刑法ゼロから刑法#24

故意の種類——未必の故意と、認識ある過失の境目

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第4章 故意と錯誤 ②/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

前回までの想起と、今日の問い

これまでの到達点——今日の問いは、その先にある 図:これまでの到達点——今日の問いは、その先にある

ここまで3回にわたって、故意の判定の仕組みを組み立ててきました。認識・認容の対象は、客観的構成要件要素に該当する事実だと確認しました。物体を認識していても、意味の認識に結びつかないことがありました。だから、素人的な認識で足りる、という話でしたね。今日は、視点を変えます。故意が消えるぎりぎりの線は、どこにあるのでしょうか。前回までに組み立てた「認容があれば故意」——その故意が消えるのは、どこからでしょうか?「まだ故意」と「もう故意ではない」の境目です。今日は、その境目を2か所で引きます。

論文で書く規範:今日の問い これまでの3回で、認容があれば故意、という判定の形を組み立てた。 今日の問い:その故意が消えるぎりぎりの線は、どこにあるのか。①結果を受け入れる態度が消える線、②対象が何かの認識が消える線——2か所で引く。 (今日の出発点)

この問いを、2つの場面で確かめていきます。1つは、結果を受け入れる態度そのものが薄くなる場面。もう1つは、対象が何であるかの認識が、薄くなる場面です。どちらの場面でも、見るところは1つだけです。前に渡した、反対動機のものさし——思いとどまる火種が、まだ残っているかどうか。今日は、その火種が消える、ぎりぎりの場所を2つ、確かめにいきます。まず、足場から作っていきましょう。

分類の全体像——確定的故意と不確定的故意

故意は、まず2つに分かれる 図:故意は、まず2つに分かれる

故意には、大きく分けて2種類あります。一言でいうと、「はっきり決まっているか、まだぼんやりしているか」の違いです。はっきり決まっている方を、確定的故意と呼びます。犯罪の実現を確定的なものとして認識し、認容している場合です。たとえば、目の前にいる相手ひとりをねらって、その人に石を投げつける。誰に、どんな結果が起きるか——投げる側の頭の中では、はじめから1つに決まっています。もう一方、まだぼんやりしている方を、不確定的故意と呼びます。犯罪の実現を不確定なものとして認識し、認容している場合です。実は、この不確定的故意は、さらに3つに分かれます。概括的故意、択一的故意、未必的故意——この3つです。

3つとも「不確定」という同じ箱に入っていますが——実は、何が不確定なのかという軸が、2つのグループで違います。そこを、次から具体的な場面で確かめていきましょう。

概括的故意・択一的故意——設例Pで確かめる

Pの2つの場面——概括的故意と択一的故意 図:Pの2つの場面——概括的故意と択一的故意

文化祭の実行委員Pを、主人公にしましょう。後夜祭で、Pが観客の密集する広場に、火薬量の多い爆竹の束を投げ込みました。誰かが火傷を負うことは、ほぼ確実です。でも、広場のどのあたりの、何人が被害に遭うかは、Pには分かりません。これが、概括的故意です。一定範囲内のどれかの客体に、結果が発生することは確実だが、個数や対象を不確定なものと認識し、認容している場合をいいます。では、打ち上げの場面です。Pは、自分をのけ者にした同級生QとRの、どちらかの飲み物に下剤を混ぜようとしました。暗い中で作業したため、QとRのどちらのコップに入れたか、Pにも分からなくなってしまいました。

QかRのどちらかが体調を崩すことは、ほぼ確実です。でも、どちらに起こるかは、不確定です。これが、択一的故意です。数個の客体のうちどれかに、結果が発生することは確実だが、どれに発生するかを不確定なものと認識し、認容している場合をいいます。そこが、大事なポイントです。この2つの共通点を、覚えておいてください。

弁別——結果発生自体の確定性で区別する

弁別——確定なのは結果か、それとも結果が起きること自体か 図:弁別——確定なのは結果か、それとも結果が起きること自体か

では、ここで質問です。今の2つの場面、「結果が起きること」自体は、確実でしょうか、不確実でしょうか。概括的故意も択一的故意も、結果発生そのものは確定しています。不確定なのは、客体の個数や、どちらに起きるか、という部分だけです。それが、3つ目の未必的故意です。未必的故意だけは、犯罪的結果の発生それ自体が不確定です。だから、未必的故意は「純粋な不確定的故意」と呼ばれます。概括的故意・択一的故意は、結果発生そのものは確定していて、客体側だけが不確定でした。未必的故意は、結果発生それ自体が、不確定なんです。

ここを取り違えると、3つの違いが全部ぼやけてしまいます。

未必的故意の定義

未必的故意の定義——結果が起きるかどうか自体、不確定 図:未必的故意の定義——結果が起きるかどうか自体、不確定

では、その未必的故意を、定義の言葉で確認しましょう。

論文で書く規範:未必的故意(未必の故意)の定義 犯罪的結果の発生自体を不確定なものとして認識し、認容している場合をいう。 (規範(通説で立てる))

「定義は分かるが、実際の場面でどう見分けるか」——まさにそこが、今日いちばんの山場です。

山場①:未必の故意と認識ある過失の分水嶺——設例Cで選ぶ

運転者Cの2つの心の中——どちらが故意か 図:運転者Cの2つの心の中——どちらが故意か

見通しの悪いカーブに差し掛かった、運転者Cを考えます。後続車に追い立てられて苛立ったCは、対向車線にはみ出して、無理な追い越しをかけました。ここで、Cの心の中だけが違う、2つのパターンを考えます。パターンCaは、こう考えていました。「対向車が来るかもしれないが、来なければラッキーだし、万一来てぶつかっても、それは仕方ない」。パターンCbは、「対向車が来るかもしれないが、自分の運転技術なら間に合わせられる」と思っていました。さて、CaとCbは、どちらも「対向車が来るかもしれない」と気づいています。それでも、一方だけが故意になるとしたら——その違いは、どこにあるでしょうか。

答えは、認容の有無だけにあります。Caは、故意——未必の故意です。Cbは、故意にならず、認識ある過失として扱われます。ここでは、実際にどんな罪名になるかには、立ち入りません。認容の有無という考え方そのものだけを、確認してください。

なぜ認容の有無だけで分かれるのか——故意の本質に立ち返る

なぜ、Caだけが故意なのか——反対動機のものさし 図:なぜ、Caだけが故意なのか——反対動機のものさし

なぜ、認容の有無だけで結論が分かれるのか——理由を、最初に立てたものさしに戻って考えましょう。規範に直面し、反対動機の形成が可能だったのに、あえて行為に及んだ——それが、故意の本質でした。Caは、「対向車が来るかもしれない」と気づいていました。それだけで、規範に直面したと言えます。気づいていた以上、思いとどまる機会も、あったはずです。それなのにCaは、「仕方ない」と受け入れて、追い越しを続けました。だから、強い道義的非難が可能——未必の故意です。Cbも、同じように「対向車が来るかもしれない」と気づいてはいます。でも、「自分の技術なら間に合う」と考えて、結果そのものを拒んでいます。

規範に直面してはいますが、それを「受け入れて、あえてやった」とまでは言えません。だから、認識ある過失にとどまります。前に見た、解体工事の現場の、二つ目のパターンを覚えていますか。あちらは、結果が起きること自体を、「いないだろう」と否定する型でした。今日のCbは、起きるかもしれないと認めたうえで、「自分の技術なら避けられる」と信じる型です。Caには火種が残っていて、Cbでは消えていた。今日の山場①は、これで決着です。

山場②:ヘルマンの概括的故意——設例W、問題の所在

設例W——具体的な中身は知らなくても、故意はあるか 図:設例W——具体的な中身は知らなくても、故意はあるか

では、話題を変えます。もう1つの山場に入りましょう。今度は、対象が何であるかについての認識が、薄くなる場面です。Wは、知人からこう頼まれました。「詳しい種類は分からないが、輸入が禁止されている、希少な猛禽類の卵を運んでほしい」。Wは、海外からその卵を持ち帰りました。Wは、それが具体的にどの絶滅危惧種かまでは、知りませんでした。たとえば、イヌワシなのか、別の種類なのか、ということです。でも、「何らかの規制対象になっている猛禽類の卵らしい」ということは、分かっていました。ここで、問題が生まれます。具体的な中身の認識が無ければ、いつも故意を否定してよいのでしょうか。

もし、それで良いとすると、どうなるでしょう。密輸する側は、「詳しくは知らない」とさえ言えば、いつでも故意を否定できてしまいます。それでは、法律が守ろうとしているものが、守れなくなってしまいます。この問題を、故意の本質から、もう一度考えてみましょう。

「類」の認識で足りる理由と限界

「類」の認識で足りる理由——反対動機の火種は消えていない 図:「類」の認識で足りる理由——反対動機の火種は消えていない

この問題も、結局は故意の有無の問題です。だから、故意の本質から考えます。Wは、具体的な種——イヌワシなのか別の鳥なのか——までは、認識していません。でも、「規制対象になっている猛禽類らしい」という、上位カテゴリの認識はあります。猛禽類という大きなグループの中に、イヌワシという具体的な種が含まれています。この大きな箱、つまり類の認識さえあれば、小さな箱、つまり種の認識も、その中に含まれていると言えます。だから、それだけで、規範に直面し、反対動機を形成する契機は、十分にありました。だから、類の認識で足ります。これが、ヘルマンの概括的故意と呼ばれる考え方です。

限界——「これだけは違うはずだ」と考えていたら 図:限界——「これだけは違うはずだ」と考えていたら

ただし、ここには、大事な限界があります。もし、Wが、こう考えていたら、どうでしょう。「これは規制対象の猛禽類の卵ではあるかもしれないが、まさか一番規制の厳しいイヌワシの卵ではないはずだ」。この場合、イヌワシの卵についての認識だけが、空白になります。積極的に「これだけは違うはずだ」と排除している以上、その部分については、規範に直面する材料そのものが欠けています。だから、イヌワシの卵についての構成要件的故意は、否定されます。今日の冒頭で確認しましたね。認識・認容の対象は、客観的構成要件要素に該当する事実でした。それがそろっているか、を見る段階の故意です。3回前に二段に分けた、その一段目——第一関門のほうです。

この限界を外すと、「類の認識さえあれば何でも故意になる」という、誤った理解になってしまいます。類の認識で足りる、ただし、特定の種を積極的に排除する認識があれば否定される——この2つは、必ずセットです。類の認識があるうちは、火種はまだ残っています。その種だけを排除した瞬間に、火種が消える——山場②も、同じ一点で決まりました。

論文で書く規範:ヘルマンの概括的故意 具体的なの認識が無くても、上位カテゴリであるの認識があれば、構成要件的故意は認められる。 ただし、特定の種を積極的に排除する認識がある場合は、その部分の認識が空白になり、故意は認められない。 (規範(学説=ヘルマンの概括的故意。「足りる」側は最決平成2・2・9も同旨))

実際の判例——最高裁の判断

実際にあった事件——同じ構造の判断 図:実際にあった事件——同じ構造の判断

今の考え方は、学説の中だけの話ではありません。実際にあった事件でも、最高裁が、同じ構造の判断をしています。海外で、「何らかの違法薬物らしい白い粉」の運搬を依頼され、それを日本へ持ち込んだ事件がありました。持ち込んだ本人は、それが覚せい剤だとは、はっきりとは知りませんでした。そこで、覚せい剤の輸入罪や所持罪の、故意が争われました。

論文で書く規範:最高裁の判断(判旨・要旨) 被告人には、覚せい剤を含む身体に有害で違法な薬物類であるとの認識があった。 だから、覚せい剤輸入罪、同所持罪の故意に欠けるところはない。 (最高裁判所第二小法廷・決定(判例時報1341号157頁))

具体的に覚せい剤だと分かっていなくても、それで故意に欠けるところはない、という判断です。設例Wは、この実際の事件と同じ形で作ってあります。学説の考え方が、実際の裁判所の判断とも一致していることを、確認できました。ひとつ、押さえておきましょう。この事件で争われたのは、「何の薬物かまでは知らなかった」という側です。「これだけは違うはずだ」と積極的に排除していた場合まで、この事件が答えているわけではありません。

今日の地図(保存版)

今日の地図 図:今日の地図

では、今日の内容を、1本の地図にして振り返りましょう。まず、故意は、確定的故意と不確定的故意に分かれました。概括的故意、択一的故意、未必的故意——3つの弁別軸は、結果発生自体の確定性でした。「純粋な不確定的故意」でしたね。そして、山場①。未必の故意と、認識ある過失の分水嶺は、認容の有無だけでした。そして、山場②。ヘルマンの概括的故意です。具体的な種の認識が無くても、上位カテゴリの類の認識があれば、構成要件的故意は認められました。特定の種を積極的に排除する認識があれば、その部分の故意は否定されます。この2つは、必ずセットで押さえてください。

今日は、その火種が消えるぎりぎりの場所を、2つ確かめました。この先、いくつか、送っておく話があります。今日は「認容の有無」という向きだけを扱いましたが、行為者が思っていたことと、実際に起きたことがズレる場面もあります。そのズレをどう処理するのか——ここから先は、その話が続きます。それから、過失として扱われる場合の、過失そのものの中身は、この先まとまった回で扱います。今日出てきた「概括的故意」という言葉、実はもう一つ別の文脈でも登場します。それは、事実の錯誤のところで、あらためて扱います。1つずつ、積み上げていきましょう。

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