証拠裁判主義と公知の事実
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第5章 証拠法 ①/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
導入

裁判官が、朝刊で被告人の事件の詳しい記事を読んでしまいました。この記事に書いてあった内容で、有罪の事実を認定してよいでしょうか。だめです。公判廷で取り調べられていない情報ですから。証人を呼んで、1日が24時間であることを証言させたりはしません。前回まで、証人にどう尋問するかという、証拠を法廷に出す手続を見てきました。今日は、その一段手前にある大原則、出てきた証拠で事実をどう決めるかという証拠裁判主義に入ります。答えを先に言うと、分かれ目は証拠の有無そのものではなく、その情報に当事者が反論できるかどうかです。今日はまず、証拠裁判主義という1本の軸を見ていきましょう。
317条と証拠裁判主義——「証拠による」の意味

刑事裁判で事実をどう決めるか、その大原則を定めているのが、この条文です。
条文刑事訴訟法第317条
刑事訴訟法第317条 事実の認定は、証拠による。
条文が当たり前のことを言っているだけに見えるとしたら、それは誤解です。これが歴史的に見ると当たり前ではありませんでした。かつては、火の中に手を入れさせて火傷の程度で有罪無罪を決めたり、水に沈めて浮けば有罪としたり、当事者に決闘をさせて勝った方を正しいとしたりする方法が使われていた時代があります。317条は、そうした迷信的な方法をすべて退け、公判廷で取り調べた証拠によってのみ事実を認定する、と宣言しているのです。裁判官の勘や、伝聞で聞いた話、個人的に知っている情報で事実を決めることを禁じる規定だと理解してください。
私知の禁止——裁判官が新聞記事で認定してよいか

冒頭の問いに戻ります。裁判官が、公判で取り調べられていない新聞記事の内容から事実を認定してよいか。さっき、だめだと言っていましたね。これを、裁判官の私的に知った情報、私知と呼びます。317条は、この私知による認定を禁じています。理由は2つあります。1つ目は、当事者に反論する機会がないことです。証人の証言であれば、被告人や弁護人はその証人に反対尋問をして、内容を争えます。ところが裁判官が個人的に読んだ新聞記事は、法廷に出てこないので、誰もそれを争えません。2つ目は、裁判官の個人的な思い込みで結論が左右されてしまうと、裁判の公正そのものが保てなくなることです。だから、裁判官が知っている情報であっても、公判廷に証拠として出されていない限り、それを事実認定の根拠にはできないのです。
証拠を要さない事実——公知の事実と裁判所に顕著な事実
図:公知の事実と裁判所に顕著な事実の定義を対比しなぜ証拠なしで認定してよいかを示す板
317条がそこまで厳しいなら、「1日は24時間だ」もいちいち証拠がいることになりませんか。なりません。317条は、訴訟で問題になるあらゆる事実に及ぶわけではなく、証拠による証明を要さない事実が認められています。1つは、公知の事実です。一般の人が、その存在を疑わない程度に知れわたっている事実を指します。たとえば、ある人物がかつて首相であったという歴史的な事実や、特定の日の曜日がこれにあたります。もう1つは、裁判所に顕著な事実です。裁判官が、職務上知っていて、確信を持っている事実を指します。どちらというより、そもそも争う余地のない一般的な法則や経験則にあたるもので、これも証明を要しません。重力加速度がおよそ秒速毎秒9.8メートルであることも同じ扱いです。誰にとっても疑いようがない事柄まで、証拠を出させるのは無駄ですし、証明させる意味もありません。
矛盾していません。私知が禁じられるのは、当事者に反論の機会がなく、裁判官の独断で結論が左右されてしまうからでした。ところが公知の事実は、誰もが知っていて、そもそも疑う余地がありません。争ったところで結論は変わらないので、当事者に反論させなくても、裁判の公正を害さないのです。317条が守ろうとしている「反論できる証拠で決める」という趣旨を、こちらは別の形で満たしていると考えてください。顕著な事実と私知を分けるのは、世間に知れ渡っているかどうかではありません。たとえば、同じ裁判所が以前に別の事件で判決を言い渡したという事実は、その裁判所に顕著な事実です。裁判官は職務の中でそれを知っていますし、判決は記録として残っているので、当事者も上級の裁判所も、あとから誰でも確かめられ、中身を争う余地がありません。朝刊の記事は、裁判官が私的に読んだだけで、何が書いてあったのかを誰も法廷で確かめられません。同じ「裁判官が知っている」でも、法廷の外で当事者も確かめられる形になっているかどうかで、扱いが分かれるのです。
判例による線引き——顕著な事実にも限界がある

この2つの事実を、判例がどう扱っているかも見ておきます。ある事件で問われたのは、選挙のルールに違反した罪でした。この裁判では、被告人が市長選挙に立候補して当選していたという事実そのものを、公知の事実として扱っています。別の事件では、取引した物がヘロインだったこと自体は、自白とそれを補強する証拠によって認定されています。そのうえで、通称「ヘロイン」という呼び名が、法律で麻薬として挙げられている正式な物質名を指すという対応関係だけは、裁判所に顕著な事実として、証拠がなくても扱われました。この事件で実際に何が起きたかではなく、裁判所が職務上確かに知っている一般的な知識だから、という理由です。事実の認定というより法律の読み方を示したという見方もありますが、証拠なしで扱ってよいという結論は変わりません。
顕著な事実として扱える範囲にも限界があります。それが今日いちばん大事な線引きです。ある事件では、入院していた患者への暴行という、被告人にとって不利益な事実を、証拠調べをしないまま、裁判所に顕著な事実として認定してしまいました。これについては、被告人が防御する機会や、上級の裁判所がその判断を審査する機会を奪ってしまうとして、裁判所に顕著な事実にはあたらない、とされています。証拠を要さない事実は、あくまで争う余地のないものに限られます。被告人に不利益な、しかも争う余地のある具体的な事実にまで、この扱いを広げてしまうと、317条が守ろうとしている反論の機会そのものが失われてしまいます。
証拠能力と証明力——入口と中身

ここで少し、以前の回を思い出してください。弁護人が証拠に対して「不同意」だと述べた場合、その証拠はどうなりましたか?書いた本人に法廷で問いただせないので、原則として証拠にできませんでした。検察官は、代わりに証人を請求することがある、という話でしたね。今日の最後は、その話とつながります。これから2つの言葉を出します。片方は「法廷に出られるかどうか」の話、もう片方は「出た後、どれだけ信じられるか」の話です。どちらがどちらでしょうか。証拠能力とは、ある証拠が公判廷で取り調べられるために、法律上必要とされる資格のことです。先ほどの不同意の書面は、この資格が認められなかった例です。本人に問いただせない、つまり反論できない書面は、原則として法廷に出る資格を持てません。今日のものさしが、ここにも出てきます。もし証拠能力のない証拠を誤って取り調べてしまったときは、前の回の異議のところで見たとおり、その証拠を排除する決定がされます。これに対して証明力とは、法廷に出た証拠が、事実の認定にどれだけ役立つか、その信用性の程度のことです。
証明力はだれが判断するんですか。そこは裁判官の自由な判断に委ねられています。それを定めているのがこの条文です。
条文刑事訴訟法第318条
刑事訴訟法第318条 証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。
これを自由心証主義と呼びます。今日は、証明力の評価が裁判官に委ねられている、という定義だけ押さえてください。たとえば、証人が話した内容を書き取った書面、つまり供述録取書に同意はしたけれど、内容の信用性そのものは争う、という場面があります。これは証拠能力は認められたうえで、証明力だけが争われている状態です。証拠能力がないという主張と、証明力が低いという主張は、まったく別の話だと区別してください。逆に、不同意になった書面は、どれだけ詳しく本当らしく書かれていても、資格がないので法廷に出られず、どれだけ信じられるかの審査にすら進みません。
今日の地図(保存版)
図:317条と証拠を要さない事実の限界そして証拠能力と証明力の区別を1枚にまとめる板
今日のまとめです。317条は、事実の認定は証拠による、と定め、裁判官の私的な思い込みで事実を決めることを禁じています。ただし、公知の事実や裁判所に顕著な事実のように、争う余地のない事実は、証拠がなくても認定してよく、これは317条の趣旨に反しません。もっとも、この扱いには限界があり、被告人の防御や上訴審の審査の機会を奪うような使い方は許されません。そして、証拠には、法廷に出すための資格である証拠能力と、出たあとどれだけ信じられるかという証明力という、2つの別の物差しがあります。名前は似ていますが、さきほどの自由心証主義とは別の話です。
参照条文
- 刑事訴訟法第317条
- 刑事訴訟法第318条