法律の錯誤——「たぬき」と「むささび」で結論が分かれた理由
印刷のコツ
プリンターでは次の設定がおすすめです。
- 用紙:A4 / 向き:縦
- 拡大縮小:「実際のサイズ」(フィット縮小しない)
- 両面印刷:オン、とじ方は「長辺をとじる」(左綴じ)
- モノクロ印刷OK(強調は色でなく太字なので白黒でも読めます)
第7章 責任 ⑥/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
導入——同じ取り違えなのに、なぜ結論が分かれるのか
図:同じ「名前の取り違え」、結論は真逆
今日は、2つの事件を並べるところから始めます。どちらも、捕獲が禁じられている動物を、別の名前だと思い込んで捕まえた、という事件です。片方は、有罪になりました。もう片方は、無罪になりました。しかも、裁判所は、この2つは矛盾していない、と言っています。この納得できなさを、今日は最後まで、1本のものさしで解いていきます。答えを先に言っておきます。分かれ目は、当時の一般人がその動物を見て、何と判断したはずか——事実認識の水準、この一点だけです。
前回の受け——法律の錯誤とは
図:法律の錯誤とは
前回、違法性の意識そのものは要らないが、その可能性は要る、というところまで来ましたが、覚えていますか?制限故意説でしたね。今日は、その可能性が問題になる典型的な場面、法律の錯誤に入ります。行為者が、事実は正しく認識しているのに、それが法に触れるとは気づかなかった場合です。事実は正しく認識している、というこの一点が、あとで事実の錯誤との区別のところで効いてきます。忘れないでください。なお、違法性の錯誤、禁止の錯誤ともよばれます。
法律の錯誤の原因——法の不知とあてはめの錯誤
図:法律の錯誤の原因は2つ
法律の錯誤には、原因が2つあります。1つ目は、法の不知です。その行為を禁止する法律があること自体を、知らない、あるいは忘れていた場合です。たとえば、Pさんという人を考えます。Pさんの住む街で、新しくドローンの飛行を規制する条例が施行されました。Pさんは、そんな条例ができたことをまったく知らないまま、いつもどおり公園でドローンを飛ばしました。これが、法の不知です。2つ目は、あてはめの錯誤です。法律の解釈を誤って、自分の行為はその条文に当たらないと思い込む場合です。Qさんという人を考えましょう。Qさんは、ある条例が「飲食店」の営業に許可を求めていることは知っていました。ですが、自分がやっているのは移動式の販売車だから、この条例の「飲食店」には当たらないだろう、と考えました。実際には、その条例の「飲食店」には、移動販売車も含まれる、という解釈が確立していました。
法の不知と、あてはめの錯誤。原因は、この2つに分かれます。なお、外し方は、条文の言葉の意味を読み違える場合だけとは限りません。目の前の対象が、その条文の言葉に当たるかどうかを見誤った場合も、同じあてはめの錯誤です。Pさんは、規制する条例があること自体を知りませんでした。何を知らなかったか、と言えば、条例の存在そのものです。Qさんは、条例の存在は知っていました。何を誤解したか、と言えば、自分の移動販売車がその条文の対象に含まれるかどうかという、あてはめの部分です。この違いは、あとで可能性の有無を判定するときにも、効いてきます。
落とし穴——原因があれば法律の錯誤になる、わけではない
図:落とし穴——原因だけでは足りない
ここで、1つ、注意しておきたい落とし穴があります。法の不知や、あてはめの錯誤があれば、それだけで法律の錯誤になる、と思ってしまいがちです。原因があるだけでは、まだ法律の錯誤にはなりません。具体的な条文を知らなくても、なお自分が「悪いことをしている」という意識を持つことは、十分にありえるからです。もう一度、Pさんに戻りましょう。Pさんは、条例の存在は知りませんでした。ですが、住宅街の真上で低空飛行させれば、人に危害が及びうる、危ないことをしている、という意識は持っていたかもしれません。この場合、Pさんには、なお違法性の意識があった、といえてしまいます。だから、①法の不知やあてはめの錯誤という原因があり、かつ、②それゆえに違法性の意識そのものを欠いたとき、はじめて法律の錯誤を論じる必要が出てきます。
もう少し、処理まで踏み込んでおきましょう。もし、Pさんが本当に、危ないことをしているという意識まで持っていたなら、どうなりますか。だとすると、Pさんは、そもそも法律の錯誤の入口にすら立っていません。違法性の意識がある以上、責任故意は普通に認められます。条文を知らなかったのに故意犯になる、というこの結論が、初学者のいちばん誤解しやすい場所です。「条文を知らなかった」と聞くと、反射的に責任故意が落ちると思ってしまいますが、違法性の意識さえ残っていれば、法律の錯誤の議論に進む必要そのものが無いんです。
「条文を知らなかった、だから法律の錯誤だ」と機械的に貼ってしまうと、この2段構えを見落とします。
処理の出発点——制限故意説から原則阻却されない
図:処理の出発点
ここで一度、思い出してほしい問いがあります。前回、違法性の意識そのものは要らないが、その可能性は要る、という結論に至ったのは、どんな説でしたか。制限故意説です。両端の不都合を解く、中央の立場でした。この回も、その制限故意説の立場で進めます。制限故意説からは、法律の錯誤が生じても、原則として責任故意は阻却されません。違法性の意識そのものは、もともと要件ではないからです。阻却されるのは、違法性の意識の可能性すら無かった場合だけです。そこを、原因の種類ごとに、見ていきましょう。
可能性すら無い場合①——法の不知による場合
図:法の不知による場合の可能性
まず、法の不知による場合です。法律は、官報への掲載など、合理的な方法で公示されているのが原則です。だから、法の不知による場合には、原則として、違法性の意識の可能性を肯定してよいことになります。可能性がある、ということですから、阻却されにくい、という方向です。Pさんの街の条例も、条例として公布されている以上、調べようと思えば調べられる状態にはありました。だから、Pさんについても、原則として、可能性は肯定されます。可能性を否定するには、よほど特殊な事情、たとえば、周知の手段自体に重大な欠陥があった、というような事情が要ります。
可能性すら無い場合②——あてはめの錯誤による場合
図:あてはめの錯誤——信頼した相手で分かれる
次に、あてはめの錯誤による場合です。ここは、誰の意見を信頼したかで、場合分けします。まず、確立していると考えられる判例や、所管官庁の公式見解を信じた場合です。この場合は、原則として、違法性の意識の可能性を否定してよいことになります。可能性が無い、ということですから、阻却されやすい、という方向です。Qさんの例で考えるなら、もし所管官庁が公式に「移動販売車はこの条例の対象外だ」という見解を示していて、Qさんがそれを信じていたなら、可能性は否定されやすくなります。ところが、これに対して、公務員の個人的な意見を信じたにすぎない場合は、扱いが変わります。
窓口の担当者が、正式な見解としてではなく、自分の判断で「大丈夫だと思いますよ」と答えたような場合です。この場合には、違法性の意識の可能性は、肯定されるのが通常です。公的な確立した見解なら否定されやすく、個人の意見にすぎないなら肯定されやすい。ここは逆に覚えると、答案の結論がひっくり返る場所です。考えてみましょう。所管官庁の公式見解や、確立した判例は、国家がいわば公式に示した基準です。その基準どおりに動いた人を、あとから非難するのは、酷ではありませんか。国のお墨付きに従っただけなのに、責められるのは筋が違う気がします。だから、可能性は否定されやすくなります。これに対して、公務員の個人的な意見や、私人、法学者や弁護士の意見は、あくまで私的な判断にすぎません。
私的な判断に頼った以上、それが外れたときの危険は、最終的には自分で引き受けるべきだ、という考え方です。「誰の言葉か」ではなく、「その言葉に、国家の基準としての重みがあるかどうか」が、分かれ目の理由です。実は、前回見た判例が、まさにこの場面でした。百円札模造事件は、警察官から、紛らわしいものを作れば法律に触れると告げられ、助言まで受けていたのに、その態度が好意的だったことを頼りに、助言のほうを重大視しなかった事案でした。あれは、公務員の個人的な意見を信じたにすぎない場合の、典型でした。
図:私人の意見を信頼した場合
最後に、私人の意見を信頼した場合です。法律の専門家でない一私人の意見を信じたにすぎない場合は、当然、違法性の意識の可能性は肯定されます。では、法学者や弁護士のような、専門家の意見を信頼した場合はどうでしょうか。この場合も、違法性の意識の可能性を肯定するのが通説です。法学者や弁護士の意見は、あくまで私的な見解にとどまります。確立した判例や、所管官庁の公式見解とは、重みが違う、と見るわけです。
図:あてはめの錯誤——信頼した相手で分かれる(まとめ)
まとめると、法律そのものの公示、確立した判例や所管官庁の公式見解は、可能性を否定する方向。公務員の個人的な意見、私人の意見、法学者や弁護士の意見は、可能性を肯定する方向です。可能性が否定される、つまり本当に責任故意まで阻却される場面は、実はかなり狭いんです。
視点の切り替え——そもそもどちらの箱か
図:そもそも、どちらの箱に入れるのか
ここまでは、法律の錯誤という箱に、すでに入っていることを前提に話してきました。ですが、ここで視点を切り替えます。そもそも、その箱に入れていいのか、という話です。冒頭で、法律の錯誤とは、事実は正しく認識しているのに違法性に気づかなかった場合だ、と言いました。覚えていますか。事実は分かっている、というところがポイントだと言われました。もし、その事実の認識自体が欠けていたら、それはもう法律の錯誤ではなく、事実の錯誤になります。事実の錯誤の一般論は、別の回で扱っていますので、ここでは結論だけ確認します。客観的な構成要件に該当する事実の認識を欠く場合、それは事実の錯誤で、原則として構成要件的故意が阻却されます。
しかも、法律の錯誤は原則阻却されないのに対して、事実の錯誤は原則阻却される。結論が真逆です。事実の認識は、故意そのものの中身だからです。中身が欠ければ、故意は、構成要件のいちばん手前の段階で消えます。これに対して、その事実が法に触れるかどうかの評価に気づけたかは、故意の中身ではなく、どこまで非難できるかの問題です。だから効くのは責任の段階だけで、しかも原則としては故意を落としません。しかも、その違いは、罪名のレベルにまで響きます。事実の錯誤なら、構成要件的故意が、いちばん手前の段階で落ちます。可能性がどうこう、という議論に進む前に、故意犯としての検討自体が終わります。
これに対して、法律の錯誤なら、責任故意の段階まで進んだうえで、しかも原則としては落ちません。つまり、同じ「取り違え」でも、事実の錯誤なら故意犯はほぼ確実に不成立、法律の錯誤なら故意犯がほぼ確実に成立する、というくらい、到達点が違います。この線引きの基準が、今日いちばん大事な場所です。
区別の一般的基準——故意の本質から導く
図:区別の一般的基準——故意の本質から導く
この線引きは、故意の本質から導きます。覚えていますか。故意の本質は、規範に直面し、反対動機の形成が可能であったにもかかわらず、あえて犯罪行為に及んだことへの、強い道義的非難でした。ここで、規範に直面する、というのが、どういうことかを考えます。一般人ならば、違法性を意識しうる程度の事実認識を持っている場合、その人は、規範に直面する機会を、ちゃんと与えられていたといえます。この「一般人なら」という測り方は、規範的構成要件要素のところで見た、素人的認識で足りる、という考え方と同じ形です。だとすれば、一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識を有する場合が、法律の錯誤。その事実認識すら、錯誤によって欠いている場合が、事実の錯誤。と解するのが妥当です。
このものさしは、暗記すべき定型文ではありません。故意の本質という道具から、当然に出てくる帰結です。
⭐ 論文で書く規範:法律の錯誤と事実の錯誤の区別 故意の本質は、規範に直面し、反対動機の形成が可能であったにもかかわらず、あえて犯罪行為に及んだことへの強い道義的非難にある。一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識を有する場合には、原則として規範に直面し反対動機の形成が可能であったといいうる。とすれば、一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識を有する場合が法律の錯誤であり、この事実認識すら錯誤によって欠いている場合が事実の錯誤であると解する。 (規範(学説からの帰結・故意の本質からの導出))
ここで、たとえば、という形で、2つの事例を並べて確かめておきましょう。まず、ある河川で、体長20センチほどの、誰が見ても魚だと分かる生き物の採取が禁じられているとします。Rさんは、その生き物を採って持ち帰りました。Rさんも、それが魚であることは、はっきり認識していました。ただ、この種類の採取が禁止されているとまでは知りませんでした。事実認識は足りています。だから、これは法律の錯誤です。一方で、Sさんという人を考えます。ある地域で、稚魚によく似た、体長3センチほどの生物の採取が禁じられていました。専門家以外には、その生物が稚魚とは別の、希少な生き物だとは、ほとんど知られていませんでした。
Sさんも、一般人も、それをただの稚魚だと思って採ります。一般人でも、稚魚ではなく規制対象の生物だと見分けるだけの事実認識は、持ちようがありません。事実の錯誤です。同じ「採取した生き物の名前を知らなかった」でも、一般人に見分けがつくかどうかで、結論が変わります。いいでしょう。では、行為者が捕った動物を、地方でだけ別の名前で呼んでいた場合と、そもそも一般に、別の動物だと信じられていた場合とで、結論は同じだと思いますか。地方だけの呼び方の違いなら、その動物自体は見た目で分かりますよね。でも、そもそも別の動物だと思われていたら、見た目だけでは判断できない気がします。その違いが、今日の後半で扱う2つの事件の分かれ目そのものです。実際の判例で、確かめてみましょう。
むささび・もま事件——事実認識はあった
図:むささび・もま事件
1つ目の事件です。捕獲が禁じられている、むささびという動物がいます。被告人は、自分の捕った動物を「もま」と呼び、もまなら捕っても問題ないと信じていました。むささびを、その地方だけ「もま」と俗称していたにすぎませんでした。ここで、当時の事情を見てください。むささびという動物の形状自体は、広く一般に知られていました。今日のものさしを当ててみましょう。一般人が、この動物を見たら、どう判断したはずですか。見た目からして、むささびだと分かったはずです。一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識は、あったといえます。
「もま」という呼び方を知らなくても、むささびという動物の姿形そのものは、広く知られていました。つまり、方言を知っているかどうかとは関係なく、その動物を見れば、一般人は「むささびだ」と判断できたはずです。だから、事実の錯誤ではなく。
判例大審院判決(大正13年4月25日)
むささび・もま事件——事実の認識に欠けるところはない むささびと「もま」とが同一であることを知らず、「もま」なら捕獲しても罪にならないと信じて捕獲したにすぎない場合は、犯罪の成立に必要な事実の認識に欠けるところはなく、ただその行為が違法であることを知らなかったにとどまるとして、故意の阻却を認めなかった。
法律の錯誤です。事実認識は足りている以上、これは箱としては法律の錯誤に入ります。そのうえで、法律の錯誤の中の処理に進みます。今日の前半で見た枠組みです。あてはめの錯誤のほうです。被告人は、目の前の動物が、捕獲を禁じる規定のいう「むささび」には当たらない、と判断していました。条文の言葉の読み方を誤ったのではなく、目の前の対象がその言葉に当てはまるかを見誤った。どちらも、条文と自分の行為を突き合わせるところでの取り違えです。そして、公的機関の見解を信頼したというような特殊事情も見当たりません。原則どおり、違法性の意識の可能性は肯定され、責任故意も阻却されません。
たぬき・むじな事件——事実認識が届いていない
図:たぬき・むじな事件
2つ目の事件です。捕獲が禁じられている、たぬきという動物がいます。被告人は、自分の捕った動物を「むじな」と呼び、むじななら捕っても問題ないと信じていました。生物としては、同じ動物です。ですが、ここが、むささびの事件と決定的に違います。大審院の認定によれば、当時、一般に、たぬきとは別に、むじなという動物がいると信じられていました。両者が同一の動物だということは、専門家以外には、ほとんど知られていなかったんです。今日のものさしを、もう一度当ててみましょう。事件当時、一般人が、この動物を見たら、どう判断したはずですか。
一般には、たぬきとは別の、むじなという動物だと信じられていたわけですから。一般人が見ても、これはむじなだ、捕獲禁止のたぬきではない、としか判断できません。一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識、これが届いていません。名前は知っていても、目の前の生き物が「たぬき」だと結びつけられるかどうかは、別問題です。当時の一般常識では、たぬきとむじなは、見た目も生態も違う、別々の動物だと考えられていました。むささびの事件とは逆に、名前を知っているかどうかではなく、その動物とたぬきという規制対象を結びつけられるかどうか、という水準で、一般人にも届かなかったんです。
判例大審院判決(大正14年6月9日)
たぬき・むじな事件——別の動物と信じられていた 当時、一般に「たぬき」のほかに「むじな」という別の動物がいると信じられており、両者が同一であることは専門家以外にはほとんど知られていなかったものと認め、故意の阻却を認めた。
事実の錯誤です。一般人でも到達できない水準の事実認識しか無かった以上、箱そのものが違います。はい、その手前で終わります。構成要件的故意そのものが阻却され、故意犯としては成立しません。
2つの判例は矛盾しない——分かれ目は事実認識の水準
図:2つの判例は矛盾しない
ここまでで、2つの判例を、それぞれ見ました。今度は、並べて確認します。むささび・もま事件も、たぬき・むじな事件も、捕った動物を別の名前だと信じていた、という構図は同じです。もう一度、表で並べましょう。どちらの事件でも、実際に捕った動物は、法律上、同一の動物です。ここまでは同じです。違うのは、当時の一般人が、その動物を見たら、何と判断したはずか、という一点です。むささび・もまでは、一般人が見れば、むささびだと分かりました。だから、事実認識は足りていて、法律の錯誤です。たぬき・むじなでは、一般人が見ても、むじなだとしか判断できませんでした。だから、事実認識が届かず、事実の錯誤です。
同じものさしを、2つの事案に当てて、事案の事情の違いから、結論が分かれただけです。今日の冒頭の疑問が、ここでつながりました。
今日の地図(保存版)
図:答案の処理順
今日を振り返ります。まず、法律の錯誤の原因は、法の不知と、あてはめの錯誤の2つでした。処理の出発点は、制限故意説から、原則として責任故意は阻却されない。阻却されるのは、可能性すら無い場合だけで、それは信頼した相手によって、肯定されやすいか否定されやすいかが変わりました。そして、視点を切り替えて、そもそも法律の錯誤と事実の錯誤、どちらの箱に入れるか。その基準は、一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識があったかどうか、でした。むささび・もま事件は、事実認識があったので法律の錯誤、たぬき・むじな事件は、それが無かったので事実の錯誤。
答案を書くときの順番も、これで決まります。まず、事実認識を欠くかを判定する。欠けば事実の錯誤で、そこで終了です。欠かなければ法律の錯誤に進み、違法性の意識の可能性すら無いかを判定する。この3段構えで、今日の話をすべて答案に落とし込めます。さきほどのSさんの事例で、やってみましょう。まず、①事実認識を欠くかを見ます。Sさんは、規制対象の生き物を、ただの稚魚だと思っていました。一般人でも見分けがつかない以上、事実認識を欠いています。次に、Rさんの事例です。①事実認識を欠くか。Rさんは、対象の生き物が何であるかは、正しく認識していました。欠いていません。
②事実認識を欠かない以上、Rさんは法律の錯誤に進みます。そこで、③違法性の意識の可能性すら無いかを見ます。Rさんは、採取禁止という規制の存在自体を知らなかっただけで、公的機関の見解を信頼したような事情もありません。だから、責任故意は阻却されず、故意犯として成立します。この3段構えが、今日学んだすべての結論を、そのまま答案の形にしてくれます。それぞれ、次の回以降で扱います。今日の1本のものさしを、まず自分の手で使えるようにしておいてください。