人権はどこまで制限できるか——「公共の福祉」の正体
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第2章 人権総論 ⑨/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
想起

始める前に、一つだけ確かめておきましょう。前回、法人などの団体にも、人権が及ぶことを見ました。そして、団体にはある両面性がある、という話もしました。団体は、人権を持つ主体であると同時に、構成員に対しては、人権を脅かす側にもなりうる、という話です。業界団体が特定の候補者を支援すると、会員は本音では嫌でも従わざるを得なくなる——そういう場面でした。ここまでで、外国人にも、団体にも、人権が及ぶことが分かりました。今日は、次の問いに進みます。その人権は、どこまで制限できるのか、という問いです。その一言で、話が終わると思いますか。もし「公共の福祉で制限できます」の一言だけで済むなら、どんな人権も、その一言で消せてしまうことになります。表現の自由も、信教の自由も、財産権も——「公共の福祉のため」と言えば、すべて制限できてしまう。その違和感が、今日の出発点です。「公共の福祉」という言葉は、それ自体では、制限の程度について、何も教えてくれません。この空虚な言葉に、学説がどうやって中身を与えてきたか、その歩みを、今日はたどっていきます。
条文を見る:12条・13条の「公共の福祉」

まず、条文そのものを確認しましょう。「公共の福祉」という言葉が最初に出てくるのが、12条です。
条文日本国憲法 12条
日本国憲法 第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
国民は、自由や権利を、自分の努力で保持しなければならない。そして、それを濫用してはならず、常に公共の福祉のために利用する責任を負う、という条文です。次に、13条も見てみましょう。
条文日本国憲法 13条
日本国憲法 第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
一人ひとりを、集団の一部としてではなく、個人として扱いなさい、というのが13条の柱です。そのうえで、生きること、自由であること、幸福を追い求めること——この3つを、法律を作るときも、政治を行うときも、できる限り尊重しなければならない。ただ、そこにも条件が付いています。ここで、注目してほしい事実があります。「公共の福祉」という同じ言葉が、実はこの2か所だけでなく、もう2か所、別の条文にも重ねて書かれているんです。

22条1項——居住・移転及び職業選択の自由の条文にも、「公共の福祉に反しない限り」という同じ言葉があります。29条2項——財産権の条文にも、公共の福祉に適合するように定める、と書かれています。そこがまさに、今日の学説対立の出発点です。もし12条・13条だけで、すべての人権を制限できるなら、22条・29条に、重ねて同じ言葉を書く必要は無いはずです。なぜ重ねて書かれているのか——この謎を解く形で、学説の歩みをたどっていきましょう。なお、13条の中身そのもの——個人の尊重や幸福追求権の解釈は、別の回でじっくり扱います。今日は、「公共の福祉」という言葉の働き方に、焦点を絞ります。
一元的外在制約説——12条・13条を外側から読む

最初に登場した考え方が、一元的外在制約説です。分解すると分かりやすくなります。「外在」は、人権の外側から加わる制約という意味です。「一元的」は、その制約の根拠が一つ、という意味です。この説は、12条・13条の「公共の福祉」を、すべての人権に対する、外側からの一般的な制約だと読みます。しかし、この読み方には大きな難点があります。「公共の福祉のため」と言えば、法律さえ作れば、どんな人権も無限定に制限できてしまうことになります。明治憲法下では、人権は「法律の範囲内」でしか認められず、法律さえ作れば、国はいくらでも人権を制限できました。これを、法律の留保と呼びます。一元的外在制約説だと、結局この法律の留保に、逆戻りしてしまうのです。政府に批判的な新聞記事を、「公共の福祉を害する」という理由だけで、法律を作って禁止することさえ、理屈のうえでは許されてしまいます。この難点のせいで、一元的外在制約説は、今では支持されていません。次の説が、これを克服しようとします。
内在外在二元的制約説——外在制約を絞る試み

一元的外在制約説の難点を受けて、次に出てきたのが、内在外在二元的制約説です。この説は、外在的な制約——人権の外側から加わる制約は、「公共の福祉」が実際に書かれている人権と、社会権だけに限定します。社会権とは、前に見た分類で、国に「積極的に手を貸してくれ」と求める権利です。具体的には、22条の職業選択の自由や、29条の財産権、それに社会権が、外在制約を受ける対象です。ここで分かれ目になるのが13条です。13条にも「公共の福祉」と書かれていますが、この説は、12条・13条の「公共の福祉」を、個別の人権を制限する根拠ではなく、人権全体にかかる一般的な規定だと読みます。外在制約が働くのは、さっきの経済的自由権と社会権、この2つに限られます。それ以外の人権——12条・13条しか根拠が無い人権は、外在制約ではなく、人権それ自体に内在する制約、つまり、他の人権とぶつかる場面だけに限る、と考えます。狭くすることで、一元的外在制約説の難点を、ある程度は避けられます。ですが、この説にも難点があります。一つは、いま見た読み方の帰結です。13条を、裁判で使えない訓示規定——つまり「頑張ってください」という程度の、政治的な指針に落としてしまうことです。13条は、新しい人権——たとえばプライバシー権のような、憲法に個別の条文が無い人権の、根拠になる条文です。もう一つの難点は、人権の分類が、そんなにきれいに分けられるものではない、という点です。22条の職業選択の自由や、29条の財産権が、表現や信仰といった、心の側の自由——精神的自由と完全に切り離せるかというと、実際には、そう単純ではありません。ある思想を掲げる出版社が、営業そのものを制限されたとします。職業を選ぶ自由の問題であると同時に、何を世に出すかという、表現の自由の問題でもあります。この2つの難点を、次の説が、まとめて克服しようとします。
一元的内在制約説——実質的公平の原理

そして、従来の通説とされてきたのが、一元的内在制約説です。「内在外在二元的制約説」と名前は似ていますが、発想が違います。この説は、外在制約というものを、そもそも認めません。「公共の福祉」は、すべての人権に内在する制約だと考えます。「人権相互の矛盾・衝突を調整するための、実質的公平の原理」だと定義します。
⭐ 論文で書く規範:一元的内在制約説の定義 「公共の福祉」とは、人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である。 (規範(通説=一元的内在制約説))
この定義自体は、条文のどこにも書かれていません。通説が、「公共の福祉」という言葉に与えた、解釈上の定義です。

具体例で考えましょう。Aが、表現の自由を使って、Bの評判を落とすような発言をしたとします。Aの表現の自由を無制限に認めると、Bの名誉は守られません。逆に、Bだけを優先すれば、Aの表現の自由が消えてしまいます。「公共の福祉」とは、この両者を、できるだけ両方生かすための、調整の原理だ、というわけです。形のうえでは、どちらの人権も等しく保障されています。でも、そのままぶつければ、片方が潰れる。中身を見て、両方が実際に立つように調整する——だから「実質的」です。この説は、さらに2つの働きに区分します。一つ目は、自由国家的公共の福祉——他人の自由権を守るために働く制約で、すべての人権に及ぶ、とされています。さっきのAとBが、まさにこの働きの例です。二つ目は、社会国家的公共の福祉——他人の社会権を守るために働く制約です。こちらは、経済的自由権に対してだけ働く、とされています。たとえば、働く人の生活を守るために、労働時間の上限を法律で決める。雇う側の経済活動の自由——経済的自由権が、働く側の社会権を守るために制限される、という場面です。AとBは、自由国家的公共の福祉の例でした。では、22条・29条に「公共の福祉」が重ねて書かれている謎は、これで説明できるでしょうか。22条と29条は、まとめて経済的自由と呼ばれます。社会国家的公共の福祉が働くのは、この経済的自由権に対してだけなので、そのことを確認的に明記したものだ、と説明します。13条を訓示規定に落とすこともなく、人権の分類を厳密に分ける必要もありません。この2つの難点を克服したことで、この説が、長く通説の位置を占めてきました。なお、人権は法律によっても侵せない、と前に見ました。この「侵せない」というのは、まったく制限されない、という意味ではありません。他人の人権とぶつかる場面で、両方を立てるために調整する。そこまでが、この説の認める制限です。
一元的内在制約説の到達点と残る難点

ここで、一度立ち止まって考えてみましょう。この説を使えば、目の前の規制が、具体的にどこまで許されるか、分かるでしょうか。これが、一元的内在制約説の、残された難点です。この説は、「公共の福祉とは何か」という定義を、与えてくれます。しかし、「目の前の規制が、どこまで許されるか」を判定する物差しまでは、与えてくれません。さっきのAとBで考えてみましょう。Aの発言を、どこまで抑えられるでしょうか。発言した後に、損害賠償を負わせるところまでか。それとも、発言そのものを、前もって禁止するところまでか。どちらも「人権相互の調整だ」と説明できてしまいます。どちらを選ぶべきかは、この定義からは出てきません。この空白を埋めるための道具——それが、違憲審査の基準という考え方です。今日は、その手前まで進みます。この空白を、覚えておいてください。
近時の有力説——「公共の福祉」の中身を広げる

一元的内在制約説には、もう一つ指摘されている点があります。この説は、「他者の人権と衝突する場合」だけ、制約を認める発想でした。実際の規制には、他者の人権とは言いがたい理由で、制限されているものが、少なくないんです。たとえば、景観を守るための建物の高さ規制。これは、特定の誰かの人権を守るためというより、街全体の景観という利益のための規制です。もう一つ、本人を保護するための規制もあります。バイクに乗るときの、ヘルメット着用義務が、その例です。これは、本人以外の誰かの人権を守るためではなく、本人自身を、本人の危険な行動から守るための規制です。前に、未成年者のところで名前だけ出した、パターナリスティックな制約——これが、その発想です。こうした規制の実例を踏まえて、近時の有力説は、「公共の福祉」という言葉の枠組みは保ちながら、その中身を広げて考えます。他人の人権との調整に加えて、景観のような社会全体の利益、そして、ヘルメットのような本人の利益まで、含めて捉える、という立場です。この広がった中身を、実際の場面でどう使うか——そこに、比較衡量や審査基準という考え方が、つながっていきます。
比較衡量論とその限界

中身が広がったとしても、実際に裁判で使われてきた現実的な手法が、比較衡量論です。「衡量」とは、天秤で重さを比べる、という意味です。規制によって得られる利益と、規制しない場合に維持される利益を、天秤に乗せて比べます。前者の方が重ければ、規制は許される、という判断の仕方です。多くの判例が、実際にこの手法を使っています。ただ、ここには大きな限界があります。具体例で考えましょう。ある街で、深夜のライブハウスの音出しをめぐって、近隣住民が苦情を寄せたとします。市が、深夜の営業を制限する条例を作ろうとする場面です。市の側は、「地域全体の生活環境を守るため」という主張を掲げられます。一方、ライブハウス側は、「この一軒の営業の自由」という主張しか、掲げられません。「地域全体」と「一軒」を並べた瞬間、天秤の皿の大きさが、比べる前から違って見えてしまいます。これは、利益の中身に入る前の、比べ方そのものの問題です。国と個人を並べるといつも国が勝ちそうに見える——その直感は正しく、比較衡量論は、「国家の利益は、個人の利益より重視されやすい」という、構造的な偏りを持つ、と批判されています。だからこそ、天秤に乗せる前に、比べるための基準——ものさしを、先に決めておく必要がある、という発想が出てきます。学説の道筋も、比較衡量の道筋も、同じ結論にたどり着きます。
学説史のまとめと、残る宿題

ここまでの道のりを、いったん整理しましょう。「公共の福祉」は、学説の歩みの末に、人権相互の矛盾・衝突を調整する、実質的公平の原理として、到達点を得ました。通説の到達点としては、人権を制約できるのは、他人の人権とぶつかる場面だけ——ここまでが、はっきりしました。ただ、景観の維持やヘルメットの着用義務は、他人の人権とは言いにくいものでした。そこが、近時の有力説が突いたところです。そこで、近時の有力説は、「公共の福祉」の枠組みは保ちながら、社会全体の利益や本人の利益まで、中身を広げています。そして、具体的にどこまで制限できるのかは分からない、という宿題が残りました。この宿題は、消えたわけではありません。捨てずに、このまま持ち越します。合憲か違憲かを判定するものさし——違憲審査の基準を立てるところで、必ず回収します。次に見ていくのは、もう一つ、人権の制限が問題になる場面です。国家と特別な関係に立つ人——公務員や、刑事施設に収容されている人の人権です。そこを、次に確かめていきましょう。
参照条文
- 日本国憲法 12条
- 日本国憲法 13条