共謀共同正犯
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第9章 共犯 ⑥/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
受け直し——分担しなかった側は、どうなるのか
図:意思あり×分担なし、空欄のマス
前回、共同正犯の成立要件を、意思の有無と実行分担の有無という2つの軸で整理しました。そのとき、1つだけ結論を保留にしたマスがありましたね。あのとき、実行共同正犯としては成立しない、共謀共同正犯という別の問題になる、とだけ言って先送りにしました。今日は、そこに正面から入ります。計画を立て、指示を出したけれど、自分の手では犯罪の実行行為を一度もしていない人。この人を、60条の「共同して犯罪を実行した者」、つまり正犯として扱ってよいのでしょうか。手を下していないのに正犯というのは、少し違和感があります。
問題の所在——定義と条文のズレ
図:60条に、誰が当てはまるのか
条文刑法60条
刑法60条(共同正犯) 二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。
もう一度、60条の全文です。「二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。」この文言をそのまま素直に読むと、正犯といえるのは、自分で実行行為をした人だけのように見えます。ここで、共謀共同正犯を定義します。複数人で犯罪の計画を相談して決め、実際に手を下すのはそのうちの一部だけ、という場合を、共謀共同正犯といいます。この、実行していない側の人を、60条の「実行した者」に含めてよいのか。これが今日の出発点です。文言を素直に読むなら、含まれないはずです。
否定したら何が起きるか——支配型
図:Aは指示を出しただけで、現場には一度も行かなかった
まず、共謀共同正犯を認めなかった場合に、何が起きるかを見ます。1つ目の設例です。Aは、特殊詐欺グループの指示役です。事務所から、実行役のBに細かい手順を指示し、Bは指示どおりに高齢者宅を訪ね、噓の話を信じ込ませて現金を受け取りました。Aは、Bと一度も顔を合わせていません。ここで、あなたに聞きます。共謀共同正犯を認めない、つまり否定説に立った場合、Aはどう扱われることになるでしょうか?否定説に立てば、Aは自分で実行行為をしていない以上、正犯にはなれません。人を唆して犯罪を実行させた、という形で、教唆犯にとどまります。
では、Bを道具として使ったとみて、Aを間接正犯にできるでしょうか。この道も塞がれています。Bは、自分の意思で高齢者に噓をつくかどうかを判断できる、事情を分かった大人です。「これはいけない」と気づいて断る自由、つまり規範的障害があります。規範的障害のある人を、一方的に道具として支配したとは言えません。結局、否定説に立つと、Aは教唆犯にとどまります。ですが、これで本当によいでしょうか。詐欺グループ全体を仕切り、手順まで細かく指示していた黒幕を、実行犯と同じ「正犯」として処断できない。これは、かなり具合の悪い結論に見えます。
否定したら何が起きるか——対等型
図:忍び込んだのはAだけ。でも、分け前は半分ずつだった
もう1つ、別の型の設例です。幼なじみのAとBが、ある倉庫から荷物を盗み出す計画を立てました。Bは、事前にその倉庫がいつ無人になるかを調べてAに教え、盗んだ荷物は半分ずつ分ける約束をしました。当日、実際に倉庫に忍び込んで荷物を持ち出したのはAだけで、Bは現場には近づいていません。ここでも、同じことを聞きます。否定説に立った場合、Bはどう扱われることになるでしょうか?否定説では、Bは実行の手助けをしただけの幇助犯にとどまります。盗んだ物を半分ずつ分ける約束をしていたという点が、この設例の引っかかる点です。幇助犯というのは、他人の犯罪に加担しただけの立場を指す評価です。ですが、AとBは、成果を均等に分け合う対等な関係にあります。一方だけを「他人の犯罪の手伝い」として軽く評価するのは、実態に合っていないように見えます。
この2つの不都合が、共謀共同正犯を正犯として認めたくなる、実質的な理由です。
否定説の理由
図:それでも、正犯は実行行為をした者に限る、という発想
ただし、否定説にも、それなりの理由があります。フェアに見ておきましょう。正犯とは、みずから実行行為を行う者をいう。60条の「実行した」という文言も、実行行為そのものを共同する場合と読むのが、条文としていちばん素直だ、という考え方です。条文の文言に忠実であろうとすれば、否定説には強い説得力があります。ただし、この理屈を貫くと、さっき見た支配型の黒幕を、正犯として処断できなくなるという弱点を抱えたままになります。
肯定説の理論的根拠——共同意思主体説
図:共謀した全員を、1つの団体として見る発想
⭐ 論文で書く規範:共同意思主体説 共謀した者どうしが「同心一体」の関係になり、そのうちの誰かが実行行為に及べば、共謀に加わった全員が正犯といえる、とする考え方。 (批判=個人責任の原則に反する(個人を超えた団体という主体の仕業を、一人ひとりの責任として扱うことになる))
そこで、正犯と認める側、つまり肯定説の理屈を見ていきます。1つ目は、共同意思主体説です。共謀によって、AとBが「同心一体」の関係にある1つの団体のようなものになり、その団体が実行行為を行った以上、実際に手を下していない共謀者も正犯といえる、とする考え方です。ですが、これには強い批判があります。刑法は、あくまで個人の行為を個人に問う建前です。それなのに、共謀した者を1つの団体として扱い、その仕業の責任を一人ひとりに負わせるのでは、結局、団体だから責任を負えと言っているのと変わらず、個人責任の原則とぶつかってしまいます。
ただ、その団体の意思を、そのまま個人の責任に置き換えられるかが、批判の分かれ目です。
肯定説の理論的根拠——間接正犯類似説
図:互いを道具として使い合っている、という発想
⭐ 論文で書く規範:間接正犯類似説 共謀者どうしは、互いに他人を道具として利用し合っている関係にあるから、実行を分担しない者も正犯といえる、とする考え方。 (批判=①規範的障害のある者を道具として支配することはできない②互いに道具として利用し合う関係は一般に認めがたい)
2つ目は、間接正犯類似説です。共謀者どうしは、互いに他人を道具のように利用し合っている関係にあるから、実行を分担しない者も正犯といえる、とする考え方です。ですが、この理屈は、さっきの支配型のところで見た壁に、そのままぶつかります。Bには、これはいけないと気づいて断る自由、つまり規範的障害があります。規範的障害のある人を、道具として一方的に支配することはできません。さらに、そもそも「互いに道具として利用し合う」という関係自体、一般的には認めがたいという批判もあります。ここまでの2つの説は、正犯と認めたい結論には近づきますが、理屈の立て方に無理があります。
肯定説の理論的根拠——通説、前回の根拠がそのまま効く
図:実行を分担しなくても、因果性は及ぼせる
ここが、今日いちばん大事な折り返しです。前回、共同正犯の処罰根拠を確認しましたね。もう一度聞きます。一部実行の全部責任を正当化する根拠は、何でしたか?相互利用補充関係のもとで、物理的な因果性や心理的な因果性を、結果に及ぼしていることでした。相互利用補充関係とは、互いに相手の行為を自分の計画に組み込み、自分1人では足りない部分を相手に埋めてもらう関係でしたね。ここで、あなたに聞きます。この根拠は、実行行為を分担することによってしか満たされないものでしょうか。心理的因果性について、前回の毒の設例を思い出してください。自分の毒が実際には飲まれなかった側でも、仲間として計画に加わっていたこと自体が相手を心理的に後押しする、という話でした。だとすると、実行行為をしていなくても、心理的因果性は及ぼせそうです。見張りをする、計画を立てる、犯行の手順を指示する。こうした行為も、実行を担当する仲間を心理的に後押しし、ときには物理的にも実行をしやすくします。さっきの倉庫の設例で言えば、Bが調べて渡した情報が、Aの実行を後押ししていますね。
前回確かめたのは、一部実行の全部責任を負わせる決め手が、実行行為を分け持ったことではなく、相互利用補充関係のもとで因果性を及ぼしたことだ、という点でした。だとすれば、この根拠は、実行を分担しない共謀者にも、そのまま及びます。これが、通説の理屈です。実行行為を分担していなくても、相互利用補充関係のもとで因果性を及ぼしていると言える限り、共謀共同正犯を正犯として説明できます。詐欺の設例の指示役Aも、倉庫の設例で情報を渡しただけのBも、この理屈で正犯といえることになります。反対に、倉庫の近くで働くDが、何も知らずに、世間話として「あの倉庫は日曜は誰もいない」と、忍び込んだAに話していた場合はどうでしょう。Dの話も、結果として盗みをやりやすくしています。
Dは、Aと計画を組み合わせてもいないし、Aに足りない部分を埋めてもらうつもりもありません。だから、相互利用補充関係の外にいます。ですから、情報が役に立っていても、正犯とは言えません。例えば同じ情報でも、分け前を約束して渡したBとは、ここが分かれ目です。
間接正犯との境
図:断る自由があるか。そこで間接正犯と共謀共同正犯が分かれる
ここで、間接正犯とのすみ分けを、もう一度整理しておきます。前に間接正犯を見たときに、間接正犯が成立するために欠けてはいけないものは何だったでしょうか?間接正犯が成立するために欠けてはいけないのは、実行役に規範的障害が無いことでした。さっきの詐欺の設例のBのように、実行役が事情を分かった大人で、断る自由を持っている場合は、規範的障害があるので、間接正犯にはなりません。この場合は、共謀共同正犯という形で、正犯性を説明することになります。反対に、Aが自分で高齢者に電話をかけて噓を信じ込ませ、現金の受け取りだけを、事情を何も知らせずにBに「荷物を受け取ってきて」と頼んでいたらどうでしょう。Bは、断るきっかけそのものを持っていません。この場合、BはAの道具にすぎず、Aを間接正犯として考えることになります。
境目は、実行役の側に、断る自由があったかどうかです。
判例の立場
図:判例は、一貫して肯定してきた
⭐ 論文で書く規範:判例の結論 共謀共同正犯を肯定する(通称:練馬事件)。 (最大判昭33・5・28)
最後に、判例の立場です。判例は、古くから一貫して、共謀共同正犯を正犯として認めてきました。中でも有名なのが、練馬事件と呼ばれる事件です。この事件で、最高裁は、実行行為を分担しない共謀者についても、共謀共同正犯として正犯性を認めました。ただし、練馬事件で示された「共謀」の中身、つまりどこまで話し合えば共謀と言えるのかという定義は、共謀共同正犯の成立要件の問題として別に扱います。
今日の地図(保存版)
図:今日の到達点
今日を振り返ります。60条は「実行した者」としか書いていませんが、実行行為を分担しない共謀者を正犯と扱わないと、支配型では黒幕を捕まえられず、対等型では均等な仲間を過小評価してしまう、という不都合がありました。共同意思主体説は個人責任の原則に反するという批判を、間接正犯類似説は規範的障害の壁にぶつかるという批判を、それぞれ受けます。最後に残ったのが、前回立てた共同正犯の処罰根拠、相互利用補充関係のもとでの因果性が、実行行為の分担以外でも満たされうる、という通説の理屈でした。ここで、1つだけ注意しておきます。因果性を根拠にする以上、「相談さえすれば、いつでも正犯になる」わけではありません。どこまで関与すれば正犯といえるのか――その線引きが、成立要件(共謀・共謀に基づく実行・正犯意思)の問題です。
参照条文
- 刑法60条