特別の関係にある人の人権——特別権力関係論と被収容者
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第2章 人権総論 ⑩/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
想起

始める前に、一つだけ確かめておきましょう。「公共の福祉」とは何か、学説の歩みをたどりました。たどり着いた答えは、人権相互の矛盾・衝突を調整する、実質的公平の原理でした。覚えていますか?ただ、一つだけ、宿題が残っていましたね。この宿題は、必ずあとで回収します。今日は、いったん別の角度から、人権の制限が問題になる場面を見ていきます。国家と、特別な関係に立つ人たちがいます。公務員や、刑事施設に収容されている人です。そこが、今日の問いです。先に、答えを言っておきます。同じには考えません。ただし、「特別な身分だから制限されて当然」でもありません。憲法が、その関係の存在を予定しているから、その枠の中でだけ、制限の根拠がある——これが今日の結論です。道筋は3つです。かつての理論は、なぜ否定されたのか、被収容者への制限は、どこから根拠が来るのか、そして、判例は、どこで線を引いたのか——順に見ていきます。
特別の法律関係①:特別権力関係論とは何だったか

公務員や、刑事施設に収容されている人のように、国家との間に、特別な関係を持つ人たちがいます。公務員や国立大学の学生のように、本人の同意によって、あるいは被収容者のように法律によって、国家の特別な支配に服する関係のことです。明治憲法の時代、この人たちの人権制限を説明するために使われていた理論が、特別権力関係論です。いえ、現在は否定されています。ですが、「昔の理論です」で済ませると、なぜ否定されたかが分からなくなるので、まず、どんな理論だったかを見ておきましょう。この理論のもとでは、この特別な関係の中で、3つのことが妥当すると考えられていました。一つ目、法律の根拠が無くても、人権を制限できる。二つ目、広い範囲で、人権を制限できる。三つ目、その制限に、裁判所の審査が及ばない。具体的に言うと、こういうことです。刑事施設に収容されている人が、手紙を出すことを全面的に禁じられたとします。一つ目により、それを定めた法律は、無くてもかまいません。二つ目により、禁止の範囲が広くても、かまいません。三つ目により、その人は、裁判所に訴えることもできません。この3点セットが、特別権力関係論の骨格です。
特別の法律関係②:なぜ否定されたか・現代的処理

では、この理論が、なぜ否定されたのかを見ていきます。1つ目——法律の根拠なしに人権を制限できる、という部分は、法治主義——国会が作る法律によって初めて権力の行使が許される、という原則に反します。2つ目——広範な人権制限が許される、という部分も、1つ目と同じ、法治主義の問題です。3つ目——司法審査が及ばない、という部分は、もっと直接的にぶつかります。裁判を受ける権利を定める32条、そして、法律や処分が憲法に違反していないかを裁判所が判断する、81条の違憲審査制を、無いも同じにしてしまいます。さっきの、手紙を全面的に禁じられた人を思い出してください。禁止の根拠になる法律が無くても許される——これが、法治主義に反します。以前、法の支配と並べて見た、あの発想です。明治憲法の回の、法律の根拠が要るという縛りと、同じ向きの話です。そのうえ、裁判所にも行けない——これが、32条と81条を空文にするということです。これは、国家権力を法で縛る、という、日本国憲法そのものの骨格と、正面から衝突します。だから、特別権力関係論は、採用できないんです。ここで、発想が転換します。公務員も、被収容者も、国立大学の学生も、一括りの身分として扱うのをやめます。そのかわり、それぞれの関係ごとに、「なぜ制限できるのか」という根拠と、「どこまで制限できるのか」という限度を、個別に問い直します。この考え方を、現代的処理と呼びます。これから、この現代的処理を、被収容者の場合に当てはめて、具体的に見ていきましょう。
被収容者の人権①:収容の目的と規制の根拠

受刑者だけでなく、裁判が終わるまで拘置所にいる未決拘禁者も含みます。まず、なぜ収容という制度があるのか、その目的を確認しましょう。目的は3つです。一つ目、拘禁の確保——逃亡を防ぎ、収容そのものを維持すること。二つ目、戒護——施設内の規律と秩序を保つこと。三つ目、矯正教化——受刑者を社会に戻すために、教育し、更生させること。まだ刑が確定していない未決拘禁者には、矯正教化という目的は当てはまりません。さて、ここで大事なのは、「被収容者だから、制限されて当然だ」という発想を、いったん外すことです。通説の論理は、実は逆から組み立てられています。憲法自身が、収容という関係が存在することを、前提として、いくつかの条文を置いているんです。まず、18条を見てください。
条文日本国憲法 18条
日本国憲法 第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
前段は、奴隷的拘束からの自由です。これは、犯罪の処罰であっても例外がない、絶対的な禁止です。後段の「犯罪に因る処罰の場合を除いては」は、意に反する苦役——強制労働の話に付いた、別の例外です。適法な拘禁そのものは、この「奴隷的拘束」には当たらないと解されています。裏を返せば、憲法は、適法な拘禁があり得ることを、前提しているのです。34条は、身柄を一時的に押さえる抑留と、続けて身柄を拘束する拘禁について、その要件を定め、31条は、適正な手続によらなければ、自由を奪われない、と定めます。憲法が、収容関係を、憲法秩序の構成要素として認めているからこそ、その枠の中で、制限の根拠が生まれる、という順序です。「例外だから制限される」のではなく、「憲法の内側にある関係だから、その内側でだけ制限できる」という理解です。ここで、さっきの法治主義とぶつからないか、気になるところです。緩められうる、とは説明されます。ですが、それは憲法自身が収容という関係を予定しているからで、特別権力関係論のように、枠ごと外れるのとは違います。だからこそ、その制限は、さっきの3つの目的——拘禁の確保、戒護、矯正教化のためでなければなりません。逆に言えば、拘禁の確保にも、戒護にも、矯正教化にもつながらない制限は、目的の外です。たとえば、施設の運営に何の支障も無いのに、所長が個人的に気に入らないという理由だけで本を取り上げる——これは、3つのどの目的にも当たりません。この枠組みを、実際の判例で確認しましょう。
被収容者の人権②:よど号ハイジャック新聞記事抹消事件

未決拘禁者の新聞閲読の自由が問題になった、有名な事件があります。ある未決拘禁者が、拘置所内で新聞を読んでいました。ハイジャック事件を伝える記事を含む部分が、拘置所長によって、塗りつぶされ、読めなくされたんです。この処分の是非が争われたのが、よど号ハイジャック新聞記事抹消事件です。最高裁の判断は、二段構えです。まず、そもそも新聞を読む自由が憲法上保障されるか、次に、保障されるとしてどこまでなら制限できるか、この順に見ていきましょう。一つ目です。新聞や図書を読む自由——閲読の自由について、最高裁はこう述べました。
判例最大判昭58・6・22
よど号ハイジャック新聞記事抹消事件——閲読の自由 意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法19条の規定や、表現の自由を保障した憲法21条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法13条の規定の趣旨に沿う。
未決拘禁者にも、新聞を読む自由は、憲法上、保障されるということです。なぜ、読む自由が出てくるのでしょうか。思想・良心の自由も、表現の自由も、外から情報が入ってこなければ、中身が空になります。考える材料も、伝え合う材料も、無くなるからです。だから、読む自由も、この2つの自由の趣旨から、当然に出てくる、という理屈です。しかし、無制限ではありません。二つ目です。最高裁は、どこまでなら制限できるかの基準を示しました。
判例最大判昭58・6・22
よど号ハイジャック新聞記事抹消事件——相当の蓋然性 一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められることが必要であり、かつ、その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。
カードの中の「監獄」は、当時の法律の言葉です。今の刑事施設・拘置所のことだと読んでください。ただの抽象的な心配だけでは、足りません。被拘禁者本人の性向や行状、施設内の状況、その新聞や本の内容といった、具体的な事情のもとで、放置できない程度の障害が生じる、というかなり高い可能性が必要です。そのうえで、制限は、必要かつ合理的な範囲にとどまらなければなりません。この「相当の蓋然性」という言葉も、条文にはありません。判例が、閲読の自由を制限する場面のために、独自に示した物差しです。ただ、あらゆる人権制限に通用する物差しは、まだありません。そこは、前回からの宿題のままです。なぜ、この高さで線を引くのでしょうか。施設の側の抽象的な不安だけで制限を許せば、さっき保障したはずの自由が、形だけになります。かといって、現に規律が壊れるまで放っておけば、戒護という収容の目的が果たせません。その両方を立てる線が、「相当の蓋然性」です。抽象的なおそれだけでは足りない、具体的な事情のもとで、放置できない程度の障害が生ずる相当の蓋然性が必要、そして必要かつ合理的な範囲にとどまる——この3段階の絞りだと、理解してください。逆に、どういう場合が外れるのかも見ておきましょう。「この人は前に問題を起こしたことがあるから、念のため新聞は全部読ませない」——これは、その記事の中身も、今の施設の状況も見ていない、抽象的な不安だけです。相当の蓋然性には、届きません。この基準のもとで、最高裁は、この事件の処分を、合憲だと判断しました。施設内の規律と秩序の維持という、さっき見た収容の目的の枠内にある、という判断です。一つ、範囲を確かめておきます。この判決が判断したのは、未決拘禁者が新聞を読む自由についてです。受刑者の場合や、手紙のやりとり・面会といった別の場面まで、この判決がそのまま答えを出したわけではありません。もう一つ、似た事件を一文だけ添えておきます。拘置所内での喫煙を禁止した規則が争われた事件でも、最高裁は、これを合憲だと判断しています。ただ、ここから持って帰ってほしいのは、「結論は合憲だった」ではありません。合憲になるかどうかは、収容の目的の枠に収まっているか、そして、絞りを通っているかで決まります。枠と絞りを外して「収容されているから制限できる」と読むと、今日やってきたことが、そっくり裏返ってしまいます。
公務員の特別の制約とまとめ

被収容者と同じ発想は、公務員にも当てはまります。憲法も、公務員という関係の存在自体を、条文で前提にしています。15条は、公務員を選び、やめさせることは、国民固有の権利だ、と定めます。73条4号は、内閣の仕事として、官吏に関する事務をつかさどる、と定めます。この73条は、明治憲法の改正手続の73条とは、別物です。だから公務員にも、被収容者と同じ順序で、特別の制約が認められうる、と説明されます。大きく2つあります。一つは、政治活動の自由——公務員が特定の政党を支援するような活動は、大きく制限されています。裁判官の表現の自由も、同じように制限される場面があります。もう一つは、労働基本権——団体交渉権やスト権が、民間の労働者よりも、大きく制限されています。ですが、その中身——どの条文が問題になり、判例がどう判断したかは、それぞれ別の回で、じっくり扱います。今日は、こうした人権があるということだけ、押さえておいてください。

それでは、今日の内容を、まとめます。特別権力関係論——法律の根拠なしに、広く人権を制限し、裁判所の審査も及ばない、という理論は、法治主義や、32条・81条と正面から衝突するため、否定されました。かわりに採られたのが、現代的処理——公務員や被収容者を一括りの身分として扱わず、関係ごとに、根拠と限度を個別に問う考え方でした。18条・31条・34条が、その手がかりでした。そして、よど号事件では、閲読の自由を認めたうえで、「相当の蓋然性」という絞りで、制限を無制限にはしない、という枠組みを見ました。さて、前回、「公共の福祉」という言葉の中身を、学説の歩みでたどりました。そこで残っていた宿題——具体的にどこまで制限できるかの、ものさしが要る、という宿題は、まだ回収していません。次は、その宿題を回収します。制限が許されるかどうかを、どんな順番で、どんな厳しさで確かめるのか——そこに、進んでいきましょう。
参照条文
- 日本国憲法 18条