違法性の意識の要否——「法律を知らなかった」は、どこまで言い訳になるのか
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第7章 責任 ⑤/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
導入——「知らなかった」は、どこまで通用しないのか
図:刑法38条3項——本文とただし書
刑法38条3項には、こう書いてあります。
条文刑法38条3項
刑法38条3項 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。
法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思が無かったとすることはできない。ここで、Tさんという人を考えます。
図:「知らなかった」は、どこまで通用しないのか
Tさんは、ある仕事を始める前に、専門家に確認までしました。それなのに、実際には、その確認では分からない範囲で法に触れていた、という場合です。そういう人まで、法律を知らなかったというだけで、故意犯として重く罰していいのでしょうか。この納得できなさを、今日は最後まで、1本の物差しで解いていきます。
責任故意という3つ目の要素
図:責任故意という3つ目の要素
前回までに、責任能力、責任故意、期待可能性という3本柱を確認したのを、覚えていますか?今日から入るのは、3本柱の2つ目、責任故意です。構成要件の段階で問われる故意とは別に、責任の段階でもう一度問われる故意、という位置づけでした。そこは今日の中心ではないので、一言だけ言っておきます。構成要件段階の故意は、事実をどう認識していたかを見ます。責任段階の故意は、その事実を認識したうえで、行為者を道義的に非難できるかを見ます。故意の回で見た、第一関門と第三関門の区別を、別の言い方でもう一度使っています。さて、責任故意で問題になる論点は、2つあります。1つは、今日扱う、違法性の意識の要否です。もう1つは、違法性阻却事由に当たる事実の認識で、これは別の回に回します。
今日、最初から最後まで使う物差しは、1つだけです。非難できるか。この一点を、両端から中央へ寄せていきます。順番に見ていきましょう。
違法性の意識とは・厳格故意説
図:違法性の意識とは・厳格故意説
まず、違法性の意識とは何かを、定義しておきます。自分のしていることが、法に触れると分かっていること。それだけです。この意識が、責任故意の要件として必要かどうかで、学説が対立します。まず、一方の端にある立場からです。違法性の意識そのものが無ければ、絶対に非難できない、とする立場です。これを、厳格故意説と呼びます。責任主義を、とことん徹底した立場と言えます。第7章の入口で見た、責任なければ刑罰なし、責任がある場合にだけ犯罪が成立する、という原則ですね。違うようにできたはずだ、と言うためには、行為者が違法だと分かっていた、ということが欠かせない、と考えます。
とても一貫しています。ですが、この立場を貫くと、説明のつかない場面が出てきます。
批判①確信犯を処罰できない
図:批判①確信犯を処罰できない
1つ目の場面は、確信犯です。日常での使い方とは、少し違います。ここでの確信犯とは、自分の行為が、今の法律よりも正しい価値基準に合致していると、心の底から確信して行う人のことです。この人には、違法性の意識がありません。自分の行為が違法だとは、まったく思っていないからです。たとえば、自分の信念のためなら法を破ってもかまわない、と考えて活動する人です。自覚はあっても、違法だとは思っていません。だから、違法性の意識がありません。ここで、厳格故意説の理屈を、そのまま当てはめてみましょう。違法性の意識が無い以上、この人を、故意犯として処罰することはできません。
むしろ、いちばん重く処罰したいはずの人です。悪いと分かっていながら開き直る人より、正しいと信じ切っている人のほうが、かえって処罰しにくくなります。この逆転こそが、厳格故意説がいちばん説明に困る場面です。
批判②常習賭博を重く罰する条文
図:批判②常習賭博を重く罰する条文
2つ目の場面は、条文そのものの中にあります。刑法186条1項です。常習として賭博をした者は、三年以下の拘禁刑に処する、という条文です。単純な賭博は、185条により、五十万円以下の罰金又は科料にとどまります。ここから、段階を追って考えましょう。まず、賭博を繰り返している常習者を、想像してみてください。その人は、違法性への感覚が、鈍っていると思いませんか。慣れてしまって、悪いことをしているという意識が、薄くなっていそうです。繰り返すうちに、違法性の意識は、だんだん薄れていきます。ここで、条文がどう扱っているかを見てください。条文は、その意識が薄くなっている人を、単純に1回だけ賭博をした人より、軽くではなく重く罰しています。
もし、厳格故意説のように、違法性の意識そのものが責任の重さを決めるなら、意識が薄い人ほど、責任は軽くなるはずです。条文の建て付けは、厳格故意説の理屈と、正面からぶつかります。1つ目の批判が理屈の問題だとすれば、2つ目の批判は、条文自体が突きつけてくる事実です。そして、3つ目は、条文の外にある、もっと実際的な批判です。厳格故意説に立つと、一人ひとりについて、違法だと分かっていたかを、裁判で厳密に確かめなければなりません。法律を知らなかった、という弁解をいちいち認めていては、取締りそのものが成り立たなくなります。とくに、行政上の規制のように、日々作られては変わっていく決まりでは、知らなかったという人ばかりになりかねません。
厳格故意説は、この現実の要請にも応えきれません。
違法性の意識不要説とその批判
図:違法性の意識不要説
では、もう一方の端に行きましょう。違法性の意識不要説です。法の不知は許さず、として、違法性の意識の有無を、犯罪の成否と切り離します。みんな、法律の中身くらいは知っているはずだ、という考え方です。そして、厳格故意説だと確信犯や常習犯を処罰できなくなる、という、さきほど見た批判も、この説を支える理由になります。はい、この説には1つ、気をつけたい点があります。この不要説は、かつての判例の建前です。現在の判例が、この立場だと言い切ることはできません。これは、今日の終盤で、もう一度確認します。
図:不要説への批判——責任主義との抵触
不要説にも、批判があります。冒頭のTさんを思い出してください。もう少し具体的に、Tさんの状況を見てみましょう。例えば、新しい分野の商品を扱う仕事を始めるとします。Tさんは、始める前に、専門家に相談して、大丈夫だという回答をもらっていました。ところが、その分野には、専門家の間でもまだ見解が固まっていない、新しい規制がありました。これが、違法性の意識の可能性が無い、という状態です。不要説に立つと、Tさんも、法律を知らなかっただけだ、として、故意犯として処罰されます。責任主義を思い出してください。非難できるのは、違うようにできたはずだ、と言えるときだけでした。
不要説は、違法性の意識を欠いたことが、どれだけ注意しても気づけなかった場合まで、故意犯として重く処罰することになります。だから、責任主義に抵触します。片方は確信犯と常習犯を、もう片方はTさんのような人を、うまく扱えません。この両端の不都合を、同時に解く場所はないのでしょうか。
中央=可能性必要説へ
図:両端の不都合を、同時に解く
ここで、故意の本質を思い出してください。規範に直面し、反対動機の形成が可能であったにもかかわらず、あえて犯罪行為に及んだこと。だから、強い道義的非難が可能でした。反対動機の形成というのは、やめておこう、と思い直せる機会のことでしたね。この物差しを、違法性の意識の話に、もう一度当ててみます。違法性の意識を持って悪事に及んだ人と、持たずに悪事に及んだ人を比べてみましょう。意識を持っていた人のほうが重い、と思えますか。ですが、どちらも、規範に無関心な人格態度、という一点では、同じではありませんか。意識を持っていた人は、規範を分かっていながら踏みにじりました。意識を持っていなかった人も、規範に向き合う機会があったのに、向き合わなかった、という点では変わりません。
だから、違法性の意識そのものは、責任故意の要件でなくてよい、ということになります。ここで、もう1つ条件を付けます。違法性の意識の可能性すら無かった人には、この非難を向けようがありません。だから、違法性の意識の可能性は、責任故意の要件として、なお必要になります。両端の不都合は、これで両方とも解けます。確信犯や常習犯は、違法性の意識を持っていたか、少なくともその可能性はあったので、非難できます。Tさんのように、可能性そのものが無かった人だけが、非難を免れます。この立場を、制限故意説と呼びます。上位の括りとして、違法性の意識の可能性必要説という言い方もあります。
⭐ 論文で書く規範:制限故意説の中身 違法性の意識そのものは責任故意の要件ではない。もっとも、違法性の意識の可能性は、責任故意の要件として必要である。 (規範(通説型・自説=制限故意説))
Tさんには、専門家に相談しても分からなかった、という事情がありました。つまり、違法性の意識の可能性そのものが、無かったことになります。可能性が無い以上、Tさんを非難することはできません。ただ、この立場の呼び方には、注意が要ります。可能性必要説という括り自体は、広く支持されています。ですが、この括りの中が、実はもう一段割れています。
制限故意説と責任説——差はどこか
図:可能性が無い場合、結論が分かれる
可能性必要説の中は、制限故意説と、責任説の2つに割れます。ただ、2つの差が現れるのは、たった1つの場面だけです。違法性の意識の可能性が、無い場合です。可能性がある場合は、どちらの立場でも、結論は同じです。責任故意があるので、犯罪は成立します。差が出るのは、可能性そのものが無い場合、つまりTさんのような場合だけです。制限故意説は、可能性の有無を、故意という要件の内部に置きます。だから、可能性が無いと、故意だけが崩れます。故意が崩れても、注意義務違反があれば、過失犯は別に成立する余地が残ります。責任説は、可能性の有無を、故意から切り離して、責任そのものを支える独立の要素として置きます。
責任説は、故意を、構成要件に当たる事実を認識していたか、という一点で捉えます。違法かどうかの評価は、その事実の認識とは別の話だ、と考えるわけです。そして、可能性が無いと、責任そのものが崩れます。故意も過失も、両方とも道連れで崩れます。過失犯すら、成立しません。ここは、逆に覚えると、答案の結論がひっくり返る、いちばん危ない場所です。
図:渡る前の判断を、どこまで問うか
責任の入口で見た、赤信号を無視した場面を、もう一度だけ使います。今度は、渡る前の判断のほうを見てください。制限故意説は、可能性が無かった場合を、その足を踏み出す判断が、そもそも成立していなかった、という扱いにします。信号のある交差点だと気づく努力を怠っていれば、その不注意の責任は、別に残ります。責任説は、その交差点に来たこと自体を、その人の行為として評価しません。判断も、周囲を見る責任も、まとめて免除されます。Uさんという人を考えましょう。Uさんには、違法性の意識の可能性が、まったくありませんでした。
故意犯としての責任は、否定されます。ただ、不注意で気づけなかった部分があれば、過失犯として処罰される可能性が残ります。責任説では、Uさんの責任そのものが否定されます。過失犯としても、処罰されません。ここが、2つの説の分かれ道です。制限故意説からは、故意犯は不成立でも、過失犯の規定があれば、その罪であらためて処罰される可能性があります。責任説からは、その過失犯の規定も使えません。責任そのものが無い以上、過失犯としての処罰にも及びません。同じUさんの同じ事実なのに、立つ説だけで、有罪か無罪かが変わります。
図:可能性が無い場合の結論の違い
表で確認しましょう。故意犯としての責任は、どちらの立場でも、否定されます。ここまでは同じです。制限故意説では、過失犯の余地が残ります。責任説では、責任自体が無いので、過失犯も残りません。この動画が立つのは、制限故意説です。この回も、制限故意説の立場で進めます。責任説は、対立する立場として、名前と結論の違いだけ押さえておいてください。制限故意説と責任説のどちらに立つかは、論文で論点になりうる場所です。分かれ道の正体も、結局は同じ物差しです。可能性の無い人を、どこまで非難から外すか、という一点だけです。ここまでで、学説の対立は出そろいました。最後に、条文そのものに戻ります。
38条3項は結論ではなく試験紙
図:同じ条文が、説で読み方を変える
冒頭で見た、刑法38条3項をもう一度開きます。今度は、違う読み方をしてみます。実は、同じ一つの条文が、立つ説によって、読み方ごとまったく変わります。
条文刑法38条3項
刑法38条3項 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。
「法律を知らなかった」という本文の意味から見てみましょう。厳格故意説では、個々の条文を知らなかった、という意味になります。不要説では、違法性の意識が無かった、という意味になります。制限故意説では、違法性の意識は無かったが、可能性はあった、という意味になります。可能性まで含めて、条文を読むわけです。ただし書は、減軽が働く場面です。厳格故意説では、個々の条文を知らなかったことに、宥恕すべき点がある場合です。汲むべき事情がある、くらいの意味です。不要説では、違法性の意識が無かったことに、宥恕すべき点がある場合です。
制限故意説では、可能性はあったのに、違法性の意識を欠いてしまったことに、宥恕すべき点がある場合です。38条3項は、答えを決める条文ではなく、ここまでの学説対立を映す、試験紙のようなものです。
判例の現在地——百円札模造事件
図:判例の現在地——百円札模造事件
最後に、判例の現在地を確認します。先ほど、不要説はかつての判例の建前だ、と言いました。では、現在はどうなっているのでしょうか。ある事件を紹介します。宣伝のために、百円紙幣に酷似したサービス券を作った人がいました。この人は、事前に警察官に相談していました。警察官からは、具体的な助言を受けていました。紙幣と紛らわしくならないよう寸法を変えること、見本という文字を入れること、という助言です。ところが、警察官の態度が好意的だったことなどから、この人は助言を軽く見て、作成を続けてしまいました。完成品を警察署に持って行っても、格別の注意を受けなかったので、ますます安心しました。そして、ほぼ同じ物をもう一種類作ってしまいます。
ここで、最高裁がどう言ったかに注目してください。
判例最高裁判所第一小法廷決定 昭和62年7月16日(刑集41巻5号237頁)
百円札模造事件——見解の採否を留保したうえでの判断 違法性の意識を欠くにつき相当の理由があれば犯罪は成立しないとの見解の採否についての立ち入った検討をまつまでもなく、本件では違法性の意識を欠いていたとしても相当の理由があるとはいえないとして、有罪を維持した。
可能性必要説を採るかどうか、という点について、最高裁は判断そのものを保留したんです。もし可能性必要説に立ったとしても、この被告人には、可能性を欠いたことに相当な理由が無い。だから、その見解を採るかどうかを決めなくても、結論は有罪で変わらない、という言い方です。Tさんは、専門家の助言に従い、それでも知りようがなかった人でした。ですが、この事件の被告人は、具体的な助言を受けながら、それを自己都合よく軽く見て、押し切っています。だから、この決定を、可能性必要説が確定した証拠として使うことはできません。ですが、不要説のように、意識の有無を最初から無関係とする立場でもありません。
不要説から離れつつ、可能性必要説だとも言い切らない。これが、要否論の現在地です。この先の細かい事実の当てはめは、別の回で扱います。
今日の地図(保存版)
図:今日の1本の物差し
今日を振り返ります。厳格故意説は、確信犯と、186条1項の常習賭博を説明できませんでした。そこで、両端の不都合を解く中央として、可能性必要説を立てました。違法性の意識そのものは不要、でも可能性は必要、という立場です。制限故意説なら過失犯が残り、責任説なら過失犯も残りません。この回は、制限故意説の立場で進めました。そして、最高裁は、可能性必要説の採否そのものを留保しつつ、不要説からは離れつつある、というのが現在地でした。非難できるか、という一点さえ押さえておけば、学説の名前は、あとから自然に付いてきます。
参照条文
- 刑法38条3項