憲法ゼロから憲法#4

平和主義——9条と自衛隊

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第1章 憲法総論 ④/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

9条1項——何を放棄すると書いてあるか

9条1項が放棄する3つの対象(国権の発動たる戦争/武力による威嚇/武力の行使)

まず、9条1項です。放棄の対象は3つあります。国家が正式に行う戦争、要求を突きつける威嚇、実際に撃つ行使です。

条文

日本国憲法 第九条

「国際紛争を解決する手段としては」という限定が付いています。そのとおりです。ここでスポーツの規則で考えてみましょう。あるスポーツに、「危険なタックルを一切禁止する」という規則があるとします。この「危険なタックル」に、自分の身を守るための接触も含めるかどうかで、選手が取れる行動は変わりますよね。まさにこれが、9条1項の対立です。

1項の学説対比(1項全面放棄説:自衛戦争も含め放棄/1項限定放棄説〈通説〉:侵略戦争のみ放棄)

一つ目、1項全面放棄説——放棄の対象を広く読み、自衛のための戦争も含め、あらゆる戦争を放棄したと考えます。この説を採ると、自衛のための実力を使う場面が、そもそも存在しなくなります。だから帰結は明快です。自衛隊は違憲です。1項限定放棄説——放棄の対象を、侵略のための戦争に絞って読みます。この読み方では、自衛のための戦争までは、1項の文言上、放棄されていない、という余地が残ります。こちらが通説です。なぜ通説か。決め手はさっきの一句——「国際紛争を解決する手段としては」です。これが国際法で、侵略戦争を指す言い回しでした。全部放棄と読むと、この一句の意味が消えてしまいます。まだです。1項限定放棄説を採っても、それだけでは決まりません。続く2項に、もう一つの関門があるからです。

9条2項——戦力不保持と交戦権の否認

9条2項の構造(前項の目的を達するため/戦力の不保持/交戦権の否認)

続いて、2項です。

条文

日本国憲法 第九条

交戦権とは、戦争を行う国家に国際法上認められる、相手国の船を差し止めたり、占領地を統治したりする権限のことです。そのとおりです。2項は、この交戦権も認めない、と定めています。そして、鍵になるのが「前項の目的を達するため」という言葉です。さきほどのスポーツの規則に、もう一つ足しましょう。「防具の着用を一切禁止する」という規則が、追加されたとします。この規則が「危険なタックルを防ぐ目的」で作られた、という前提とします。このとき、「防具」の範囲をどう読むかで、また結論が変わります。一つは、試合で使う防具全般を、広く指すと読む読み方。もう一つは、危険なタックルに使う特殊な防具だけを指す、狭い読み方です。まさにこの対立が、2項の学説対立です。

2項の学説マトリクス(前項の目的の読み方/戦力の意味/自衛隊の帰結、2項全面放棄説〈通説〉と2項限定放棄説〈少数説〉の対比)

一つ目、2項全面放棄説——「前項の目的」を、1項全体が掲げる、平和への願いそのものだと広く読みます。この読み方では、2項は一切の戦力を持てない、という結論になります。軍隊、および有事の際にそれに転化しうる程度の実力部隊、と定義されます。そのとおりです。この説を採ると、自衛隊は違憲です。これが通説です。もう一つ、2項限定放棄説——「前項の目的」を、1項が定める侵略戦争の放棄という、限定的な中身に読み替えます。この読み方では、2項が禁じるのは侵略のための戦力にとどまり、「戦力」も、自衛のための必要最小限度を超える実力、と絞り込まれます。この説を採ると、必要最小限度にとどまる限り、自衛隊は「戦力」に当たらず、合憲になります。だから、9条は「学説を並べて終わり」にできないんです。ここは大事な点なので、少数説への批判を3つ、順に見ていきましょう。一つ目。「必要最小限度を超える実力」と「必要最小限度の実力」の境目は、実際上、区別がほぼ不可能に近い、という批判です。そのとおりです。二つ目。仮に区別できたとしても、2項後段の「交戦権を認めない」という部分の説明が、難しくなります。実力を持ちながら交戦権が無い、というのは整合しにくい状態です。反撃はできても、船の差止めや占領地統治はできない——実力はあっても資格が無い状態です。三つ目です。ここで、もう一つ条文を見ましょう。

条文

日本国憲法 第六十六条

この規定があるということは、憲法は、大臣に軍人が就く事態を、一応想定していることになります。しかし、憲法全体を見ても、軍隊の存在を前提にした規定は、この66条2項のほかには、一つもありません。そのとおりです。もし自衛のための実力保持が最初から想定されていたなら、そうした規定がもっとあってもおかしくない、という批判です。この3つの批判があるため、通説は2項全面放棄説を採ります。「通説だから」で終わらせず、この3つを言えるようにしてください。

学説の帰結——自衛隊は合憲か違憲か

問いかけボード(1項×2項の対立を組み合わせると、自衛隊の結論は何通りに分かれるか)

ここまでの1項・2項の対立を、組み合わせてみましょう。自衛隊の結論は、何通りに分かれると思いますか。表にまとめると、こうなります。

学説×帰結の統合マトリクス(1項全面放棄説=違憲/2項全面放棄説〈通説〉=違憲/2項限定放棄説〈少数説〉=合憲/政府見解=合憲〔理由づけ別〕)

並列の4択ではなく、1項限定放棄説のときだけ2項の対立に進みます。1項1本、2項2つ、政府見解を足して違憲2・合憲2の4通りです。1項全面放棄説なら、自衛戦争自体が不可能ですから、違憲です。2項全面放棄説、これが通説ですが、こちらも違憲です。2項限定放棄説、少数説ですが、こちらは合憲です。そして、もう一つの立場——政府見解も、結論としては合憲です。そこが面白いところです。ただ、その前に、どの説も共通の前提にしている一点を確認します。

自衛権——放棄していないもの

自衛権は放棄していない、という前提(個別的自衛権と集団的自衛権の対比)

学説がどう対立していても、共通する前提が一つあります。9条は、自衛権そのものは放棄していない、という点です。はい、別の話です。国家には、固有の権利として自衛権があります。自衛権とは、急迫不正の侵害を実力で排除する権利です。憲法が与えたのでなく国家に当然備わる——だから固有の権利です。それを実現する手段——実力をどこまで持てるかが、さっきの学説対立でした。あります。個別的自衛権集団的自衛権です。個別的自衛権とは、自国が武力攻撃を受けたとき、自ら実力で反撃する権利のことです。集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある他国が攻撃を受けたとき、自国が直接攻撃されていなくても、共同して防衛する権利のことです。一問。自国は無傷、同盟国が攻撃され共に反撃した——どちらでしょう。そのとおりです。この二つの区別は、短答でよく問われます。自国が撃たれたときの話か、そうでないときの話か、を見分けてください。その自衛権を政府がどう扱ってきたか、次に見ていきます。

政府解釈と自衛隊

政府解釈の推移+集団的自衛権の扱い(制定当初=戦力不保持/自衛隊創設後=必要最小限度の実力は禁じられていない/集団的自衛権=閣議決定で限定容認)

では、政府はどう解釈してきたのか、事実として見ていきましょう。自衛隊は現に存在します。その位置づけについて、まず政府が自分の解釈を示してきました。憲法制定当初、政府は、戦力は一切持てないという立場でした。ところが、自衛隊が作られたのに伴い、政府の立場は変わります。9条は、自衛のための必要最小限度の実力を持つことまでは、禁じていない、という解釈に移っていきます。結論だけ見ればそうです。ですが、大事な注意点があります。政府は、この結論に至る理由づけを、はっきりとは示していません。そのとおりです。だから、政府見解と2項限定放棄説は、結論は同じでも、同じものとして扱ってはいけません。答案で「政府見解イコール2項限定放棄説」と書くと、不正確になります。もう一つ、事実として押さえてください。集団的自衛権です。政府は長く、集団的自衛権は持っているが、行使はできない、という立場でした。それが、内閣が正式に決める閣議決定によって変わりました。内閣が話し合って、政府としての方針を正式に決める手続のことです。この閣議決定で、一定の要件のもとでなら、集団的自衛権の限定的な行使も認める、という解釈に変わりました。これも良し悪しの評価はせず、事実の推移として押さえてください。

安保条約と砂川事件

砂川事件の要旨(事案:米軍基地への立入り事件/判断①:駐留米軍は「戦力」に当たらない/判断②:安保条約の合憲性は原則として司法審査になじまない/結論:駐留米軍は違憲でない〔原判決を破棄・差戻し〕)

ここからは、裁判所の判断に入ります。まず、砂川事件です。ここから使うのは違憲審査の権限——81条で確認した、あの権限です。在日米軍の基地に立ち入った人が、刑事特別法違反で起訴された事件です。刑事特別法とは、米軍施設への無断立ち入りなどを処罰する法律です。被告側は、そもそも米軍の駐留が9条2項の「戦力」にあたり、違憲だから、この法律も無効だ、と主張しました。実は地裁の段階では、駐留する米軍は2項の「戦力」にあたり違憲だ、と判断されていました。それが最高裁まで上がった事件です。最高裁の判断は、大きく二つに分かれます。一つ目、駐留米軍が「戦力」にあたるか、という点です。最高裁は、9条2項の「戦力」とは、わが国自体が指揮・管理する実力を指し、外国の軍隊はこれに当たらない、と判断しました。そのとおりです。二つ目が、今日一番大事な点です。安保条約そのものの合憲性については、こう述べました。高度の政治性を持つ条約について、一見きわめて明白に違憲無効と認められない限り、司法裁判所の審査にはなじまない、という判断です。なぜ控えるのか。政治的判断は選挙で選ばれた機関に委ね、最終的には国民の判断に委ねるべきだ、という考え方です。そこがポイントです。「一見明白でない限り」という留保を残しています。だから理屈のうえでは、司法審査の余地はゼロではありません。これを変則的統治行為論と呼びます。統治行為とは、高度に政治的な国家の行為について、裁判所が憲法適合性の判断そのものを控える、という考え方です。会社で例えると、こうです。取締役会が決めた経営判断には、よほど明白な違法がない限り、監査部門は口を出しません。そのとおりです。これが、砂川事件の統治行為論の形です。以前、ハンコが揃っても中身を見るのが法の支配でした。なお、この判決は自衛権そのものは否定しない、とも述べています。明白に違憲なら審査する余地がある、というのは分かりました。あります。苫米地事件という別の判例です。衆議院の解散という、別の国家行為が問題になった事件です。こちらは、高度に政治性のある国家行為は、例外なく司法審査の対象外だ、という考え方を採りました。

変則的統治行為論と純粋な統治行為論の対比(砂川=一見明白な違憲なら審査の余地を残す/苫米地=例外なく審査しない)

会社の例えで言えば、こちらは、この種の決定には監査部門は最初から一切関与しない、と社内規程で決めているイメージです。そのとおりです。この違いを混同しないでください。統治行為論そのものの中身や、苫米地事件の判旨全体は、裁判所のしくみを扱う回で、じっくり見ていきます。今日、押さえてほしいのは次の一点です。砂川事件が判断したのは、あくまで安保条約、つまり米軍の駐留です。自衛隊そのものの合憲性を判断した最高裁判例は、存在しません。そのとおりです。ここは頻出の誤解なので、必ず押さえてください。

自衛隊をめぐる下級審——答えを避ける仕組み

憲法判断を避けた例・避けなかった例(恵庭事件=法令解釈で回避/長沼一審=正面から違憲判断)

最高裁が正面から答えていないなら、下級審はどうだったのか、見ましょう。まず、警察予備隊違憲訴訟です。自衛隊の前身にあたる組織です。ある政党が、警察予備隊の設置自体が違憲だとして、具体的な事件を離れて、直接、最高裁に訴えました。最高裁は、それはできない、として却下しました。具体的な事件を離れて、法令の違憲性だけを審査する制度は、日本の裁判所には無い、という判断です。次に、恵庭事件です。自衛隊の演習用の通信線を切断した人が、自衛隊法違反で起訴されました。裁判所は、切られた通信線は、その法律が定める処罰対象にあたらない、として無罪にしました。そのとおりです。これを憲法判断回避と呼びます。事件を解決するのに、憲法判断まで必要でなければ、裁判所はそこまで踏み込まない、という準則です。あります。長沼ナイキ訴訟です。ミサイル基地の建設のため、保安林の指定を解除した処分が、争われた事件です。

長沼ナイキ訴訟の三審の流れ(第一審=自衛隊は9条の戦力に当たり違憲→控訴審=代替施設で訴えの利益消滅・平和的生存権の裁判規範性も否定→上告審=訴えの利益の点を維持し憲法判断せず)

第一審は、正面から9条の判断に踏み込み、自衛隊は9条の「戦力」にあたり、違憲だと判断しました。そのとおりです。ところが、控訴審で状況が変わります。争われていた保安林の代わりの施設が、すでに完成していました。そのため、訴えの利益が失われた、と判断されます。裁判で判断してもらう、実際の必要性のことです。もう争う実益が無くなった、として、一審の判断は取り消されました。自衛隊の合憲性そのものには、深入りしないまま終わっています。上告審も、この訴えの利益が無いという判断を維持し、憲法問題には触れないまま、訴えを退けました。そのとおりです。警察予備隊は門前払い、恵庭は法令解釈で回避、長沼は訴えの利益で回避、砂川は安保条約だけを判断。こうして、自衛隊そのものの合憲性は、いまだに正面から判断されていないという状態が、今も続いています。

平和的生存権——裁判例は割れている

平和的生存権の裁判規範性(長沼控訴審=否定/名古屋高裁の傍論=具体的権利性の余地を示唆)

ここで、冒頭で確認した道具を、もう一度使いましょう。前文の「平和のうちに生存する権利」——平和的生存権でしたね。実際に、この権利が争われたのが、さっきの長沼訴訟です。控訴審は、平和的生存権について、裁判規範性を否定しました。ところが、その後、別の下級審判決で、動きがありました。自衛隊のイラクでの活動をめぐる、差止め訴訟です。この判決は、傍論で、平和的生存権について踏み込んだ言及をしました。傍論とは、判決の中で、その事件の結論を出すのに必須ではない部分で述べられた、裁判所の考え方のことです。そのとおりです。実際、この訴訟の差止めの請求自体は、認められていません。しかし、その傍論の中で、平和的生存権は、すべての基本的人権の基礎にある権利であり、場面によっては、裁判所に保護や救済を求められる場合がある、という考え方が示されました。そのとおりです。裁判例の立場は、今も割れています。原則は、裁判規範性は無い。しかし、局面によっては認められる余地がある、という指摘も出てきている——これが、今の到達点です。

今日の地図(保存版)

今日の全体像(9条1項×2項の学説マトリクス→通説の決め手→自衛権→政府解釈→砂川=安保条約→変則的統治行為論→下級審の回避→平和的生存権の裁判例が割れる)

9条1項は、放棄する戦争の範囲をどう読むかで、全面放棄説と限定放棄説、通説が対立しました。1項限定放棄説を採った場合、さらに2項の「前項の目的」と「戦力」の読み方で、全面放棄説と限定放棄説が対立しました。通説である2項全面放棄説を採れば、自衛隊は違憲。少数説である2項限定放棄説を採れば、自衛隊は合憲。この対立は、区別の困難さ、交戦権否認との整合性、そして66条2項以外に軍隊を想定した規定が無いことから、通説である2項全面放棄説が支持されていました。政府見解は、結論として合憲ですが、理由づけは学説とは別物でした。砂川事件が判断したのは、安保条約であって、自衛隊そのものではありません。変則的統治行為論という形で、審査を控えつつも、余地は残していました。警察予備隊・恵庭・長沼、いずれの下級審も、自衛隊の合憲性そのものには、最後まで正面から答えていません。そして平和的生存権も、裁判規範性をめぐって、判断が割れたままです。そのとおりです。今日、この憲法が何を放棄し、裁判所がどこまで答えるのかを、見てきました。では、その憲法自体は、どうやって生まれたのか。そこを、次にたどっていきます。

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