刑法ゼロから刑法#63

不能犯——未遂とのどこが違うのか

⬇ 印刷用PDF

第8章 未遂 ⑥/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

導入——死んでいた相手に向けて撃った

Aは、Bの寝室に向けて撃った 図:Aは、Bの寝室に向けて撃った

今日は、こんな場面から始めます。Aは、Bを殺そうと、Bの寝室に向けて拳銃を撃ちました。ところがBは、その少し前に、心臓の発作で亡くなっていました。Aは、Bがまだ生きていると信じきって発砲しました。ですが、客観的には、その瞬間にはもう、Bという「人」はいませんでした。これは、殺人未遂でしょうか。それとも、はじめから何も起こりえなかった、不能犯でしょうか。答えは、見る人が「何を知っているか」「いつの時点で見るか」「誰の目で見るか」によって変わります。今日は、この3つを分けて考えていきます。

今日の地図——第8章の締め

これまで着手後の話、今日は着手そのものが認められるかの話 図:これまで着手後の話、今日は着手そのものが認められるかの話

これまでは、実行に着手した後の話、つまり着手と中止を見てきました。今日は視点を変えて、そもそも実行の着手が認められるのか、という入口の問題を見ます。これを不能犯と呼びます。着手する前にやめた場合と今日の不能犯は、区別が必要です。着手前にやめた場合は、そもそも行為を進めていないので、未遂かどうかを論じる前の話です。今日の不能犯は、行為は最後までやりきったのに、行為の性質上、結果が起きる危険がそもそも無かった、という場面です。混同しないでください。前に見た回から、今日につながる話が2つあります。1つ目、思い出してください。相当因果関係の折衷説で、危険性の判断材料を決めるとき、何を基礎にすると言いましたか?

一般人が認識・予見しえた事情に、行為者が現に認識・予見していた事情を加える、でした。材料をどう選ぶかが対立の中心になる、という形は、今日もそのまま出てきます。2つ目、未遂犯の処罰根拠を考えたとき、行為者の内面の危険を見る主観主義と、外に現れた危険を見る客観主義に分かれました。この対立も、今日もう一度、別の形で現れます。

不能犯の意義と3類型

不能犯の意義と3類型(全体像) 図:不能犯の意義と3類型(全体像)

条文刑法43条

刑法43条(未遂減免) 犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者は、その刑を減軽することができる。ただし、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽し、又は免除する。

43条本文をもう一度見てください。未遂犯が成立するには、実行に着手していることが前提になります。行為の性質上、結果が起きる現実的な危険性がきわめて薄いために、実行の着手そのものが認められない場合があります。これを不能犯と呼びます。不能犯は不可罰です。ただし、別の罪、たとえば予備罪や陰謀罪が成立する余地は残ります。不能犯かどうかは、構成要件該当性、つまり犯罪の型にそもそも当てはまるかどうかの問題として位置づけられます。

不能犯の3類型 図:不能犯の3類型

不能犯には、3つの類型があります。行為の方法、つまり手段の性質上、結果発生が不可能な場合を方法の不能と呼びます。行為の客体が存在しないために、結果発生が不可能な場合を客体の不能と呼びます。一定の身分や資格が無いとその犯罪を犯せない罪で、その身分や資格が無いのにあると誤信して行為した場合を、主体の不能と呼びます。これは後ほど、独立して見ます。危険性の有無をどう判断するか——それを決めるのが、次に見る学説の対立です。

危険性の判断を分解する——3つのつまみ

危険性を測るための3つのつまみ 図:危険性を測るための3つのつまみ

ここが、今日いちばん大事なところです。危険性の有無をどう判断するかについて、学説は対立しています。ですが、その対立は、3つのつまみの設定の違いに整理できます。1つ目は、判断基底、つまり材料です。どの事実を基礎にして判断するか。2つ目は、判断時点です。いつの時点に立って判断するか。3つ目は、判断主体です。誰の目で危険性を判断するか。これから見る学説は、名前がバラバラに見えても、このつまみをどこに合わせたかの違いにすぎません。1つずつ、つまみの位置を確認しながら見ていきましょう。

両極端の学説——純粋主観説・純粋客観説

材料を極端に絞る説、極端に広げる説 図:材料を極端に絞る説、極端に広げる説

まず、両極端に位置する2つの学説を見ます。純粋主観説は、行為者が認識した事情だけを材料にし、行為者自身を基準に危険性を判断します。犯罪を実現しようとする意思を表す行為があれば、危険性の有無を問わず未遂犯になります。ここに、大きな不都合があります。たとえば、人を呪う儀式のような、科学的にはおよそ結果が起きようのない手段を使った場合でも、行為者が本気で信じていれば未遂犯になってしまいます。この不都合のため、純粋主観説を徹底すると、不能犯という概念そのものが事実上なくなってしまう、と評価されます。未遂犯の処罰根拠の回で、内面の危険だけを理由にすると、罰を止める歯止めが外側に無くなる、と見ました。純粋主観説の不都合は、それと同じ形です。

純粋客観説は、行為時に存在したすべての客観的な事実を材料にし、事後的に、科学的に危険性を判断します。純粋客観説では、Bはもう死んでいたという事実も、そのまま材料にします。ただ、客観的な事実をそのまま使う純粋客観説にも、大きな不都合があります。事後的に見れば、結果が発生しなかった理由は、必ずと言っていいほど見つかります。角度がずれていた、量が足りなかった、身体的な条件が違った。その理由は、事後にどれだけでも遡って説明できてしまうため、この物差しを貫くと未遂が成立する余地がほとんど残らなくなってしまいます。

この難点を修正しようとして登場するのが、後で見る客観的危険説です。「実際に起きた事実」をそのまま材料にするのではなく、材料の中身を組み替える、という発想の転換が起きます。ここは、伏線として覚えておいてください。

中間の3説——抽象的危険説・具体的危険説・客観的危険説

3つのつまみの一覧 図:3つのつまみの一覧

両極端の間に、3つの学説があります。まず抽象的危険説です。行為者が認識した事情を材料にする点は純粋主観説と同じですが、判断する主体を一般人に変えます。材料は行為者が認識した事情、判断する主体は一般人になります。行為者が認識した事情それ自体を材料にする点で、行為者の認識が客観的な事情と一致しているかは問いません。行為が行われたその瞬間に身を置いて、ふつうの人の目で危ないかどうかを測ります。純粋主観説との違いは、判断する主体が、行為者本人ではなく一般人になる点です。1つのつまみだけを動かすと、どう変わるかを確かめる例だと思ってください。

次に見る、伝統的に通説とされてきた説が具体的危険説です。行為者が特に認識していた事情に、一般人が認識しえた事情を加えたものを材料にし、行為が行われたその場に身を置き、ふつうの人が感じるであろう危険の有無で判断します。抽象的危険説と具体的危険説の違いは、材料の絞り込み方にあります。抽象的危険説は、行為者の認識をそのまま材料にしますが、具体的危険説は、行為者が知っていた事情でも、実際にあった事情に限って材料にし、そこに一般人が認識しえた事情を加えます。この絞り込みの有無が、後で見る事例で結論の違いになって現れます。この材料の選び方は、冒頭で思い出した、相当因果関係の折衷説と同じ形です。具体的危険説で言う「特に認識していた」は、折衷説の「現に認識・予見していた」と同じで、行為者が実際に知っていた、という意味です。具体的危険説の根拠は、実行行為性、つまり構成要件に当てはまるかどうかの判断だという理解にあります。構成要件は、社会通念に基づく違法で有責な行為の型、つまり一般人に向けた行為規範だと考えるので、危険性も一般人の見地から測るべきだ、という説明です。

具体的危険説は、伝統的には通説とされてきました。ただ、近時は、これから見る客観的危険説を有力な説明とする見方も広がっています。もう1つ、危険の現実化の回で、不能犯と因果関係が同じ答案に出たら、因果関係も折衷説で書くと筋が揃う、と言いました。その理由がここにあります。具体的危険説のように材料を限定する考え方で不能犯を書くなら、因果関係も、同じように材料を限定する折衷説にしておけば、1通の答案の中で材料の選び方が食い違いません。

具体的危険説と客観的危険説の違い(比較) 図:具体的危険説と客観的危険説の違い(比較)

客観的危険説、または修正された客観的危険説と呼ばれる説です。純粋客観説の「結果不発生の場合がすべて不能犯になりかねない」という不都合を避けるため、判断の対象を組み替えます。まず、行為の時点に存在した客観的な事実から、なぜ結果が発生しなかったのかを科学的に解明します。そのうえで、「もしこの事情が無ければ結果が発生していたはずだ」という、仮定の事実を想定します。この仮定の事実が、行為の時点でどの程度あり得たかを、経験則、つまり一般人が事後的に感じる危険感を基準にして、事後的に判断します。あり得たと言えるなら未遂、あり得ないなら不能犯です。たとえば、弾の入っていない拳銃で撃った場合なら、解明される理由は「弾が入っていなかったこと」、想定する仮定の事実は「弾が入っていたこと」です。その仮定が、撃った時点でどの程度あり得たかを見るわけです。

純粋客観説は「実際に起きた事実」をそのまま材料にしましたが、客観的危険説は「結果が発生しえたはずの、あり得た事実」に材料を組み替えます。この組み替えが、さっきの伏線の答えです。客観的危険説の側からは、一般人がどう感じたかで決めると、法益には現実に何の危険も無かった場合まで未遂にしてしまう、と具体的危険説は批判されます。近時この説が有力になってきたのは、この批判のためです。もう1つ、古くからある考え方も紹介しておきます。裁判で明らかになったすべての事情を材料にし、結果発生がおよそ不可能なら絶対的不能、可能だったのにたまたま発生しなかっただけなら相対的不能とする見方です。これを絶対的不能・相対的不能の区別と呼びます。この考え方は、客観的危険説の原型にあたる、古い形の客観説だと位置づけられます。

同じ設例に5つの説を当てる

発砲の場面に、5つの説を当ててみる 図:発砲の場面に、5つの説を当ててみる

冒頭の場面に戻りましょう。Aは、Bを殺そうとBの寝室に向けて発砲しましたが、実はBはその直前に病死していました。この1つの事案に、5つの説を順番に当てはめます。まず、純粋主観説です。Aは「Bが生きている」と認識していました。この認識を材料に、A自身を基準に判断すると、危険性ありとなり、殺人未遂です。純粋客観説では、逆になります。客観的には「Bは死んでいた」わけですから、死体への発砲を材料に、事後的・科学的に判断すると、危険性なし、不能犯です。抽象的危険説は、Aが「Bは生きている」と認識していたこと自体を材料にします。この認識が客観的な事実と一致するかは問いません。一般人の見地から見ても、行為者がそう思い込んで発砲する行為には、常に危険性があると評価されます。だから、殺人未遂です。

抽象的危険説は、一般人が死亡を認識しえたかどうかによる場合分けが生じません。次に見る具体的危険説では、ここで場合分けが起きます。具体的危険説では、Aの「Bが生きている」という認識は、客観的な事実と一致していないので、そのままでは材料にできません。ここで問うのは、一般人ならどう認識しえたかです。一般人が「Bは生きている」と認識しえた場合とは、たとえば、日常的な寝室で、発作が起きた直後のような状況です。この場合は、「生きているBに発砲する」ことを材料に、行為時・一般人の見地から見て危険性あり、殺人未遂になります。逆に、一般人も「Bは死んでいる」と分かる状況とは、たとえば、Bがすでに死体安置所に横たわっているような状況です。この場合は、危険性なし、不能犯になります。同じ「Aが生きていると思い込んでいた」という事案でも、周りの状況次第で結論が動くんです。

最後に、客観的危険説です。客観的な事実は「Bはすでに死亡していた」ことです。なぜ発砲の時点でBが死の結果を迎えなかったのかを解明すると、答えは「すでに死亡していたから」です。ここから、「発砲の時点でBがまだ生きていた」という仮定の事実が、行為の時点でどの程度あり得たかを、経験則で判断します。死亡した直後で、外から見て生死の判別が難しい状況なら、「まだ生きていた」という仮定はあり得たと評価されやすく、殺人未遂に近づきます。死亡から時間が経ち、死亡が誰の目にも明らかな状況なら、あり得ないと評価され、不能犯に近づきます。似た場合分けの構造になりやすいのですが、理論的な違いは残ります。具体的危険説は「一般人が認識しえたか」で決めるのに対して、客観的危険説は「科学的・経験則上あり得たか」で決めます。問うている中身が違う、という位置づけにとどめておいてください。ここまでの5つを、一言でまとめます。学説の対立は、材料をどこまで広げるか、いつの時点で見るか、誰の目で見るかという、3つのつまみの設定の違いに還元できます。名前を覚えるのではなく、このつまみの動かし方を覚えてください。

判断を止めて、考えてみましょう

抽象的危険説で、死体安置所の場合はどうなるでしょうか 図:抽象的危険説で、死体安置所の場合はどうなるでしょうか

では、あなたに聞きます。抽象的危険説に立つと、Bが死体安置所に横たわっていた場合、結論はどうなると思いますか?答えは、殺人未遂です。抽象的危険説は、Aが生きていると思い込んだこと自体を材料にするからです。誰の目にも死体と分かる相手への発砲まで、未遂になります。具体的危険説なら、材料は一般人が認識しえた事情に絞られるので、ここは不能犯です。構成要件を一般人に向けた行為規範と見るなら、一般人が死体と分かる相手への発砲を危険とは見ない。これが、2つの説を分ける決め手です。

判例の立場

判例が扱ってきた事案の型 図:判例が扱ってきた事案の型

ここからは、判例がどんな結論を出してきたかを見ます。まず、判例の理論的な立場は、明確には宣言されていません。ここは前提として押さえておいてください。どの説に近い結論を出しているかを、事案ごとに見ていきます。その前に、あなたに聞きます。これまでの学説を踏まえると、判例はどの説に近い結論を出しそうだと思いますか?危険性がゼロでなければ未遂を認める、という予想は当たっています。実際に見ていきましょう。まず、窃盗目的で物置の中を物色したものの、目的物がそもそも存在しなかった事案で、窃盗未遂罪の成立が認められています。

判例大審院判決

窃盗目的で物色したが、目的物が存在しなかった事案 窃盗の目的で物置内を物色したが、目的物が存在しなかったため窃取に至らなかった事案。窃盗未遂罪の成立が認められた。

物置を物色する行為は、一般に見れば、中に物があれば盗まれる危険のある行為だからです。

静脈に空気を注射した事案 図:静脈に空気を注射した事案

静脈に空気を注射した事案です。保険金を目的に、静脈へ空気を注射しましたが、注射した量は致死量に達していませんでした。

判例最高裁判所判決・刑集16巻3号305頁

静脈への空気注射で、殺人未遂罪の成立が問われた事案 静脈内に注射された空気の量が致死量以下であつても被注射者の身体的条件その他の事情の如何によつては死の結果発生の危険が絶対にないとはいえないとの原判示を相当とし、殺人未遂罪の成立を認めた。

最高裁は、原判決の判断を相当と認め、殺人未遂を認めました。原判決は、身体的条件その他の事情によっては死の危険が絶対に無いとは言えない、という言い方をしています。「絶対に無いとは言えない」という言い回しに注目してください。これは、事後的・科学的な観点から見て、危険が無かったとは言い切れない、という判断です。具体的危険説の言い方とは、違いがあります。具体的危険説は、行為の時点に立って、一般人の目で見ます。この原判示は、被注射者の身体的条件まで含めた事実を材料に、事後から見ています。つまみの位置が違うんです。

硫黄の粉末を飲食物に混入させた事案 図:硫黄の粉末を飲食物に混入させた事案

反対に、不能犯とされた事案もあります。人を殺害するために、硫黄の粉末を2回にわたり飲食物に混入させましたが、死には至らず、その後、別の方法で殺害した事案です。

判例大審院判決

硫黄の粉末を飲食物に混入させたが、死に至らなかった事案 殺害の結果を惹起することは絶対に不能であったとして、殺人については不能犯とされた(飲食物に混入させた行為については、傷害罪の限度で処罰された)。

混ぜたのは硫黄の粉末でした。裁判所は、これを飲ませても人を死なせることはおよそできず、ただ体を傷つけるにとどまる、と見ました。だから、殺人については絶対に不能、つまり不能犯としたんです。これは、さっき紹介した、絶対的不能・相対的不能の区別を使った言い方です。一方は「絶対に無いとは言えない」、もう一方は「絶対に不能」。似た言い回しを使いながら、結論の向きが逆になっています。判例は一枚岩ではなく、事案ごとに評価が分かれる、ということがよく分かる例です。残る2件は、下級審の裁判例として紹介します。1件目は、拳銃で撃たれてすでに死亡していた被害者を、まだ生きていると信じて、とどめを刺すために刃物で刺した事案です。専門家の間でも生死の判断が分かれるほど、医学的に微妙な状況だったとして、殺人未遂罪の成立が認められました。2件目は、無理心中の目的で室内にガスを充満させたものの、発見されて未遂に終わった事案です。中毒死の危険は無くても、爆発や酸素欠乏症の危険があったとして、殺人未遂罪の成立が認められました。どちらも、下級審の裁判例であることを押さえておいてください。

危険性がゼロでない限り未遂を認める傾向が多く、結論の幅は、一般人が危険と感じうる行為を広く未遂とする具体的危険説と重なる、と説明されます。ただ、使うつまみは事案ごとに違い、粉末の事案のように、古い客観説の言い回しを使う判断も残っています。

主体の不能

身分・資格を誤信した場合 図:身分・資格を誤信した場合

最後に、3類型の3つ目、主体の不能を見ます。一定の身分や資格が無いと犯せない罪で、その身分や資格が無いのに、あると誤信して行為した場合です。典型例は、公務員でない人が、自分は公務員だと誤信して、職務に関して金品を受け取った場合です。公務員という身分が、そもそもありません。方法の不能・客体の不能とまったく同じ、3つのつまみの枠組みで処理できます。定義と典型例を押さえておけば十分です。

弁別のミニ事例——第8章の地図

未遂か、不能犯か、着手前か 図:未遂か、不能犯か、着手前か

最後に、第8章のまとめとして、混ぜたミニ事例を見ます。3つの事案について、未遂か、不能犯か、それとも実行の着手前かを判定してください。Aが、Bを殺そうと刃物を買いに行っただけで、まだ実行行為に出ていない場合は、実行の着手すら認められません。今日の不能犯の話とは違う、着手前の場面です。未遂かどうかを論じる手前で終わります。Aが、致死量に届かない毒をBに飲ませ、一般人には致死量かどうか区別がつかない状況だった場合は、具体的危険説なら、一般人が危険と認識しえた事情を材料に、殺人未遂と判断されます。Aが、Bのポケットに財布があると思って手を入れたが財布が最初から存在しなかった場合は、客体の不能の典型例です。財布という客体が無くても、他人のポケットに手を入れて金品を奪おうとする行為には、一般に窃取しうる危険性が認められるため、窃盗未遂とされます。

第8章の地図(締め) 図:第8章の地図(締め)

これで、第8章の全体が1枚の地図になりました。未遂犯の処罰根拠から始まり、実行の着手、中止未遂、そして不能犯へ。すべて、「危険性をどう見るか」という同じ問いの、違う場面での現れでした。

今日の地図(保存版)

今日の到達点 図:今日の到達点

今日を振り返ります。不能犯とは、実行の着手が認められず、未遂犯にもならない場合でした。方法の不能、客体の不能、主体の不能という3類型がありました。純粋主観説と純粋客観説という両極端の間に、抽象的危険説、具体的危険説、客観的危険説という3つの説があり、同じ設例でも、つまみの設定次第で結論が動くことを確認しました。冒頭のAとBに戻ります。Aは、Bが生きていると信じて発砲しました。Bが病死していたことを、一般人が気づけたはずの状況だったのか、それとも気づきようがなかった状況だったのか。そこが分かれ道でした。

ここで、もう一度考えてみてください。もし冒頭の場面で、Bの死亡が発砲の1週間前だったとしたら、具体的危険説に立つと結論はどうなると思いますか?1週間前なら、誰の目にも明らかに死んでいると分かるはずだから、危険性なし、不能犯になる、ということですね。不能犯の学説には、論文で論点になりうる場面もあります。今日は、それを見分けるための土台を作りました。未遂の処罰根拠から不能犯まで、第8章はこれで締めくくりです。

参照条文

  • 刑法43条

刑法 全体ロードマップへ →