憲法ゼロから憲法#26

思想・良心の自由——「絶対に自由」とは何を言っているのか

⬇ 印刷用PDF

第3章 人権各論 ㉖/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

十九条はなぜ独立の条文なのか

精神的自由は特に手厚く守られるべきという前回までの話の中身に今日から入る+諸外国は信教・表現の自由の保障で足りるとするのが通例+独立条文の例は多くない+日本は特定の考え方そのものを取り締まった歴史への反省から独立させた

以前、精神的な自由は、特に手厚く守られるべきだ、という話をしました。ただし、今日の話は、その物差しを厳しくする、という話ではありません。物差しを当てる場面にすら入らない、という話です。今日から、その中身に、実際に入っていきます。まず、条文そのものを、もう一度見てみましょう。

条文日本国憲法 19条

日本国憲法 第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない

まず、素朴な疑問からいきましょう。信じることの自由なら、信教の自由でも、考えを外に出す自由なら、表現の自由でも、ある程度は守れそうな気がしませんか。実際、外国の憲法の多くは、思想や良心の自由だけを取り出して独立させることは、あまりしていません。信教の自由や、表現の自由を保障すれば、頭の中の自由も、当然に含まれると考えるからです。理由は、歴史にあります。日本には、かつて、特定の考え方そのものを取り締まった時代がありました。どんな信条を持っているか、頭の中身そのものを国家がチェックし、危険だと判断した考え方を弾圧した、という過去です。そういう歴史があったからこそ、日本国憲法は、頭の中身そのものを、他の自由から切り離して、独立の条文で、名指しして守ることにしました。

この条文の意味は、明治憲法の「法律の留保」と裏表の関係にあります。あの仕組みのもとでは、法律さえ作れば、権利を制限できました。思想の自由も、その対象になりえたわけです。今の日本国憲法は、そういう法律すら作らせない、という立場です。この条文の存在そのものが、二度と頭の中身に手を出させない、という宣言なんです。

「絶対的に自由」の意味

「絶対」の意味=制約が及ぶ余地がないのではなく内心にとどまる限り他者の人権と衝突しようがないという意味+公共の福祉=人権相互の調整という前に見た道具を接続+衝突しようがないから調整の発想自体が入らない

そこを、順番に解いていきます。まず、「絶対的に自由」という言葉の中身を、正確に見ましょう。以前、人権にはもともと、他人の人権とぶつかったときに調整される場面がある、という話をしました。では、聞きます。頭の中で何かを思っているだけの状態は、誰かの人権と、ぶつかりますか。内心にとどまっている限り、それは他人の目に触れませんし、他人の権利と衝突しようがありません。衝突が起きないなら、そもそも、調整するという発想自体が、出てくる余地がないんです。「絶対的に自由」の中身は、ここにあります。「どんな制約にも勝つ、無敵の権利」という意味ではなく、「内心にとどまっている限り、調整という土俵にすら乗らない」という意味です。

無敵だから絶対、なのではなく、そもそも戦いが起きないから絶対、ということです。だから、条文に「公共の福祉に反しない限り」という、ただし書きが要らないんです。ただし、ここには、大事な条件が付いています。「内心にとどまっている限り」という条件です。これが、外に出た瞬間、話は変わります。頭の中で思っているだけでなく、それが行動として外に現れた瞬間、他人や社会との接触が始まります。そこから先は、この後、四つの型に整理して地図にします。

保障の範囲——内心説と信条説

内心説(限定なしのものの見方一般)/信条説(世界観・人生観など人格形成に関連する内心の活動・通説)+範囲を狭めるのは絶対を守り切るため 図:内心説と信条説の対比

  • 内心説=ものの見方や考え方一般(限定なし)
  • 信条説=世界観・人生観など、人格形成に関連する内心の活動(通説
  • 範囲を狭めるのは、残った部分の「絶対」を守り切るため

もう一つ、確認しておきたいことがあります。「思想及び良心」という言葉が、どこまでを指すか、という範囲の問題です。頭の中で考えていることなら全部が当てはまる、という考え方を、内心説と呼びます。ものの見方や考え方一般を、限定なく含める立場です。範囲が広いほど守りが手厚くなりそうに思えますが、実務や多くの学説が採っているのは、もう一つの立場です。信条説と呼ばれる立場で、世界観や人生観など、その人の人格を形づくっている考え方に、範囲を絞ります。たとえば、「どんなことがあっても暴力には加担しない」という信念のような、その人の生き方の芯にあるものです。ここが今日、最初のひっかかりです。少し、極端な例で考えてみましょう。給食で、嫌いな野菜が出たとします。「食べたくない」という気持ちも、頭の中の考えではあります。

もし、内心説を、そのまま押し通すなら、この気持ちも、十九条の絶対的な保護の対象に含まれかねません。誰もそこまでは主張しませんが、対象を広く取れば取るほど、実務は「これは大した話ではないから、多少の制約は仕方ない」という、ただし書きを、どこかで作らざるを得なくなります。そこです。ただし書きが無い条文なのに、こっそりただし書きを作ってしまったら、「絶対」という看板は、もう本物ではなくなってしまいます。信条説は、先に対象を、人格の土台をなす考え方に絞ります。その代わり、対象に入ったものについては、本当に例外なく、絶対を貫きます。

範囲を狭めるのは、守りを弱くするためではなく、残った部分の「絶対」を本物のまま守り切るため——ここが、通説の考え方の芯にある発想です。

謝罪広告事件——対立が結論に表れる場面

事案=選挙運動での名誉毀損を理由に謝罪広告の新聞掲載を命じた原判決に対し謝罪の意思のない者への強制は十九条違反と争った+内心説なら許されないはずの強制が信条説の立場からは説明できるという具体の帰結

この対立が、実際の結論に表れた事件を見てみましょう。選挙運動の中で、ある候補者が、他人の名誉を傷つける発言をしました。裁判所は、傷つけられた側の名誉を回復するために、新聞に謝罪広告を出すよう命じました。謝る気が無いのに謝罪広告を強制されるのは良心の自由の侵害ではないか——それが、この事件で争われた点です。命じられた広告の中身を見てみましょう。「放送や記事の内容は真相と違っており、ご迷惑をおかけしました。ここに陳謝の意を表します」という程度のものでした。最高裁の判断を見てみます。次に出てくる「上告人」は、発言をした側——広告を命じられた人のことです。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和31年7月4日(民集10巻7号785頁)

謝罪広告事件 単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものにあつては、これが強制執行も代替作為として民訴七三三条の手続によることを得るものといわなければならない。 この種の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられない

一つ、言葉を補います。前半に出てくる「代替作為」は、本人でなくても代わりにできる行為、という意味です。この程度の広告なら、その形で強制もできる、という手続の話をしています。今日いちばん覚えてほしいのは、「止まる程度のもの」という言い回しです。最高裁は、謝罪広告なら何でも合憲だ、とは言っていません。単に事実を認めて、遺憾の意を示す程度にとどまるものであれば、良心の自由を侵害しない、という言い方です。もし、もっと踏み込んで、心からの反省や、内心の転向を宣言させるような内容だったら、結論は変わりうる、という含みが、この一句には残っています。

判決文自体は、良心の中身にまでは立ち入っていません。ただ、多くの学説は、この結論を、信条説の立場から説明します。もし内心説を取るなら、「謝りたくない」という一時的な気持ちも、十九条の対象に含まれます。そうすると、程度を問わず、謝罪の強制は許されない、という結論になりやすいはずです。対象を、人格の土台をなす世界観や人生観に絞る信条説なら、単なる事実の陳謝は、そもそも十九条が絶対的に守る領域の外にある、と素直に説明できます。抽象的な対立が、具体的な事件で、どちらの立場を取るかによって、結論の説明のされ方が変わってくる——それを、体感してもらうための事件でした。

制約の四つの型——非対称の地図

①思想の強制/②思想に基づく不利益処遇/③思想の告白の強制/④思想に反する行為の強制+①〜③は絶対的に禁止・④だけが許容されうるという非対称

ここまでは、内心そのものの中身についての話でした。ここからは、国家がどんな形で内心に働きかけるか、という話に移ります。これから見る四つの型は、いずれも、国家と個人の関係を前提にしています。私人どうしの間で、思想を理由に扱いに差がつく場面は、以前、別の回で扱いました。今日は、国との関係に絞って進めます。働きかけ方は、大きく分けて、四つの型に整理できます。一つ目は、思想そのものを強制する型です。特定の考えを持て、あるいは持つな、と国家が迫る型です。さっきの謝罪広告の場面——命じたのは裁判所、つまり国家の側でした。あの場面で、もし「その考えそのものを改めよ」と命じていたら、それが一つ目です。二つ目は、思想を理由にした不利益処遇です。どんな考えを持っているかを理由に、扱いに差をつける型です。同じ場面で、もし「その考えの持ち主だから」という理由で、別のところで不利に扱ったら、それが二つ目です。三つ目は、思想の告白を強制する型です。どんな考えを持っているか、言え、と迫る型です。

同じ場面で、もし「本心ではどう思っているのか、述べよ」と命じたら、それが三つ目です。そして、四つ目が、思想に反する行為の強制です。内心の考えとは違う行動を、外に対してとるよう、国家が求める型です。さっきの場面で実際に命じられたのは、これです。「陳謝の広告を出しなさい」という、外に対する行動を命じる形でした。ここで、今日いちばん大事な宣言をします。この四つの扱いは、同じではありません。一つ目、二つ目、三つ目は、例外なく、絶対的に禁止されます。四つ目だけが、場合によっては許容されうる型です。さっきは、その広告が十九条の守る範囲に入るかどうかで見ました。ここでは、同じ結論を、働きかけの型のほうから見ています。実際に、事実を認めて遺憾の意を示す程度の広告なら、命じてよいとされました。同じ場面でも、心からの反省を宣言させるところまで求めれば——ここまで来ると、三つ目、内心の告白の強制に近づきます。だから結論は変わりうる、という含みが、あの一句には残っています。

理由は、さっき見た「絶対」の意味に戻ります。一つ目、二つ目、三つ目は、どれも、内心そのものに、国家が直接、手を突っ込む型です。思想を書き換えさせる。思想を理由に差をつける。思想を暴かせる。どれも、内心という領域そのものへの、直接の干渉です。だから、この三つには、公共の福祉による調整という発想が、そもそも入る余地がありません。一方、四つ目は、内心そのものではなく、外部の行動を求める型です。行動は、他人の目に触れ、社会と接触します。だから、無条件に絶対、とはいきません。行動の裏には、その人の考えがあるかもしれない——行動と内心が、どこまで結びついているとみなせるか。そこが、まさに次の論点です。四つ目を扱うために、判例は、ある中間の道具を用意しています。今日のところは、この四つの型と、四つ目だけが違うという、この非対称を、地図として持ち帰ってください。

今日の地図(保存版)

今日の1問への答え=絶対とは調整の土俵に乗らないという意味+信条説は残りの絶対を守り切るための絞り込み+4類型の地図と④だけが違う理由+中身は次回

今日の一問に、一度、答えを出しておきましょう。「絶対に自由」というのは、どんな制約にも勝つ、無敵の権利という意味ではありませんでした。内心にとどまっている限り、他人の権利とぶつかりようがない——だから、調整という土俵に、そもそも乗らない、という意味でした。だから、条文にただし書きが要らないんです。そして、信条説が保障範囲を人格の土台に絞ったのも、守りを弱くするためではありませんでした。絞り込むことで、残った部分の「絶対」を、ただし書き無しの、本物のまま守り切るためでした。そのうえで、国家が内心にどう働きかけるかを、四つの型に整理しました。思想の強制、思想を理由にした不利益処遇、思想の告白の強制——この三つは、内心そのものへの直接の干渉なので、例外なく絶対に禁止されます。四つ目、思想に反する行為の強制だけが、事情が違いました。行動は社会と接触するので、無条件に絶対、とはいかないからです。

精神的な自由という、新しい章に入って、今日は、その土台になる考え方を、一通り確認できました。次回も続けて、思想・良心の自由を見ていきます。四つ目の型を扱うために判例が用意した中間の道具を、実際の事件を追いながら確かめていきます。

参照条文

  • 日本国憲法 19条

憲法 全体ロードマップへ →