刑法ゼロから刑法#51

原因において自由な行為——なぜ、酔って正体を失っても完全に罰せられるのか

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第7章 責任 ③/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

導入——Dは、なぜ得をしてしまうのか

自分で招いたのに、不可罰 図:自分で招いたのに、不可罰

前回の終わりに、Dの話をしました。覚えていますか。Dが、先に大量に飲酒して責任能力を失って、その状態のまま人を刺した人ですね。責任能力は、実行行為の時点に有ればよい、という原則を確認しました。原則をそのまま当てはめると、Dは責任無能力、つまり心神喪失として、不可罰になってしまいます。どこが引っかかりますか。自分で招いた状態のほうが、得をしてしまいます。多くの人が、同じように感じます。原則そのものは、正しいままです。問題は、原則を使う場面のほうにあります。今日は、この不都合をどう防ぐかを見ていきます。

今日の位置

原則の唯一の修正場面 図:原則の唯一の修正場面

前回、行為・責任能力同時存在の原則を固めました。そして、この原則には唯一の修正場面がある、と予告しました。これを、原因において自由な行為と呼びます。今日は、その名前の中身に入ります。今日決着させるのは、根拠論だけです。なぜ完全な責任を問えるのか、という理屈の対立を固めます。まず2つの大きな立場から始まり、そのうちの片方の弱点をきっかけに、もう1つの考え方が出てきます。前回、責任能力は弁識能力と制御能力の2つで組み立てられる、と整理しました。そして、その責任能力は実行行為の時点に有ればよい、というのが原則でした。

この原則をそのまま貫くと、Dのように自分で責任無能力状態を招いた者が不可罰になってしまいます。誰もが酔えば得をしてしまう、ということです。ここから、今日の中身に入ります。

問題の所在——不都合の正体

2つの理由で許されない 図:2つの理由で許されない

原則を機械的に貫くと、なぜ許されないのか。理由は2つあります。1つ目は、国民の法感情に反することです。自分で招いた状態を理由に処罰を免れることは、素朴な正義感覚に反します。2つ目は、法益保護の要請に反することです。刑法が、生命や身体、財産を守るという役割のことです。もし原則どおり不可罰になるなら、どうなると思いますか。酔えば何をしても許されるとなれば、刑法が守るべきものが守られなくなります。しかも、この抜け道は誰でも使えます。飲酒なら、事前に準備しておくことすらできます。国民の感覚にも反し、守るべき法益も守れない。だから、完全な責任を問うための法律構成が必要になります。

まず、この法理の骨組みを、名前から確認しましょう。

原因行為と結果行為——名前を分ける意味

時間軸で見る原因行為と結果行為 図:時間軸で見る原因行為と結果行為

原因において自由な行為とは、違法な行為が責任無能力、または限定責任能力の状態でなされた場合でも、その状態を、行為者自身が責任能力ある状態のもとでみずから招いたときは、完全な責任を問えるとする法理です。判断する力や抑える力が、完全に失われてはいないけれど、著しく低い状態です。責任無能力の状態を招いた最初の行為には、原因行為という名前があります。たとえば、Dの例では飲酒がこれに当たります。原因行為の時点では、責任能力があります。まだ正常な判断力を持っています。これに対して、責任無能力の状態でなされた違法な行為のほうは、結果行為と呼びます。Dの例では、人を刺した行為がこれに当たります。

時間軸で並べると、原因行為が先、境目があって、結果行為があと、という順番になります。1つの行為として見てしまうと、責任能力を「いつ」の時点で測るかが、あいまいになってしまいます。名前を分けておけば、どちらの時点の責任能力を問題にしているかが、はっきりします。これから見る学説は、この原因行為と結果行為のどちらを実行行為と見るかで、立場が分かれます。ここからは、その1本の軸を追いかけていきます。

間接正犯類似説——自分自身を道具にする

原因行為を実行行為に置く考え方 図:原因行為を実行行為に置く考え方

1つ目の考え方は、間接正犯類似説です。かつての通説で、実行行為をどこに置くか——つまり構成要件のレベルで説明する立場です。人を道具のように利用して犯罪を実現する場合を、間接正犯と呼びます。中身は、以前の章で扱いました。この説は、Dが責任無能力状態になった自分自身を、道具のように利用したと捉えます。他人を道具にするのと同じ理屈で、自分自身を道具にする場合を考えます。たとえば、遠隔操作のロボットを思い浮かべてください。操縦者が、ロボットの腕を動かして人を刺させたとします。操縦者の操作こそが、実行行為です。この説は、Dの飲酒を、その操作に見立てます。

操縦者であるDが、酔った自分という道具を用意して、犯行を実現させたと見ます。だから、この説では、原因行為が実行行為であると解します。飲酒の時点が実行行為だとすると、その時点でDに責任能力はありますか。ありますね。まだ正常な判断力がありました。だから、実行行為と責任能力の同時存在の原則が、修正せずにそのまま満たされます。この説の強みは、そこにあります。ただ、この説には弱点が2つあります。

弱点①——早すぎる未遂 図:弱点①——早すぎる未遂

1つ目は、実行の着手が早すぎることです。実行行為が飲酒だとすると、飲み始めた時点で、もう実行の着手になってしまいます。たとえば、犯行を決意してグラスに口を付けた瞬間、そこですでに未遂犯が成立してしまいます。着手の時期そのものの細部は、また別の回で扱いますが、この違和感だけ、今は押さえてください。

弱点②——限定責任能力に使えない 図:弱点②——限定責任能力に使えない

2つ目は、限定責任能力、つまり心神耗弱の場合に、うまく説明できないことです。心神耗弱者は、判断する力も抑える力も、完全に失っているわけではありません。さっきのロボットの例えで考えてみてください。完全に他人の意のままに動くのが、ロボットです。ところが心神耗弱者は、半分は自分の意思で動いています。半分は自分の判断で動いている以上、それはもう、純粋な「道具」とは呼べません。道具と言えない以上、この説では、限定責任能力の場合に、原因において自由な行為を認めがたくなります。責任無能力の場合には認められるのに、それより軽い限定責任能力の場合に認めがたいのは、明らかに均衡を失います。

弱点①には、克服する方法があります。その弱点①を外すために、もう1つの考え方が登場します。

二元説——実行行為と着手の時期を切り離す

実行行為の場所は動かさない、着手だけをずらす 図:実行行為の場所は動かさない、着手だけをずらす

この考え方は、二元説、または因果責任連関説と呼ばれます。二元説は、間接正犯類似説と同じく、原因行為が実行行為であるという立場自体は変えません。動かさない代わりに、1つだけ工夫します。未遂犯を基礎づける実行の着手の時期を、実行行為とは切り離すんです。実行行為は原因行為の時点にあるとしても、未遂になるかどうかを決める着手の判定だけは、結果行為の時点で行います。その段階では、まだ実行の着手が認められません。だから、未遂犯は成立しません。これで、弱点①の「飲んだだけで未遂」という違和感が消えます。

なぜ両立できるのか——因果連関と責任連関 図:なぜ両立できるのか——因果連関と責任連関

二元説は、完全な責任を問える理由を、道具理論とは別のところに置きます。道具理論は使いません。理由は2つです。1つ目は、原因行為・結果行為・結果の間に因果関係があること。これを因果連関と呼びます。2つ目は、原因行為の時点で抱いていた故意や過失が、結果行為にそのまま実現されていること。これを責任連関と呼びます。この2つの連関さえあれば、道具と言えるかどうかに関係なく、完全な責任を問えると考えます。同時存在の原則が本当に求めているのは、結果を招いた選択が、責任能力のある状態でされていたことです。因果連関は、結果が原因行為から出たことを示します。責任連関は、その結果が、原因行為の時点の故意がそのまま実現したものであることを示します。

だから二元説は、この2つの連関がそろう限り、責任能力を測る時点は原因行為でよいと考えます。これが、間接正犯類似説の弱点①を外すための、二元説の工夫です。同時存在の原則は、実行行為と責任能力の同時存在のままです。ただし、その実行行為は、未遂の成立を認めるだけの実行行為である必要はない、と考えます。ここまでで、間接正犯類似説とその弱点、そしてそれを補う二元説が出そろいました。もう1つの考え方に移りましょう。

同時存在の原則修正説——非難は意思決定に向けられる

結果行為を実行行為に置いたまま説明する考え方 図:結果行為を実行行為に置いたまま説明する考え方

もう1つの考え方は、同時存在の原則修正説です。今日、有力とされている立場で、実行行為の場所は動かさず、非難が成り立つか——つまり責任のレベルで説明します。この説は、実行行為は結果行為のまま動かしません。Dの例なら、刺した行為が実行行為です。刺した瞬間の責任能力が無くても問えるようにするのが、この説の工夫です。まず、非難とは何に向けられるものか、考え直します。この説は、責任非難は、違法な行為をなす最終的な意思決定に対して向けられる、と考えます。刺すという最終的な決定そのものに、非難の焦点を置きます。

結果行為が、責任能力ある状態での意思決定の実現過程にほかならないと言えるなら、実行行為の時点に責任能力がなくても、完全な責任を問える、と考えます。たとえば、予約タイマーを思い浮かべてください。夜、正常な状態のときに、翌朝の時刻をセットしておくとします。それでも、作動した中身は、セットしたときの意思そのものです。作動した瞬間に自分が寝ぼけていたかどうかは、関係ありません。セットした意思が、そのまま実現されただけだからです。Dが、飲む前の正常な判断力があるうちに、刺すという方向へ心を固めていたとします。

だとすれば、刺すという最終行為は、酔う前の自由な意思が、そのまま実現されたものだと言えます。だから、実行行為の瞬間に責任能力が無くても、非難は成り立つと考えます。同時存在の原則は、捨てません。「実行行為、またはそれと一定の関係にある原因行為と、責任能力の同時存在」というふうに、原則の理解のほうを緩めます。ただ、この説にも弱点があります。

修正説の弱点——責任主義に跳ね返る批判 図:修正説の弱点——責任主義に跳ね返る批判

責任能力と実行行為との同時存在を不要とする点は、責任主義に反するのではないか、という批判があります。責任主義は、違うようにする力とチャンスがあったときだけ非難できる、という考え方です。この批判は、その力とチャンスを、実行行為をするその瞬間について問うべきだと見ます。過去の意思決定だけで足りるとすると、行為の瞬間の主体性を、軽く見すぎているのではないか。それがこの批判の中身です。責任主義という、この章の出発点そのものに跳ね返ってくる批判だと言えます。

なお、修正説に立っても、この法理が及ばない場面はあります。飲む前には何も決めておらず、酔ってから初めてその気になった場合、結果行為は、責任能力ある状態での意思決定の実現過程とは言えません。だから、この法理は、そもそも及びません。

ここまでで、3つの学説の中身と弱点が出そろいました。1度、並べて整理しましょう。

3つの説を並べる——実行行為をどこに置くか

実行行為の置き場所で3説を対比する 図:実行行為の置き場所で3説を対比する

表にすると、対立の軸がはっきり見えます。間接正犯類似説は、実行行為を原因行為に置きます。だから、原則はそのまま満たされます。二元説は、原則の言葉自体は変えずに、実行行為に求める中身の水準だけを緩めます。修正説では、原則の理解そのものを、修正する必要が出てきます。この1本の軸から、着手の早さの違いも、限定責任能力への適用の違いも、全部説明が付きます。この対立が最もはっきり現れる場面を、次に見ます。

限定責任能力という分水嶺

心神耗弱で犯行に及んだら、どちらの説が使えるか 図:心神耗弱で犯行に及んだら、どちらの説が使えるか

そこで、Dとは少し違う人物を考えます。Eという人がいたとします。Eは、Dほど大量には飲みませんでした。飲む前の正常な状態のとき、あらかじめ刺す決意を固めていました。ただし、飲んだあとのEは、判断する力も抑える力も、著しく鈍っていただけで、完全には無くなっていませんでした。このEに、間接正犯類似説からは、完全な責任を問えますか。さっきの弱点②のところですね。心神耗弱者は道具と言えない、という話でした。この説からは、適用を否定するのが素直という結論になります。素直に考えれば、そうです。ただ、この説の内部にも、まったく逃げ道が無いわけではありません。

間接正犯には、対象者に意思や認識が残っていても、なお道具として扱う場面が別にあります。名前だけ触れると、故意ある道具——以前、故意ある幇助的道具という名前で触れた、主体性なく指示に従っただけの人を道具と見る議論です。その考え方をEにも当てはめれば、心神耗弱者であっても、道具に準じて扱えるという説明の余地は残ります。ただし、詳しくは間接正犯の回に譲ります。

では、修正説からはどうでしょうか。修正説にとっては、Eであっても、飲む前に固めた意思が、結果行為でそのまま実現されたと言えれば十分です。相手が道具と言えるかどうかは、関係ありません。だから修正説からは、Eのような限定責任能力の場合であっても、問題なく適用できるという結論になります。

二元説では、ここは実は争いがあります。道具と言えるかどうかを問わず責任連関だけで足りると見る考え方もあれば、原因行為のときの責任と、限定責任能力のもとでの責任とを、あわせて一本として説明する考え方もあります。ここは、覚える対象ではありません。Dのような責任無能力の場合には差が出なかった学説が、Eのような限定責任能力の場合に初めて、はっきり枝分かれします。実行行為をどこに置くか——この1本の軸の違いが、Eのような場面で初めて結論の差となってはっきり現れます。だから、完全な責任を問える理屈を先に固めておくことに意味があります。ここは、論文で論点になりうる場面です。

今日はここまでにします。

今日の地図(保存版)

今日の1本の軸 図:今日の1本の軸

今日を振り返ります。原則を貫くと、Dは不可罰になってしまうのでした。そこで、原因行為と結果行為という2つの言葉を分けました。そして、実行行為をどこに置くかで、学説が対立していました。間接正犯類似説の弱点は、着手が早すぎることと、限定責任能力にうまく使えないことでした。二元説は、理由に、因果連関と責任連関という2つの連関を置きました。修正説の弱点は、責任主義に反するのではないか、という批判でした。今日は、根拠論という土台を固めました。

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