条文に無い権利を、どう認めるか——幸福追求権と「新しい人権」
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第3章 人権各論 ⑯/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
今日の地図(保存版)

これまで見てきた人権には、共通点がありました。表現の自由も、職業選択の自由も、条文に名前があります。憲法を開けば、その名前が載っている。そのうえで、どこまで制限できるかを見てきました。審査基準の話も、人権が私人どうしの間にどう及ぶかという別の話も、出発点は「条文がすでにある」ことでした。
ただし、後回しにしたまま返していない宿題が一つ残っています。「公共の福祉」を扱ったときに出てきた 13条です。あのときは「公共の福祉に反しない限り」という言葉だけを見て、13条がどんな権利を生むのかには入りませんでした。
今日は、そこを正面から扱います。そして、今日から土俵が変わります。もし、条文に名前の無い権利があったら、どうするのか。名前が無いなら権利として認められない、とはなりません。名前の無い権利も、憲法上の権利として認められています。 その手がかりが13条です。
この回は三つの順で進みます。①13条には何が書いてあるか。②名前の無い権利を認める要件は何か。③実際に権利が生まれた事件。
13条の構造——何を守り、どこまで守るか

条文日本国憲法 13条
日本国憲法 第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
13条は、前段と後段の二つの部分に分かれています。
前段は「個人として尊重される」という一文です。たとえば、多数派と違う考えを持つ人でも、その人自身の価値を切り捨ててはいけない、という意味です。一人ひとりを、集団の一部としてでなく扱う、という宣言です。
後段が、この回の本体です。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とあります。この後段の権利を、まとめて幸福追求権と呼びます。 この言葉の広さこそが主役で、ここに、条文が名前を挙げていない権利を読み込んでいきます。
なお、「公共の福祉に反しない限り」は、後段の権利にかかる条件です。この言葉の働き方そのものは「公共の福祉」を扱った回で見たので、ここでは位置の確認だけにとどめます。
13条は「具体的権利」
13条がそれ自体で権利を認めているかは、歴史のある論点です。かつては、13条は個別の人権をまとめて呼ぶ言葉にすぎないと理解されていました。それ自体では何も具体的な権利を生まない、というイメージです。しかし社会の変化に応じて考え方が動き、今は、13条それ自体から具体的な権利を導けると理解されています。
権利の強さには段階がありました。具体的な権利、抽象的な権利、そしてプログラム規定です。裁判で直接使えるのが具体的権利で、13条はそのいちばん強い段階に当たります。 それ自体を根拠に、裁判で救済を求められる、ということです。
総則的な条文はもう一つある
個別の人権規定の土台になる条文は、実はもう一つあります。14条(法の下の平等)です。13条と並んで、個別の人権規定を支える総則的な条文です。中身は別の機会に扱います。
なぜ新しい人権が要るのか

なぜ、13条から新しい権利を読み込む必要があるのでしょうか。憲法が作られたのは何十年も前で、そのときに想定できなかった生活の場面が、次々に生まれてくるからです。
たとえば、街を歩けば防犯カメラに姿が映り、買い物をすれば記録がどこかに残ります。こうした、自分の情報が知らないうちに集められ、残っていく場面は、憲法が作られた当時には想定されていませんでした。 条文には、そういう場面の名前は出てきません。こうした場面に対応する権利の一つが、プライバシー権と呼ばれるものです(中身は別の回で扱います)。
ただし、ここで新しい問題が生まれます。「新しい人権」だと言えば、何でも認めてよいのか。では、何を基準に線を引くべきか。 ここがこの回のいちばんの論点です。
要件の対立①——一般的行為自由説

13条から、どこまでの範囲を読み込むべきか。ここで二つの立場が対立します。
一つ目が 一般的行為自由説です。あらゆる生活領域の行為の自由が、13条後段によって保障されるという立場で、たとえば公園を散歩する自由や、海で泳ぐ自由も含みます。人に迷惑をかけない行為は広く自由だ、という発想であり、個人の自由をできる限り広く保護しようという立場です。
広く守ってくれるほうが良さそうに聞こえますが、これには対立する立場があります。
要件の対立②——人格的利益説と、通説になった理由

二つ目の立場が 人格的利益説で、これが今の通説です。定義は次のとおりです。
人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体
「人格的生存に不可欠」というのが絞りの言葉です。散歩や海水浴のような行為は含まれません。では何が含まれるのか。さきほど見た、自分の情報が知らないうちに集まっていく場面を思い出してください。誰にどこまで知られるかを、自分の側に残しておくこと。 これは、その人がその人として生きていくことに直接かかわります。散歩は外、こちらは内。そこに線が引かれます。
では、なぜわざわざ狭くするのか。広く認めたほうが優しく見えます。ここがこの回のいちばん大事なところで、理由が先にあって、結論が後です。

学校の保健室に、ベッドが一台あるとします。本当に具合が悪い人だけが使えるベッドです。もし、眠いから、疲れたから、という理由でも使えるようにしたら、どうなるでしょうか。
一つ目に起きること。「保健室のベッドで休む」ということ自体の重みが消えます。誰でも使えるものになれば、特別さが無くなるからです。人権も同じで、あらゆる行為に「人権」という名前を付けてしまうと、人権という言葉自体の重みが薄れてしまいます。表現の自由のような重い権利と、散歩の自由が、同じ重さで並んでしまう。これが「人権のインフレ化」と呼ばれる問題です。
二つ目に起きること。 ベッドを使いたい人が増えると、取り合いになります。使いたい人どうしがぶつかり、そのたびに誰を優先するかを調整しなければなりません。人権でも同じで、広く人権を認めるほど、人権どうしがぶつかる場面が増えます。 ぶつかったときに必要になるのが、以前見た「公共の福祉」による調整です。つまり、広く認めた権利ほど、簡単に制限されてしまう。 人権として認めることは、守ることであると同時に、弱くすることにもなりかねません。広ければ広いほど優しい、というわけではないのです。
この二つの理由から、通説は範囲を絞る道を選びました。 人格的生存に不可欠な利益に絞り込む立場です。「通説だから正しい」ではなく、ここまでの理由があります。理由を知らずに結論だけ覚えると、応用が利きません。
答案戦略——両方書けるのが到達点

実際に答案を書くときは、どちらの説で書くべきか。通常は、人格的利益説で書きます。 ただし、ここで一般的行為自由説を忘れてはいけません。
人格的利益説には、絞りすぎて困る場面があります。たとえば、仕事終わりに一本の煙草を吸う自由。この自由が「人格的生存に不可欠」だと言い切れるでしょうか。晩酌でお酒を飲む自由も同じで、人格的利益説の定義にうまく当てはまりません。
そこで 一般的行為自由説の出番です。あらゆる生活領域の行為の自由、という立場なら、煙草を吸う自由も、お酒を飲む自由も素直に含まれます。だから、一般的行為自由説は「負けた説」ではありません。 人格的生存に不可欠と言いにくい場面のための、もう一つの道具です。
では、広い説に乗り換えたら、さきほどのインフレ化がまた起きないのか。起きます。 だからこそ、広く拾った自由は、そのぶん制限も通りやすくなります。そこまで引き受けたうえで、この場面はこの説で書く、と決めるわけです。
どちらか一方でなく、両方を持っておく。 これが答案戦略として、いちばん大事な姿勢です。
京都府学連事件——13条が実際に権利を作った最初の例

ここまでの話が実際に使われた場面が、京都府学連事件です。登場人物をAとBの二人で見ていきます。
Aは、違法な状況を確かめるために現場に来ていた警察官です。デモ行進には許可の条件が付いており、その条件に違反していないかを確認するのが仕事でした。Bは、その集団の先頭で行進していた人です。Aは条件に違反していると判断し、行進の様子を撮影しました。Bはこれに抗議し、持っていた旗ざおでAの顎のあたりを突き、治療に一週間ほどかかる怪我を負わせています。Bは、公務執行妨害と傷害の罪で起訴されました。
突いたことで裁かれているのに、なぜ撮影の話が出てくるのか。そこが入口です。公務執行妨害が成立するのは、その職務が適法だった場合です。 撮影が許されないものなら、適法な職務ではなくなる。だから、撮影の当否が争点になりました。
この裁判でBの側は、承諾なしに写真を撮られたこと自体が憲法違反だ、と主張しました。最高裁はこの主張に正面から答えています。最高裁の答えは三つに分けて読みます。①そういう自由があるか ②例外はあるか ③この事件はどちらか。
判例最大判昭44・12・24(上告棄却)
京都府学連事件——13条が生んだ最初の自由 個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態……を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。
① 認められた自由と、その決め手
何人も、承諾なしに、みだりに容ぼうや姿態を撮影されない。そういう自由がある、と最高裁は認めました。
決め手は、13条が守っているのが「国からの干渉に対する私生活上の自由」だという点です。 憲法の人権規定は、もともと国に向けて書かれたものでした。相手が警察であっても、そこは変わりません。だから、撮られない自由が出てきます。
ただし、ここに大事な留保が付いています。「これを肖像権と称するかどうかは別として」という一文です。最高裁は、肖像権という名前を正面から認めたわけではありません。 13条から導かれる自由の中身として述べたにとどまります。「最高裁が肖像権を認めた」と覚えると正確ではない——ここが短答で狙われる急所です。留保の一文を落とさないでください。
そのうえで、警察官が正当な理由もなく撮影することは、13条の趣旨に反して許されない、としました。

② 例外——撮影が許される3要件
この自由も、無制限ではありません。 犯罪の捜査は、社会全体のために警察に任された仕事だからです。だから、条件がそろえば撮影の側が通ります。承諾も令状も無くて撮影が許される場合がある、ということです。
そろうべき条件は三つです。
- 現に犯罪が行われている、または、行われた直後であること
- 証拠を残す必要性と、急ぎの事情があること
- 撮影の方法が、一般に許される範囲を超えていないこと
一つでも欠けると、話が変わります。
③ この事件の結論
この事件では、条件違反がまさに進行中で、証拠を残す必要も急ぎもあり、撮影の方法も、行進の様子を撮るだけの相当なものでした。三つともそろっています。したがって、撮影は適法とされ、Bの上告は退けられました。
ここがもう一つの罠です。「自由を認めた」イコール「この判決は違憲判決だ」ではありません。 撮影されない自由を認めたうえで、今回はその自由を制限してよい場面だった、と判断したのです。承諾も裁判官の令状も、ここでは要りません(令状が要る場面との違いは別の回で扱います)。
13条の位置づけの確定——補充的保障、そして人権各論へ

最後に、13条の立ち位置を確定させます。個別の人権規定には、それぞれ守る範囲があります。表現の自由や職業選択の自由のような規定です。そうした個別の規定でカバーされる場面では、13条は出てきません。
なぜか。個別の規定は、憲法が「ここは守る」と線を引いた条文だからです。先に13条で拾うと、その線を素通りできてしまいます。それに、何でも13条で拾えば、広げるほど弱くなるというさきほどの話が、13条自身に起きます。 これは「一番ぴったり合う条文を探す」という、以前に見た考え方と同じです。13条は、その最後に残る受け皿です。これを補充的保障と呼びます。
なお、13条は「個別の規定を支える土台」でもありました。土台であることと、個別の規定がある場面では出てこないことは、矛盾しません。支えているのは体系の話、出てこないのは検討する順番の話で、別のことを言っています。
名前の似た「制度的保障」とも別ものです。制度的保障は制度そのものを守る話、補充的保障は条文を使う順番の話です。
これで、後回しにしていた宿題を一つ返し終えました。13条がどんな権利を生むのか、という中身です。なお、13条から権利が導かれた例はほかにもあり、外国人に指紋の押捺を求める制度が争われた事件でも、13条から具体的な権利が導かれたという筋があります(中身は別の回で扱います)。

まとめ
- 13条後段の広い言葉に、条文に名前の無い権利を読み込む。
- ただし無限定に広げると二つの問題が起きる=人権の重みが薄れることと、制限される場面が増えること。
- だから通説は 人格的利益説(人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体)で範囲を絞る。
- 絞りすぎて困る場面では 一般的行為自由説も使う。両方を持っておくのが到達点。
- 京都府学連事件で、13条から実際に権利が生まれた。ただし肖像権と呼んだわけではないという留保と、撮影は適法だったという結論、どちらも罠。
- 個別の規定が使える場面では13条は出てこない=補充的保障。
13条から生まれる権利は、これから何本も出てきます。この回で名前だけ出たプライバシー権、自分の生き方を自分で決める自己決定権、名誉のように人格そのものに関わる人格権。これらを、これから一つずつ扱っていきます。
参照条文
- 日本国憲法 13条