思想・良心の自由——制約の四類型と「間接的制約」
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第3章 人権各論 ㉗/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
①思想の強制

一つ目、思想の強制です。特定の考えを持て、あるいは、この考えは持つな、と国家が命じる型です。ここで、一つだけ、比較のために触れておきたい国があります。ドイツです。ドイツは、かつて、特定の政党が民主主義そのものを壊した過去への反省から、民主主義を否定するような考え方を持つこと自体を、一定の範囲で制限する仕組みを持っています。「戦う民主主義」と呼ばれる考え方です。民主主義を守るために、あえて、ある種の考え方を締め出す——そういう発想です。ただし、これは、日本国憲法が採っている考え方ではありません。日本国憲法は、どんな思想であっても、それを頭の中で持っているだけなら、絶対的に自由だという立場です。
頭の中にとどまっている限りは、そうです。ここを、「日本でも危険な思想は保護されない」と読み違えないでください。保護されないのは、思想が外に出て、具体的な行動になったときの、その行動のほうです。この区別は、この後、ずっと効いてきます。
②思想に基づく不利益処遇——麹町中学内申書事件

二つ目、思想に基づく不利益処遇です。どんな考えを持っているかを理由に、扱いに差をつける型です。ところが、この類型で、絶対禁止のはずなのに、請求が認められなかった有名な事件があります。ある公立中学校で、生徒が、校内で特定の政治的な団体を名乗ってビラを配ったり、集会に参加したりしていた、という活動の記録があります。その生徒を、Aさんとしましょう。学校は、この活動の記録を、内申書に記載しました。Aさんは、この内申書が理由で、都立高校を含む、すべての高校の入試に不合格になったとして、地方公共団体に、賠償を求めました。活動の記録を書かれたせいで不合格になった——まさに、思想を理由にした不利益処遇に見えます。では、最高裁の判断を見てみましょう。
判例最高裁判所第二小法廷判決・昭和63年7月15日(判時1287号65頁)
麹町中学内申書事件 「いずれの記載も、〔A〕の思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によっては〔A〕の思想、信条を了知し得るものではない」 「〔A〕の思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものとは到底解することができない」
Aさんの請求は、認められませんでした。そこが、この事件のいちばん大事なところです。落ち着いて、判旨をもう一度、読んでみましょう。最高裁が言っているのは、二つのことです。一つ、記載そのものは、思想や信条そのものではない。二つ、その記載から、Aさんの思想や信条を知ることはできない。行動の記録と、思想そのものの記述は、たしかに別のものです。ここまでは、素直に頷けます。問題は、二つ目です。この記載から、思想や信条を知ることはできない、という部分です。特定の政治団体を名乗って活動していたと書かれていれば、読んだ人はその生徒の政治的な立場をだいたい想像できてしまう——まさに、そこが、学説から強く指摘されている点です。もし、読み手が実際に立場を推測できるなら、実質的には、思想を理由にした不利益処遇に、限りなく近づいてしまいます。
最高裁は、二つ目の類型そのものを、“許される”と言ったわけではありません。「この記載は、そもそも思想そのものに触れていない」という、手前の事実認定によって、結論を出しました。ここを混同すると、「思想を理由にした不利益処遇は、場合によっては許される」と誤解してしまいます。正しくは、絶対禁止という原則は動いていません。ただ、この記載が本当に思想そのものに触れていないと言えるのか、という事実認定の当否に、今も、学説の疑問が向けられ続けている、という事件です。この緊張関係を抱えたまま次に進む、というのが、今日の一つ目の山でした。
③思想の告白の強制——沈黙の自由
図:沈黙の自由の住所分け
- 思想の沈黙=十九条(絶対)
- 事実の沈黙=二十一条一項(制約されうる。例=証人の証言義務)
三つ目、思想の告白の強制です。どんな考えを持っているか、言え、と国家が迫る型です。この裏返しとして、「言わずにいられる自由」があります。沈黙の自由と呼ばれます。思想について黙っている自由は、十九条によって、絶対的に守られます。ただ、ここで、一つ注意が要ります。「言わない自由」と聞くと、どんな場面でも、何でも黙っていられる、という話に聞こえるかもしれません。違います。同じ「言わない」でも、何について言わないのか、で、条文の住所が変わります。
条文日本国憲法 21条1項
日本国憲法 第二十一条第一項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
思想そのものについて黙っている自由は、十九条の問題です。一方、単なる事実について黙っている自由は、二十一条一項、表現の自由の問題です。そして、二十一条の側は、十九条と違って、絶対ではありません。制約されることがあります。裁判で、証人として呼ばれた場合を考えてください。証人は、見たこと、聞いたことを、証言する義務を負います。原則として、正当な理由がなければ、証言を拒めません。これは、事実についての沈黙です。もし、思想の自由が、どんな場面でも無条件に沈黙を許すなら、証人が「話したくないから話さない」と言えば、裁判の仕組みそのものが、成り立たなくなってしまいます。
だから、この住所分けが大事なんです。思想そのものの沈黙は、絶対に守られる。でも、事実についての沈黙は、表現の自由の問題として、正当な理由があれば、制約されうる。これは、以前、私人どうしの関係で、思想の自由に少し触れたときに、「この自由そのものの中身は、専用の回で扱います」と、保留にしていた話でもあります。国家が相手のときの、この自由の中身を、今日、正面から見ました。
④思想に反する行為の強制——ピアノ伴奏拒否事件

ここから、四つ目の型に入ります。思想に反する行為の強制です。会社が、社員に指定の制服を着るよう求める場面を、想像してください。内心では、その会社の方針に反対している社員がいたとしても、制服を着ること自体はできますよね。四つ目は、まさにこの構造です。内心そのものではなく、外部の行動を求める型です。だからこそ、一つ目から三つ目のような絶対禁止ではなく、場合によっては許容されうる型になります。そこを、実際の事件で見ていきます。ある公立の小学校の、音楽の先生の話です。入学式で、国歌を歌う際に、ピアノで伴奏をするよう、校長から命じられました。
この先生は、命令に従わず、伴奏をしませんでした。その結果、地方公務員法に違反したとして、戒告処分を受けました。戒告とは、職務上の注意を、正式な処分として記録に残す、比較的軽い懲戒処分です。この先生は、処分の取り消しを求めて、裁判を起こしました。伴奏を拒否したのは、自分の歴史観や世界観に基づく行動であって、それを理由に処分することは、十九条の思想及び良心の自由を侵害する、と主張しました。見てみましょう。次に出てくる「上告人」は、最高裁まで不服を申し立てた側——ここでは、この音楽の先生のことです。判旨は、次のように述べています。
判例最高裁判所第三小法廷判決・平成19年2月27日(民集61巻1号291頁)
「君が代」ピアノ伴奏拒否事件 本件入学式の国歌斉唱のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。 本件職務命令は、上告人に対して、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。
「一つの選択ではあろうが」——伴奏の拒否がその先生の考えに基づくこと自体は、認めています。ただ、それは「一般的には、思想と切り離せないほど、強く結びついてはいない」という言い方をしています。そして、思想を強制したのでも、禁止したのでも、告白させたのでもない、と結論づけました。合憲です。この判決は、そう読めます。ただ、ここで、一つ、大事な注意点があります。この判決の読み方には、実は、二つの見方があります。一つは、この事件では、そもそも思想及び良心の自由に対する制約自体が無かった、と読む見方です。もう一つは、制約はあったけれど、それが正当だと判断された、と読む見方です。判決の文言は、「直ちに……否定するものと認めることはできない」という言い方で、制約の有無そのものを、はっきりとは断定していません。だから、両方の読み方が成り立ちます。
最高裁自身が、まだ、どちらとも言い切っていない——そう見ておくのが正確です。この対立は、覚えておいてください。というのも、次に見る事件で、最高裁は、この点について、もう一歩、踏み込んだ言い方をするからです。
起立斉唱事件——間接的制約という中間の器

今日の、いちばんの山です。もう一つ、有名な事件を見ていきましょう。都立高校の先生の話です。ある年の卒業式で、校長から、国歌斉唱の際に起立して斉唱するよう命じる職務命令が出ました。この先生は、起立しませんでした。東京都の教育委員会は、この不起立が、職務命令違反にあたるとして、戒告処分にしました。ここから、もう一つ、続きがあります。この先生は、その後、定年退職を迎えることになりました。定年後も、非常勤の職員として働き続けられる、再雇用の制度に、申し込みました。教育委員会は、この不起立が、職員としてふさわしくない行い——非違行為にあたることを理由に、不合格にしました。この先生は、職務命令そのものが十九条に違反すること、そして、不合格にしたことも違法であることを理由に、東京都に対して、損害賠償を求めました。
不起立という一つの行動が、二つの場面で、この先生に不利益をもたらしました。この裁判で、職務命令が十九条に違反するかどうかが、審理の中心になりました。
判例最高裁判所第二小法廷判決・平成23年5月30日(民集65巻4号1780頁)
起立斉唱事件①(直接的制約ではない・間接的制約となる面) 上記の起立斉唱行為は、その性質の点から見て、上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。 本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。もっとも、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。
まず、判決の前半です。起立して斉唱する行為は、この先生の歴史観や世界観そのものを、否定するものとまでは言えない。だから、職務命令は、思想及び良心の自由を、直ちに制約するものではない、としました。そこで、慌てないでください。判決は、ここで終わりません。「もっとも」という接続詞で、続きます。この先生の歴史観に由来する行動、つまり、敬意を示すことを拒否するという行動と、職務命令が求める外部的な行為、つまり、敬意を示す要素を含む行動とは、食い違っています。その限りで、思想及び良心の自由についての、間接的な制約となる面があることは、否定し難い。そう述べています。
ここが、今日いちばんの中間の器、「間接的制約」が出てくる場面です。内心そのものを狙い撃ちにした制約ではないけれど、内心から出てくる行動を求めることで、結果として、内心に、ある種の圧力がかかる。それを、間接的な制約と呼びます。この事件は、そこを一歩進めて、「間接的な制約となる面がある」と、はっきり認めました。制約があると認めたなら、もう十九条に違反しそうにも思えますが、そこが、この事件のいちばん大事なところです。間接的な制約は、あることを認めたからといって、自動的に違反になるわけではありません。次の段階に進みます。
判例最高裁判所第二小法廷判決・平成23年5月30日(民集65巻4号1780頁)
起立斉唱事件②(総合較量で必要性・合理性) 本件職務命令については、外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの、職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば、上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。
ここからが、判決の後半です。間接的な制約となる面はあるものの、職務命令の目的と内容、そして、その制約がどんな態様で生じているかを、総合的に較量する。天秤にかけて、重さを比べる、というイメージです。制約の重さと、命令の必要性を、比べます。制約の側の重さを決めているのは、判決の前半で見た「直接ではない」という中身です。求められているのは、式のあいだ、起立して声を出すという外部の行動までで、歴史観そのものを改めろとは言われていない。だから、天秤に載る制約は、そこまで重くなりません。その結果、この制約は、許容できる程度の必要性と合理性がある、と結論づけました。合憲です。
一つ目から三つ目なら、制約があると分かった時点で、即、違反です。較量の余地はありません。でも、四つ目は違います。制約があると分かっても、そこから、目的や態様を測る、次の段階に進みます。そして、その扉の先で、初めて、較量という作業が始まります。これが、四つ目の型だけが、絶対禁止にならない理由の、実際の姿です。
直接と間接の分かれ目、そして処分の重さ

ここで、直接的な制約と、間接的な制約の、分かれ目を整理しておきましょう。直接的な制約とされるのは、歴史観や世界観、それ自体を否定すること。特定の思想を持つことを、強制したり、禁止したりすること。そして、思想の有無について、告白することを強要すること。この三つです。一方、間接的な制約とされるのは、歴史観や世界観に由来する行動を、社会の中の一般的なルールとの兼ね合いで、制限するにとどまる場合です。さっき見た命令で、当てはめてみましょう。起立して斉唱しなさい、という命令は、式のあいだの外部の行動を求めるだけなので、間接の側です。もし、同じ場面で「その歴史観を改めなさい」と命じていたら、歴史観それ自体を否定することになるので、直接の側に移ります。この区別ができれば、初めて見る事案でも、どちらに当たるかを、自分で考えられます。最後に、もう一つだけ、付け加えておきます。起立斉唱事件のあとに出た、別の判決です。
同じように起立斉唱命令に従わなかった先生に対する、懲戒処分が争われた事件です。この判決は、戒告のような軽い処分であれば許されても、減給や停職といった、より重い処分を選ぶには、その重い処分を選ぶことに見合うだけの、具体的な事情が必要だ、と述べました。合憲かどうかは、一回勝負で決まるのではなく、制約の中身がどれだけ重いかに応じて、必要性と合理性の判断も、細かく変わっていきます。較量というのは、一度きりの判定ではなく、場面ごとに、そのつど働く作業です。ここまでが、四つ目の型を扱うための、判例の道具立てでした。
今日の地図(保存版)

今日の内容を、一枚の地図に戻しましょう。今日の一問は、内心にとどまる限り絶対に自由だと言いながら、なぜ起立命令が合憲になるのか、でした。「絶対」というのは、どんな制約にも勝つ無敵、という意味ではありませんでした。内心にとどまっている限り、他人の権利と衝突しようがなく、そもそも調整という土俵に乗らない、という意味でした。行動として外に出た瞬間に、間接的制約という扉が開き、目的や態様を測る段階に、移っていきます。起立命令が合憲になったのは、この扉の先で、必要性と合理性が認められたからでした。今日は、もう一つ、以前の宿題も回収しました。思想の沈黙は十九条、事実の沈黙は二十一条、という住所分けです。以前、私人どうしの関係に触れたときに保留にしていた話が、ここでつながりました。
次回は、同じ内心の自由の話ですが、少し場所を変えます。信じることの自由、信教の自由を見ていきます。条文も、枠組みも、今日とは別のものになります。今日作った、「内心そのものか、外に出た行動か」という見方は、次の信教の自由でも、時々、顔を出します。
参照条文
- 日本国憲法 21条1項