説に立ちます。抽象的権利説です。二十五条は法的権利を保障し、国は法的義務を負う——ここまではプログラム規定説より一歩進みます。ただし抽象的権利にとどまり、具体化する法律があって初めて出訴できる具体的権利になる。今、その正体を明かしました。あの三段階は、実はこの学説対立から生まれた道具だったんです。

抽象的権利説では、法律を作らなければならないのは立法者です。つまり、この説は立法者を拘束します。では、法律がまだ無かったらどうなるでしょうか。ここで、もう一段強い説が出てきます。具体的権利説の一つ目です。法律が無いなら、立法不作為の違憲確認訴訟ができる、という考え方です。この説は裁判所も動かせます。ただし批判があります。違憲だと確認されても、それだけでは法律ができるわけではありません。実効性に乏しいうえ、裁判所が立法を強制することにもなります。それは、権力分立や、国会だけが立法権を持つという建前に反しかねません。

最後に、もう一段強い説があります。具体的権利説の二つ目です。法律が無くても、「最低限度の生活」にかかる給付そのものを求められる、という考え方です。裁判所に、直接、その給付を求める訴訟ができるということです。この説の理由は、「最低限度の生活」は特定の時代・社会では、ある程度客観的に決まる、というものです。この説は裁判所に、金額まで決めさせます。ただし、これは少数説にとどまります。誰も拘束しない、立法者を拘束する、裁判所も動かせる、裁判所が金額まで決められる。一直線に強くなっていく並びです。この並びが見えると、批判の意味も自動的に分かってきます。拘束する相手が増えるほど、権力分立との緊張が強くなっていくからです。

朝日訴訟①——事案と、判決すら出ていないという事実

朝日訴訟の事案(結核療養所に入所していた原告が生活扶助と医療扶助を受給/実兄からの仕送りを理由に生活扶助が打ち切られ残額を医療費として負担させる保護変更決定/厚生大臣への不服申立も是認され裁決取消しを求め提訴) 図:朝日訴訟の事案

  • 結核療養所に入所していた原告が生活扶助と医療扶助を受給
  • 実兄からの仕送りを理由に生活扶助が打ち切られ残額を医療費として負担させる保護変更決定
  • 厚生大臣への不服申立も是認され裁決取消しを求め提訴

では、判例そのものに入ります。まず、朝日訴訟の事案からです。原告は、結核の療養所に長く単身で入所していました。厚生大臣が定めた基準の中で最高額にあたる、月六百円の日用品費の生活扶助と、現物で全額給付される医療扶助を受けていました。ところが、原告が実兄から毎月千五百円の仕送りを受けるようになりました。仕送りがあれば生活は助かるはずです。ところが市の福祉事務所は、これを理由に月六百円の生活扶助を打ち切りました。そのうえ、仕送りの額から日用品費を差し引いた残り九百円がありました。この残額を、医療費の一部として本人に負担させる決定をしました。

この決定は、県知事への不服申立でも、厚生大臣への不服申立でも認められてしまいました。そこで原告は、厚生大臣を相手に、この裁決の取り消しを求めて訴えを起こしました。ここで、大事な事実があります。この訴訟の途中で、原告が亡くなりました。最高裁はこう判断しました。生活保護を受ける権利は、単なる恩恵ではなく法的な権利です。はい、ここは見落とされがちですが大事な点です。ただし、この権利には性質があります。本人の最低限度の生活を維持するために、その人だけに与えられた一身専属の権利だということです。他人に譲ることもできず、相続の対象にもなりません。

だからこの訴訟は、原告の死亡と同時に終了しました。はい、そこを取り違えないでください。争いが終わったのは、権利が否定されたからではありません。さて、ここで今日の冒頭で立てた問いに戻ります。朝日訴訟は、判決が出ていません。実は、これが今日いちばんの驚きです。朝日訴訟には、正式な本案の判決が存在しません。最高裁は、訴訟の終了を宣言したうえで、こう続けました。「なお、念のために、本件生活扶助基準の適否に関する当裁判所の意見を付加する」。本案の判断としては決着していません。付け加えられた意見——傍論と呼ばれるものです。なぜ最高裁は、わざわざ判決の外で、この意見を付け加えたのでしょうか。

ここに、実務上の理由があります。二十五条の法的性格について、最高裁が正面から述べる機会は、めったにありません。この機会を逃したくなかった、と考えられています。だからこそ傍論なのに、今も読み継がれているんです。

朝日訴訟②——厚生大臣の裁量と、逸脱・濫用

朝日訴訟の判旨2段(前段=二十五条一項は国の責務を宣言したにとどまり具体的権利を賦与したものではない/後段=厚生大臣の裁量権の限界をこえた場合または濫用した場合は違法な行為として司法審査の対象となる/後段が前段の読み方を決める) 図:朝日訴訟の判旨2段

  • 前段=二十五条一項は国の責務を宣言したにとどまり具体的権利を賦与したものではない
  • 後段=厚生大臣の裁量権の限界をこえた場合または濫用した場合は違法な行為として司法審査の対象となる
  • 後段が前段の読み方を決める

では、その傍論の中身を、逐語で見ていきましょう。

判例最大判昭和四十二年五月二十四日。……は先例の書誌の引用を省略した箇所

朝日訴訟——判旨(二十五条一項の性格と、具体的権利の所在) 憲法二五条一項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定している。この規定は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない……。具体的権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつて、はじめて与えられているというべきである。

判例最大判昭和四十二年五月二十四日(同じ判旨のつづき)

朝日訴訟——判旨のつづき(保護基準と、厚生大臣の設定) 生活保護法は、「この法律の定める要件」を満たす者は、「この法律による保護」を受けることができると規定し(二条参照)、その保護は、厚生大臣の設定する基準に基づいて行なうものとしているから(八条一項参照)、右の権利は、厚生大臣が最低限度の生活水準を維持するにたりると認めて設定した保護基準による保護を受け得ることにあると解すべきである。もとより、厚生大臣の定める保護基準は、法八条二項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならない。

判例最大判昭和四十二年五月二十四日(同じ判旨のむすび)

朝日訴訟——判旨のむすび(厚生大臣の裁量と、逸脱・濫用) しかし、健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものである。したがつて、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあつても、直ちに違法の問題を生ずることはない。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。

どの伏線ですか。「具体的権利としては、生活保護法によつて、はじめて与えられている」って書いてあります。実は、多くの教科書は、この一文を引用から省いています。でも、この一文こそ、大事な意味を持っています。以前見た「抽象的権利にとどまり、具体化する法律があって初めて機能する」という答え。その、判例側の裏付けが、ここにあったんです。では、この判旨を、二段に分けて読んでみましょう。前段は、「二十五条一項は国の責務を宣言したにとどまり」。「直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」という部分です。

前段だけ読むと、プログラム規定説に見えます。でも後段を見てください。「裁量権の限界をこえた場合または濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となる」。そこが決め手です。もし本当にプログラム規定説だったら、そもそも司法審査の余地なんて出てこないはずです。だから後段が、前段の読み方を決めます。この判例は、抽象的権利説に立脚しているものと読まれています。この読み方の作法——判示の後段が前段の意味を決める、という読み方があります。これこそ、今日、持ち帰ってほしいものの一つです。判旨がその理由を言っています。「最低限度の生活」は、物価も、暮らし方も、時代で動く相対的なものだからです。一つに決まる数字がない以上、いろいろな事情を合わせて決めるほかありません。だから、まず大臣の判断に委ねられます。

ここで、この判断枠組みを、条文で裏づけておきましょう。

条文生活保護法 8条1項・2項

生活保護法 第八条第一項・第二項 保護は、厚生労働大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とし、そのうち、その者の金銭又は物品で満たすことのできない不足分を補う程度において行うものとする。 前項の基準は、要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない

同じ職です。省庁の再編で厚生省が厚生労働省になり、名前が変わりました。判決の当時は厚生大臣、今の条文は厚生労働大臣——指しているものは同じです。この八条一項が、判旨で言う「厚生大臣の裁量」の、条文上の根拠です。ここで、この節の判断枠組みを、規範として整理しておきます。

論文で書く規範:朝日訴訟の判断枠組み——厚生大臣の裁量の逸脱・濫用 何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的的な裁量に委ねられ、当不当の問題として政治責任が問われることはあっても、直ちに違法の問題を生じない。 ただし、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となる。 (規範(最大判昭和四十二年五月二十四日)。答案の書き方は論文シリーズで扱う)

額が少し低い、というだけでは足りません。それは当不当の問題——政治責任が問われるだけで終わります。分かれ目は、「現実の生活条件を無視して著しく低い」と言えるかどうかです。たとえば、物価も暮らし方も変わったのに、基準の額だけを何十年も据え置いたまま——そういう事情があって初めて、違法の側に入ります。月六百円という当時の基準は、厚生大臣の裁量の限界を超えたとまでは断定できない、というのが結論でした。本案の判決が無いうえに、付け加えられた意見でも、違法とは言われませんでした。二重に、退けられているんです。朝日訴訟で戦った相手は、行政——厚生大臣でした。武器は、行政の裁量の逸脱・濫用です。

堀木訴訟①——事案と、併給調整条項

堀木訴訟の事案(視力障害者として障害福祉年金を受給していた原告が内縁の夫との離別後独力で児童を養育/児童扶養手当の受給資格認定を申請したところ改正前児童扶養手当法四条三項三号=併給調整条項により却下) 図:堀木訴訟の事案

  • 視力障害者として障害福祉年金を受給していた原告が内縁の夫との離別後独力で児童を養育
  • 児童扶養手当の受給資格認定を申請したところ改正前児童扶養手当法四条三項三号=併給調整条項により却下

堀木訴訟で戦う相手は、立法府——法律そのものです。では、事案を見ていきましょう。原告は、視力に重い障害があり、障害福祉年金を受給していました。内縁の夫との間に子どもをもうけましたが、その夫と別れたあと、独力でその子を養育していました。そこで、児童扶養手当の受給資格の認定を申請しました。ところが、却下されました。すでに障害福祉年金を受け取っているから、というのが理由です。当時の児童扶養手当法には、年金と手当を両方は受け取れないという規定がありました。判決文は、この規定を「併給調整条項」と呼んでいます。

原告は、この併給調整条項が二十五条に違反しないかを争いました。実は、判決文を見ると、十四条だけでなく、十三条も争点になっています。ただし、十三条・十四条側の判断は、この回では深入りしません。平等の審査は、別の回で扱う内容だからです。今日は、二十五条の側に絞ります。朝日訴訟は、大臣が決めた運用の中身が争われました。堀木訴訟は、法律そのものに書かれた条項が争われています。

堀木訴訟②——立法府の裁量と、明白性

堀木訴訟の判旨(健康で文化的な最低限度の生活はきわめて抽象的相対的概念/国の財政事情・高度の専門技術的考察と政策的判断を要する/立法府の広い裁量に委ねられ著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱濫用と見ざるをえない場合を除き裁判所は審査判断するのに適しない) 図:堀木訴訟の判旨

  • 健康で文化的な最低限度の生活はきわめて抽象的相対的概念
  • 国の財政事情・高度の専門技術的考察と政策的判断を要する
  • 立法府の広い裁量に委ねられ著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱濫用と見ざるをえない場合を除き裁判所は審査判断するのに適しない

では、最高裁が、この併給調整条項をどう判断したか見ていきましょう。

判例最大判昭和五十七年七月七日。……は先例の書誌/「よつて」の後に読点を1つ補った

堀木訴訟——判旨(一項二項の関係) 憲法二五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定しているが、この規定が、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきことを国の責務として宣言したものであること、また、同条二項は「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しているが、この規定が、同じく福祉国家の理念に基づき、社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきことを国の責務として宣言したものであること、そして、同条一項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条二項によつて、国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきことは、すでに当裁判所の判例とするところである……。

判例最大判昭和五十七年七月七日(同じ判旨のつづき)

堀木訴訟——判旨のつづき(立法府の広い裁量と、明白性) このように、憲法二五条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、右規定にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがつて、憲法二五条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない。

以前、経済的自由の回で、積極目的規制を測る物差しとして出てきましたね。積極目的規制——社会経済政策の一環として行われる規制のことでした。あちらは「著しく不合理であることの明白である場合に限つて」違憲にできる。そういう言い方でした。今日のこの言い方と、ほとんど同じです。理由も、実は同じです。財政の配分や専門技術的な政策判断は、裁判所には測りきれません。だから裁判所は口を出さず、立法府の判断を尊重するんです。分野が違っても、「裁判所には荷が重い判断だから緩やかに見る」という理由は共通しています。さて、ここで朝日訴訟の裁量と比べておきましょう。朝日訴訟で問題になったのは、月六百円という日用品費の額でした。この額を決めたのは、厚生大臣——行政です。堀木訴訟で問題になったのは、年金と手当を両方は渡さない、という条項でした。これを書いたのは、国会——立法府です。

同じ言葉でも、誰の裁量に掛かっているかで中身が変わります。ここが、今日いちばんつまずきやすいところです。「裁量」とだけ言わず、必ず行政の裁量か立法の裁量か、意識してください。では、この判断枠組みを、規範として整理しておきます。

論文で書く規範:堀木訴訟の判断枠組み——立法府の広い裁量と明白性 憲法二十五条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない。 (規範(最大判昭和五十七年七月七日)。答案の書き方は論文シリーズで扱う)

最後に、結論です。この判決は、上告を棄却しました。併給調整条項は合憲です。ただ、判決はこうも述べています。給付額を低く定めた立法政策も、それだけでは直ちに二十五条違反に結びつかない。この一言も、立法府の広い裁量を、そのまま裏づけています。

生存権の内容と、具体化する立法

二十五条の内容と具体化する立法(一項=権利、二項=国の責務/生活保護法・国民健康保険法・国民年金法・環境基本法など) 図:二十五条の内容と具体化する立法

  • 一項=権利、二項=国の責務
  • 生活保護法・国民健康保険法・国民年金法・環境基本法など

ここで、少し立ち止まって、二十五条そのものの中身を条文に沿って確認しておきましょう。一項は国民の権利を定めています。二項は国の責務を定めています。この条文の理念は、実際の法律に、そのまま降りています。生活保護法を見てみましょう。

条文生活保護法 1条・3条

生活保護法 第一条・第三条 この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。 この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない。

憲法の言葉が、そのまま法律の目的として書き込まれています。生存権を具体化する法律は、生活保護法だけではありません。国民健康保険法や国民年金法、環境基本法なども、その一部です。ここで、覚え方を一つ渡します。二項には、社会福祉、社会保障、公衆衛生という三つの言葉がありましたね。この三語が、それぞれ別の制度群を指しています。生活保護は、その中でも社会福祉の分野。国民健康保険や国民年金は、社会保障の分野に近い制度です。憲法の言葉が絵に描いた餅ではなく、現実の制度になっている。それが、この節で見てほしいことです。

二十五条一項二項の関係——通説と、分離論

一項二項の関係(通説=一項が権利を直接定め二項はその責務を定めたもの/控訴審の分離論=二項は事前の防貧施策の努力義務、一項は事後的個別的な救貧施策の責務/最高裁の上告審判決=二項の社会的立法社会的施設の創造拡充により一項の生活権が設定充実されてゆく) 図:一項二項の関係

  • 通説=一項が権利を直接定め二項はその責務を定めたもの
  • 控訴審の分離論=二項は事前の防貧施策の努力義務、一項は事後的個別的な救貧施策の責務
  • 最高裁の上告審判決=二項の社会的立法社会的施設の創造拡充により一項の生活権が設定充実されてゆく

さて、堀木訴訟の判旨には、もう一つ大事な論点が含まれていました。一項と二項の関係です。まず、通説の立場を確認しておきましょう。通説は、一項が国民の主観的権利としての生存権を、直接定めていると考えます。「主観的権利」とは、国民一人ひとりが、国に対して自分のものとして持つ権利、という意味です。この権利の中身は、二段構えです。一段目は、命をつなぐぎりぎりの生活水準を求める部分。二段目は、そこからさらに上を目指す、より豊かな暮らしを求める部分です。そして二項は、この権利にこたえて国が果たすべき役割を定めたものだと位置づけます。

ところが、これとは違う読み方をした判決があります。堀木訴訟の控訴審——つまり下級審の判決です。名前を、一項二項分離論と言います。この控訴審は、二項を、事前の積極的な防貧施策をなすべき努力義務だと位置づけました。そして一項を、二項からこぼれ落ちた人に対する責務だと位置づけました。事後的・補足的・個別的な、救貧施策の責務です。防貧と、救貧。この二つの言葉で覚えてください。ここで、名前だけの暗記にしないため、この分け方が何を変えるのか見ていきましょう。分離論に立つと、一項の問題——救貧は、「最低限度の生活」という絶対的な基準で厳格に審査されます。一方、二項の問題——防貧は、広い立法裁量に委ねられ、原則として違憲になりません。

ここが、この理論の怖いところです。自分で作った場面で考えてみましょう。ある会社の人事評価に、基本給と業績給があるとします。基本給は、生活の土台として、最低限の水準を割ってはいけない絶対的な下限として厳しくチェックされます。業績給は、額や配分の方法が、会社の裁量に広く委ねられています。一項二項分離論も、同じ構造を持っています。だから批判があります。一項を、公的扶助のような限られた場面だけに絞り込み、それ以外の施策をすべて二項に流し込めば、どうなるでしょうか。広汎な立法裁量に委ねる範囲を、いくらでも広げられてしまいます。

では、最高裁の上告審は、この分離論をどう扱ったのでしょうか。さきほどの判旨を、もう一度見てください。「一項は、国が個々の国民に対して、具体的・現実的に義務を有することを規定したものではなく、二項の社会的立法・社会的施設の創造拡充によつて、個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆく」。並べて、読んでみましょう。控訴審は、一項と二項を、別の場面に切り分けました。最高裁は、一項と二項を、一体の流れとして読んでいます。二項の立法を通じて、一項の権利が実現されていく、という読み方です。ここで、正確に言っておきます。最高裁が分離論を明示的に否定したとまでは断定できません。でも、判旨そのものが示す読み方は、控訴審の分離論とは違う構造をしています。

そこは、最高裁が答えていない部分です。一体で読む、とは言いましたが、だから審査が緩くなる、厳しくなる、とまでは述べていません。二十五条の審査が緩いという結論は、一項二項の読み方からではなく、さきほど見た「立法府の広い裁量」の判旨から出ています。二つを並べましたので、その違いは、あなた自身の目で確かめてください。

生存権侵害の四つの争い方①——法律が無い、余計な条項がある

四つの争い方①②(①法律が無い・不十分=相手は国会・立法不作為/②余計な条項がある堀木型=相手は法律そのもの・制限構成か平等権構成) 図:四つの争い方①②

  • ①法律が無い・不十分=相手は国会・立法不作為
  • ②余計な条項がある堀木型=相手は法律そのもの・制限構成か平等権構成

ここまでで、二つの裁判を見てきました。ここで、大事な道具を渡します。「二十五条違反だ」と言う前に、実は争い方は一つではありません。誰の、どの行為を攻めるかによって、四つに分かれます。一つずつ見ていきましょう。まず一つ目です。法律が無い、または不十分な場合です。この場合の相手は、国会——立法不作為です。さきほどの、法的性格の学説を思い出してください。具体的権利説の一つ目に立てば、立法不作為の違憲確認訴訟ができます。具体的権利説の二つ目に立てば、給付そのものを求める訴訟ができます。そして、判例・通説である抽象的権利説に立つと、立法不作為を理由とする国家賠償請求という道が残ります。

ただし、それぞれに難所があります。違憲確認訴訟は実効性に乏しく、権力分立との緊張があります。国家賠償請求のほうも、簡単ではありません。「違法」だと認められるのは、誰の目にも明らかなほど生存権が損なわれている場合など、かなり限られた場面にとどまる、と考えられています。この立法不作為の国家賠償の詳しい要件は、また別の回で扱います。では、二つ目です。余計な条項がある場合——堀木型です。この場合の相手は、法律そのものです。争い方は、大きく二つあります。一つは、具体化された生存権を、その条項が制限していると構成して、制限の正当性を検討する道です。もう一つは、平等権の侵害だと構成して、合理的な差別かどうかを検討する道です。

実は、堀木訴訟の判決自身が、この扉を開けています。判決は、「合理的理由のない不当な差別的取扱をしたり、個人の尊厳を毀損するような内容の定めを設けているときは、別に十四条・十三条違反の問題を生じうる」と述べています。ただし、平等権の審査の詳しい中身は、別の回の内容です。ここで押さえてほしいのは、余計な条項に対する攻め方です。正面から二十五条で攻めるだけでなく、平等の筋も併走する、ということです。さっき見た、立法府の広い裁量です。堀木訴訟のとおり、明白性という高いハードルがあります。だから、平等の筋を、もう一つの武器として持っておく必要があるんです。

生存権侵害の四つの争い方②——制度が後退した、行政が動かない

四つの争い方③④(③制度が後退した=相手は法改正・審査密度が狭まるとする有力説と最高裁の態度は違う/④行政が給付しない朝日型=相手は行政の処分・憲法適合解釈で法律違反として処分を取り消す) 図:四つの争い方③④

  • ③制度が後退した=相手は法改正・審査密度が狭まるとする有力説と最高裁の態度は違う
  • ④行政が給付しない朝日型=相手は行政の処分・憲法適合解釈で法律違反として処分を取り消す

三つ目です。制度が後退した場合です。一度作られた制度が、後から縮小されたり廃止されたりする場面です。この場合、まず考え方の前提があります。従前の立法によって、生存権は具体的権利になっている、と解します。そのうえで、制度を後退させる法改正は、その具体的権利の制限にあたる、と構成します。ここで、学説の間には有力な見解があります。制度を後退させる場面では、立法裁量の幅が特に狭まるべきだ、という考え方です。この考え方は、「制度後退禁止原則」と呼ばれることがあります。ここで、実際の判例を見てみましょう。老齢加算廃止訴訟です。七十歳以上を対象とする、生活扶助への老齢加算があります。この加算が、厚生労働大臣による基準の改定で段階的に減らされ、最終的に廃止された事案です。

ここで、最高裁がどう判断したか、慎重に見ていきましょう。まず、判断の枠組みそのものは、堀木訴訟をそのまま引いています。専門技術的かつ政策的な見地からの裁量権が、厚生労働大臣に認められる、という枠組みです。制度が後退した場面でも、最高裁は審査密度を特に上げるという考え方は採っていません。そこが、この判例のいちばんの注意点です。だからといって、「野放しにした」わけでもありません。ここが、丸暗記だと見えなくなる部分です。

判例最判平成24年2月28日。……は先例の書誌の省略

老齢加算廃止訴訟——判旨(厚生労働大臣の専門技術的・政策的裁量) もっとも、これらの規定にいう最低限度の生活は、抽象的かつ相対的な概念であって、その具体的な内容は、その時々における経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであり、これを保護基準において具体化するに当たっては、高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである……。したがって、保護基準中の老齢加算に係る部分を改定するに際し、最低限度の生活を維持する上で老齢であることに起因する特別な需要が存在するといえるか否か及び高齢者に係る改定後の生活扶助基準の内容が健康で文化的な生活水準を維持することができるものであるか否かを判断するに当たっては、厚生労働大臣に上記のような専門技術的かつ政策的な見地からの裁量権が認められるものというべきである。

判例最判平成24年2月28日(同じ判旨のつづき)。……は法9条の説示など3段落の省略

老齢加算廃止訴訟——判旨のつづき(裁量権の逸脱・濫用の判断) ……老齢加算の廃止を内容とする保護基準の改定は、①当該改定の時点において70歳以上の高齢者には老 齢加算に見合う特別な需要が認められず、高齢者に係る当該改定後の生活扶助基準の内容が高齢者の健康で文化的な生活水準を維持するに足りるものであるとした厚生労働大臣の判断に、最低限度の生活の具体化に係る判断の過程及び手続における過誤、欠落の有無等の観点からみて裁量権の範囲の逸脱又はその濫用があると認められる場合、あるいは、②老齢加算の廃止に際し激変緩和等の措置を採るか否かについての方針及びこれを採る場合において現に選択した措置が相当であるとした同大臣の判断に、被保護者の期待的利益や生活への影響等の観点からみて裁量権の範囲の逸脱又はその濫用があると認められる場合に、生活保護法3条、8条2項の規定に違反し、違法となるものというべきである。

一つ目は、大臣が結論を出すまでの判断の進め方についてです。そこに、見落としや誤りが無かったか、という観点です。二つ目は、廃止によって失われる被保護者の生活への影響に、配慮があったか、という観点です。ここで、規範として整理しておきましょう。

論文で書く規範:老齢加算廃止訴訟の判断枠組み——違法となる二つの場合 ①老齢加算に見合う特別な需要の有無・改定後の基準が十分かについての厚生労働大臣の判断に、判断の過程及び手続における過誤、欠落の有無等の観点からみて裁量権の逸脱・濫用がある場合。 ②激変緩和等の措置の要否・内容についての判断に、被保護者の期待的利益や生活への影響等の観点からみて裁量権の逸脱・濫用がある場合。 いずれかにあたるとき、生活保護法三条・八条二項に違反し、違法となる。 (規範(最判平成24年2月28日)。答案の書き方は論文シリーズで扱う)

つまり、「最高裁は制度後退を野放しにした」という理解は、正確ではありません。縛り方が違うんです。審査の密度を上げるのではなく、判断の過程を見る——これが、最高裁の答えです。そこが、今日いちばん注意してほしいところです。この呼び名は、学説の側が与えたものです。最高裁自身が使っている言葉ではありません。「有力な学説の立場」と「最高裁が実際にしていること」を、同じ場に並べて区別して持ち帰ってください。では、最後、四つ目です。行政が給付しない場合——朝日型です。この場合の相手は、行政の処分そのものです。争い方は、処分の適法性を検討することです。具体的には、生活保護法の要件について憲法に適合するように解釈をして、処分の適法性を判断します。

この道具の一般的な説明は、別の回に譲ります。今日は、二十五条の場面でどう使われるかだけ押さえてください。さきほど読んだ、生活保護法八条二項を思い出してください。基準は「最低限度の生活の需要を満たすに十分なもの」でなければならない、と書いてありました。そこを、二十五条の趣旨に照らして読むんです。現実の生活条件を無視した基準は、「十分」とは言えない。すると、その基準に基づく処分は、憲法違反ではなく、八条二項違反——法律違反になります。ここで、大事な効き目があります。憲法の話をしているのに、実際に勝つときの決め手は、法律の解釈になるんです。

憲法を正面から持ち出さなくても勝てる場面がある——これが、四つ目の争い方の効き目です。さあ、四つ揃いました。板を、もう一度見てください。法律が無い、余計な条項がある、制度が後退した、行政が給付しない。「二十五条違反だ」と言う前に、まず、このどれかを特定する——これが、今日いちばんの持ち帰りです。

環境権

環境権の二つの側面(自由権的側面=よい環境の享受を妨げられない・十三条/社会権的側面=公権力による積極的な環境保全改善の施策を求める・二十五条/明文は無いが通説) 図:環境権の二つの側面

  • 自由権的側面=よい環境の享受を妨げられない・十三条
  • 社会権的側面=公権力による積極的な環境保全改善の施策を求める・二十五条
  • 明文は無いが通説

最後に、短く、環境権を見ておきます。憲法に環境権という条文があるわけではありません。ここで、新しい人権を認めるときの道具を思い出してください。人格的生存に不可欠な利益かどうかで線を引く、あの立場でしたね。あの枠組みが、ここでも働きます。環境権とは、健康で快適な生活を維持する条件としてのよい環境を享受し、これを支配する権利、と説明されます。ここでいう環境は、生命・健康に影響を与える自然環境を指すのが通説です。この環境権にも、実は二つの側面があります。一つは、よい環境の享受を妨げられない側面——環境破壊の排除を求められる自由権的側面です。もう一つは、公権力による積極的な環境保全・改善の施策を求める、社会権的側面です。

明文は無いものの、①は十三条によって、②は二十五条によって保障される、と解するのが通説です。一つの新しい権利が、二つの条文にまたがって受け止められているんです。今度は、一つの権利が二つの条文にまたがっている。生存権の話と対になる終わり方です。最後に、環境基本法という法律も見ておきましょう。

条文環境基本法 1条

環境基本法 第一条 この法律は、環境の保全について、基本理念を定め、並びに国、地方公共団体、事業者及び国民の責務を明らかにするとともに、環境の保全に関する施策の基本となる事項を定めることにより、環境の保全に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するとともに人類の福祉に貢献することを目的とする。

この語彙の一致には、大事な意味があります。環境基本法を、生存権に関連する立法として位置づける手がかりになっています。具体的な判例や制度には、今日は立ち入りません。まずは、この二つの側面と根拠条文の骨組みだけ押さえてください。

今日の地図(保存版)

朝日と堀木の対比——二つの負け方の完成形(朝日訴訟=相手は行政の処分・問題になった裁量は厚生大臣・物差しは裁量の逸脱濫用・結末は訴訟終了と傍論/堀木訴訟=相手は法律そのもの・問題になった裁量は立法府・物差しは著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱濫用=明白性・結末は合憲) 図:朝日と堀木の対比——二つの負け方の完成形

  • 朝日訴訟=相手は行政の処分・問題になった裁量は厚生大臣・物差しは裁量の逸脱濫用・結末は訴訟終了と傍論
  • 堀木訴訟=相手は法律そのもの・問題になった裁量は立法府・物差しは著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱濫用=明白性・結末は合憲

それでは、今日の内容をまとめましょう。冒頭の問いは、これでした。法律はもうできていたのに、二人はどこで負けたのか。二つの裁判を、見比べてください。朝日訴訟は、法律の運用——厚生大臣が決めた基準が争われました。相手は行政です。物差しは、行政の裁量の逸脱・濫用でした。ただし、この判断は訴訟終了後の傍論です。しかも、その傍論も、当時の基準を違法とは認めませんでした。堀木訴訟は、法律そのもの——併給調整条項が争われました。相手は立法府です。物差しは、著しく合理性を欠き明らかに、という明白性でした。結論は合憲です。

この違いが、四つの争い方につながりました。法律が無い、余計な条項がある、制度が後退した、行政が給付しない。この「生存権侵害の四つの争い方」という地図です。「二十五条違反だ」と言う前に、誰の、どの行為を攻めているのかを特定する。これが、今日の一番の持ち帰りです。誰を拘束するかで並ぶ四つの学説も、審査の厳しさを分ける一項二項の関係も、すべて「相手をどう見るか」という、同じ問いの上に立っています。最後に、環境権で見た、二つの条文にまたがる権利という終わり方も思い出してください。二十五条は、一つの顔ではありません。抽象的権利にとどまる社会権的側面と、それだけで動ける自由権的側面。相手が行政なのか立法なのか。そして、法律が無いのか、余計なのか、後退したのか、動かないのか。

それでは、また、お会いしましょう。

参照条文

  • 日本国憲法 25条
  • 生活保護法 8条1項・2項
  • 生活保護法 1条・3条
  • 環境基本法 1条

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