憲法ゼロから憲法#5

日本国憲法はどう生まれたか——明治憲法と8月革命説

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第1章 憲法総論 ⑤/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

明治憲法①——形の上では立憲主義

明治憲法の骨格(1条:天皇が統治/4条:統治権を総攬/臣民権の規定もあり・帝国議会の協賛もあり)

この矛盾を解くために、まず明治憲法――大日本帝国憲法から見ていきます。今の日本国憲法が施行されるまで、この国を治めていた憲法です。まず1条です。「日本は、代々続く天皇が統治する」と定めています。天皇主権です。続く4条は、「天皇が国家権力を一手に握り、憲法の条項に従ってこれを行う」と定めます。この「一手に握る」ことを、大権と呼びます。大権とは、憲法によって天皇に属するとされた、広い範囲の統治上の権限のことです。あったんです。明治憲法には、臣民の権利を定める規定がありました。これを臣民権と呼びます。天皇に従う者、という位置づけの言葉です。権利という言葉は使われていても、人間だから当然に持つ権利、という発想ではありません。天皇が、恩恵として与えた権利、という位置づけです。そのとおりです。そして、法律を作るには帝国議会協賛が必要でした。協賛とは、議会が同意を与えることをいいます。憲法典があり、議会もあり、権利の規定もある。形だけを見れば、近代的な立憲主義の国に見えます。そこを、次に確かめていきましょう。

明治憲法②——なぜ”外見的”立憲主義なのか

立憲主義の物差し(固有の意味の憲法=統治のしくみがある/立憲的意味の憲法=人権保障の向きに縛られている)

ここで、以前に作った道具を、そのまま使います。統治のしくみが”ある”だけの憲法と、人権保障の向きに”縛られている”憲法、この2つを区別しましたね。そのとおりです。この物差しを、明治憲法に当ててみましょう。さっき確認したとおり、明治憲法には天皇主権のもとで、議会も、臣民の権利の規定もありました。はい、満たしています。しくみとしては、ちゃんと整っています。では問題です。明治憲法は、立憲的意味の憲法にも当たると思いますか。その答えは、まだ出しません。判定の決め手を先に見ます。手がかりは、臣民の権利がどう定められていたかにあります。決め手は、臣民権の定め方そのものにあります。

法律の留保の2つの意味×明治憲法/日本国憲法 比較表(①法律による権利制限=良い面/②法律による権利保障=悪い面)

明治憲法の22条や29条など、多くの臣民権には、「法律ノ範囲内ニ於テ」という決まり文句が付いていました。この仕組みを法律の留保と呼びます。ここでは、権利の保障に条件を付ける、という意味です。この法律の留保には、実は2つの顔があります。一つ目は、権利を制限するには法律の根拠が要る、という顔です。天皇の思いつきだけでは制限できず、議会が作る法律を通さなければならない、という縛りだからです。ここまでは、権力を縛る立憲主義の発想に沿っています。しかし、もう一つの顔があります。二つ目は、権利は法律の範囲内でしか保障されない、という顔です。さっきは「制限には法律が要る」という話でした。こちらは、「法律さえ作れば、権利をいくらでも削れる」という話です。そのとおりです。ここで、学校の校則で考えてみましょう。ある学校に、こういう校則があるとします。「生徒は自由な服装をする権利がある。ただし、生徒指導部が定める規則の範囲内で」。でも、生徒指導部が校則をいくらでも追加できるとしたら、どうですか。そのとおりです。書いてある自由の”量”は、生徒指導部――ここでは法律を作る側の胸先三寸で決まります。これが、法律の留保の悪い面です。明治憲法では、多くの臣民権がこの悪い面を強く受けていました。たとえば28条の信教の自由を定めた条文には、この留保の言葉すら付いていません。留保が無いのに、法律によらず制限できると解されていたほどです。そこが核心です。日本国憲法はどうでしょうか。日本国憲法では、人権を制限するには必ず法律の根拠が必要——①は全面的に採用しています。しかし②は、まったく採用していません。法律があっても、人権を不当に侵害してはならない、という縛りが掛かります。さっきの校則でいえば、「服装の自由は、生徒会の規約を変えない限り、生徒指導部では制限できない」と書いてある状態です。完璧です。これは、以前見た法の支配形式的法治主義の対比にも重なります。法律の根拠さえあれば、それで足りるという発想は、中身を問わない、形式的法治主義の発想に近いものでした。そのとおりです。それでは、判定に戻りましょう。明治憲法は、②法律による権利保障を全面的に採用していたので、法律さえ作れば人権を自由に制限できてしまい、権力を縛る側の顔――以前見た制限規範として、機能していませんでした。そのとおりです。しくみはあった。でも、人権保障の向きには縛られていなかった。だから外見的立憲主義——以前、名前だけ触れたあの言葉の、これが中身です。ちなみに、誰が定めたかという憲法の分類でいえば、明治憲法は君主が定める欽定憲法です。この形は、当時のプロイセン憲法を手本にしたものでした。議会の力を抑え、君主に強い権限を残す点まで含めて、ならったものです。

制定経緯①——降伏から憲法草案まで

制定経緯の年表①(ポツダム宣言受諾→政府の松本案→マッカーサー3原則→マッカーサー草案)

では、この明治憲法から、どうやって今の日本国憲法にたどり着いたのか。事実としての制定経緯を、順に見ていきましょう。出発点は、昭和20年8月14日、ポツダム宣言の受諾です。ポツダム宣言は、日本に民主的で平和的な政府の樹立を求めていました。これを受けて、政府内で憲法改正の検討が始まります。政府が最初にまとめた改正案が、松本案です。天皇主権を維持したまま、部分的な修正にとどめる案でした。明治憲法の骨格には、ほとんど手を付けていません。実際、この案は、占領当局の側から拒否されます。代わりに示されたのが、マッカーサー3原則です。天皇は国の元首の地位にあるが国民主権に基づくこと、戦争の放棄、そして封建制度の廃止、という3つの原則です。この3原則をもとに、GHQ側が作った具体的な条文案が、マッカーサー草案です。ここに、国民主権や戦力の不保持といった、今の憲法の骨格がすでに現れています。そのとおりです。この草案をもとに、政府はさらに検討を重ねていきます。

制定経緯②——帝国議会の審議から施行まで

制定経緯の年表②(憲法改正草案要綱の公表→帝国議会の審議・可決→公布→施行)

マッカーサー草案をもとに、政府はこれを日本語化し、憲法改正草案要綱として公表します。この案が、帝国議会に提出されます。ここで大事な点があります。憲法改正の手続として使われたのは、明治憲法73条の改正手続でした。「憲法を改正するときは、天皇の命令で帝国議会にかける」という手続です。この73条の手続に則って、帝国議会が審議し、若干の修正を経て可決します。そのとおりです。ここが、後で効いてくる大事な事実です。そして昭和21年11月3日に公布、翌年、昭和22年5月3日に施行されました。ここまでが、事実としての制定経緯です。手続としては、明治憲法の改正という形を取った――この一点を、覚えておいてください。

押し付け憲法論——法的にどう応じるか

押し付け憲法論の構造(問題提起:GHQ草案が土台→通説の3つの応答)

この制定経緯をめぐって、一つの議論があります。押し付け憲法論です。この憲法は、GHQという占領当局が主導して作った草案が土台になっている。だから国民が自由な意思で制定したとは言えず、効力にも疑問がある、という主張です。通説がどう法的に応じているか、組み立て方だけを見ていきます。通説の応答は、大きく3つあります。一つ目。政府の外でも、当時すでに民間で、国民主権を掲げる憲法草案が作られていました。だから、GHQの案だけが唯一の源ではない、という応答です。たとえば、民間の研究団体がまとめた草案には、主権が国民にあることを正面から掲げたものがありました。二つ目。帝国議会の審議では、国民から選ばれた議員によって、実際に修正が加えられています。まったくの丸のみではなかった、という応答です。生存権のように、今の憲法の柱になっている規定にも、この審議の中で議員の提案から加えられたものがあります。三つ目。施行された後、長年にわたって、国民の多くがこの憲法を支持し続けてきました。改正を求める大きな動きが実らずに今日まで来ている、という事実自体が、国民の受容を示している、という応答です。この3つを合わせて、通説は、この憲法は国民の意思に基づくものだと説明します。

上諭と前文——同じ文書の中の矛盾

上諭と前文の対比(上諭:73条の改正手続を経て天皇が裁可/前文:主権は国民に存する)

ここで、冒頭の問いに戻ります。日本国憲法には、前文の前に上諭という文言があります。中身を見ると、こう書かれています。明治憲法73条の改正手続を経て、帝国議会の議決を経たうえで、天皇がこれを裁可し、公布する、という趣旨の文言です。そのとおりです。ところが、その直後の前文には、こうあります。

条文

日本国憲法 前文(第1段・第1文)

この2つを、並べてみましょう。上諭は、天皇主権の明治憲法を、天皇の裁可で改正した、と言っています。前文は、国民主権に基づいて、この憲法が作られた、と言っています。この2つ、同時に正しいと言えますか。そこで、憲法改正には限界があるとする考え方――限界説が関わってきます。96条や73条のような改正手続を踏んでも、変えてよい範囲には限界がある、という考え方です。この限界説が、通説です。限界の中身そのもの――どこまで変えられて、どこから変えられないのか、という議論は、憲法をどこまで変えられるかという限界の議論そのものとして、統治の終盤で扱います。今日押さえてほしいのは、次の一点だけです。主権者が誰か、というのは、憲法の一番の土台にある事柄だ、ということです。以前、憲法を作る力――憲法制定権力は、憲法ができあがると憲法改正権に姿を変える、という話をしました。改正権は、主権者から与えられた権限です。だからその改正権を使って、与え主である主権者そのものを取り替えることはできない。ここが、限界の外だという意味です。そのとおりです。だから、上諭と前文は、単なる言葉の綾ではなく、論理として矛盾してしまうんです。それが改正無限界説です。この説なら、73条の手続さえ踏めば、主権の所在を含め、理屈のうえで何でも変えられます。この説を採れば、そもそも矛盾は生まれません。だからこそ、この矛盾を埋める理屈が必要になりました。それが、次に見る8月革命説です。

8月革命説——矛盾の埋め方

8月革命説の論理(天皇主権の明治憲法→ポツダム宣言受諾=法的な意味の革命→国民主権・実質的には新規制定)

オンラインゲームの、あるギルドで考えてみましょう。ネット上で協力してゲームを進める、プレイヤーの集まりのことです。このギルドの規約に、こう定めてあるとします。「規約の改正には、ギルドマスターの承認が要る」。ところが、運営側による大規模なサーバー統合が起こり、ギルドの仕組み自体が大きく揺らぐ出来事がありました。そのなかで、メンバー全員が話し合って決める、新しい規約ができます。そこで、新しい規約の末尾には「ギルドマスターの承認を得て改正した」と書かれます。しかし、その本文にはこうあります。「今後は、メンバー全員の総意で運営する」。この矛盾を、どう説明するか。「実は、あのサーバー統合という大きな出来事をきっかけに、決定権がギルドマスターからメンバー全体へ、事実上、移った瞬間があった。そのうえで、混乱を避けるため、手続としてはギルドマスターの承認という形を取った」。こう説明すれば、矛盾なく筋が通ります。まさにこれが、8月革命説――宮沢俊義が唱えた通説の構造です。昭和20年8月、ポツダム宣言を受け入れたその時点で、天皇主権から国民主権へと変わる、法的な意味での革命があった、と説明します。大事な注意点です。ここでいう革命は、武力で政権をひっくり返すという、政治的な意味の革命ではありません。主権者の交代を法的に説明するための、擬制――理論上そう扱う、という意味です。そのとおりです。ここは短答でも引っかけやすい点です。この法的な革命によって、明治憲法が全部なくなったわけではありません。ただ、国民主権に反する限りで、重要な変更を受けます。たとえば、73条が定める天皇の裁可や貴族院の議決は、もはや実質的な拘束力を失った、と説明されます。だから、8月革命説の結論では、日本国憲法は、実質的には明治憲法の改正ではなく、国民が新たに作った民定憲法――国民自身が定めた憲法である、とされます。73条の手続を踏んだのは、混乱を起こさないための、いわば技術的な工夫にすぎない、と説明されます。そのとおりです。そして、なぜこの理屈が通説になったのか。決め手は、限界説を採る限り、主権者が入れ替わったことを法的に説明する理屈がどうしても要る、という一点です。それを埋めるのが8月革命説だから、通説の位置を占めているんです。

対立説の骨子一覧(8月革命説〈通説〉/ノモス主権論〈尾高朝雄〉/改正無限界説、当否は書かず立場の骨子のみ)

あります。名前と骨組みだけ、押さえておきましょう。一つは、ノモス主権論です。尾高朝雄が唱えました。主権は天皇でも国民でもなく、正しい法の理念――ノモスそのものにある、とする説です。そのとおりです。この説を採ると、そもそも主権者の交代という出来事自体が無かったことになり、明治憲法との連続性を保ったまま説明できます。8月革命説を唱えた宮沢と、この説を唱えた尾高との間で、学説上のやり取りがあったことでも知られています。もう一つが、さっき触れた改正無限界説です。この説を採れば、73条の手続を踏んだ以上、主権の変更も含めて理論上どこまでも改正できたことになり、8月革命説という理屈そのものが、そもそも要らなくなります。そのとおりです。この対立、そして憲法をどこまで変えられるかという限界の議論そのものは、統治の終盤で扱います。対立する視点が他にもあるという事実を、押さえておいてください。

今日の地図(保存版)

第1章 総論の全体地図(立憲主義・法の支配→前文・国民主権→天皇制→9条学説→明治憲法史・8月革命説)

明治憲法は、天皇主権のもとで、議会も臣民権の規定もあり、固有の意味の憲法は満たしていました。しかし、法律の留保の悪い面――法律さえあれば権利を削れる仕組みのために、制限規範として機能せず、外見的立憲主義と評価されました。制定経緯としては、ポツダム宣言の受諾から、マッカーサー草案を経て、明治憲法73条の改正という手続の形で、日本国憲法が成立しました。押し付け憲法論に対して、通説は、民間の草案・議会の修正・その後の国民の支持という、3つの応答を組み立てていました。そして、上諭が語る”改正”と、前文が語る”国民主権に基づく制定”は、限界説に立つ限り、論理として矛盾します。この矛盾を埋めるのが、8月革命説――ポツダム宣言受諾の時点で、法的な意味の革命があった、という理屈でした。これに対しては、ノモス主権論や改正無限界説という、別の視点もありました。そのとおりです。これで、憲法とは何か、何を宣言しているか、戦争とどう向き合うか、そしてこの憲法自体がどこから来たのか――総論の問いが、一通りつながりました。ここから先は、二つの地図のうち、まず人権の地図に入ります。人権とは何か、誰がその主体になるのか、というところから始めます。そして、その人権にどこまで限界が許されるのかという、審査の作法も見ていきます。そのとおりです。

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