憲法ゼロから憲法#28

信教の自由——信じる自由と、宗教を理由にした「例外扱い」

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第3章 人権各論 ㉘/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

なぜここまで手厚いのか——明治憲法の逆説

明治憲法にも信教の自由の規定はあった+他の権利と違い法律の留保が無かった+かえって法律によらず命令だけで制限できると読まれ弾圧が行われた+神社は宗教ではないという扱いのもとで神道が国家的に優遇された+この2つの反省が自由権と政教分離の二本立てを生んだ

まず、なぜ信教の自由が、これほど手厚い条文になっているのか、そこから見ていきます。この後、条文を見ますが、国が宗教とどう距離を取るかまで、一つの条文に、まとめて定められています。理由は、歴史にあります。明治憲法にも、信教の自由を定めた規定は、ありました。ところが、大きな違いが一つありました。明治憲法の多くの権利には、「法律の範囲内において」という限定が付いていました。以前見た、法律の留保です。ところが、信教の自由の規定には、この限定が、付いていませんでした。普通は、そう感じますよね。ところが、実際には、逆でした。「法律による限定すら定められていない」という文言が、「法律すら要らず、命令だけで制限できる」という読み方に、利用されてしまったんです。

鍵をかけ忘れた部屋のほうが、かえって誰でも入れてしまう——まさに、そのとおりの構造です。法律という手続きのハードルすら経ずに、実際に、信仰が取り締まられました。もう一つ、加えて起きたことがあります。神社は宗教ではない、という扱いのもとで、神道が、国家的に優遇されました。この二つの反省——法律によらない制限のされやすさと、特定の宗教の国家的な優遇——が、今の信教の自由の条文を、自由権と政教分離の、二本立てにしています。二本立てのうち、今日扱うのは、自由権のほうです。

条文カード——自由権と政教分離の二本立て

信教の自由の条文は一項・二項・三項の三つからなる+今日の主役は一項前段(信教の自由の保障)と二項(参加強制の禁止)+一項後段(特権付与・政治上の権力行使の禁止)と三項(宗教的活動の禁止)は政教分離そのもので次回

この条文を、確認しておきましょう。

条文日本国憲法 20条

日本国憲法 第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

三つの項目からできています。今日、扱うのは、一項の前半と、二項です。信教の自由を保障する、という部分と、宗教上の行事への参加を強制されない、という部分です。国が、特定の宗教団体に特権を与えたり、政治上の権力を持たせたりしてはいけない、宗教教育や宗教的な活動をしてはいけない、という部分です。ここは、政教分離そのものを定めた部分です。だから、この条文は、これほど手厚いんです。

保障範囲——信仰・宗教的行為・宗教的結社

信仰の自由=内心で信仰する・しない・変える自由+宗教的行為の自由=儀式・布教等・しない自由も含む+宗教的結社の自由=団体を結成する自由・結成しない自由も含む+二項が参加を強制されない自由を重ねて強調

この自由が、実際に、何を保障しているのか。三つに分けて見ていきましょう。あります。一つ目は、信仰の自由です。心の中で、何かを信じる、信じない、あるいは、信じる対象を変える自由です。二つ目は、宗教的行為の自由です。礼拝や、儀式、布教といった、宗教に基づく行動をする自由です。ここで、大事な点があります。この自由には、「する自由」だけでなく、「しない自由」も含まれます。宗教的な行事に、参加しない自由です。さっき見た二項が、わざわざ、これを重ねて強調しています。「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」。したい人の自由だけでなく、したくない人の自由も、同じ条文で守っているんです。

三つ目は、宗教的結社の自由です。宗教団体を結成する自由です。これも同じで、結成する自由だけでなく、結成しない自由、特定の団体に加わらない自由も含まれます。まさに、そのとおりです。では、一つ、当てはめてみましょう。学校で毎朝、全員に祈りを唱えさせる、という決まりがあったとします。これは、三つのどれの問題ですか。しかも、唱えたくない人にとっては、「する自由」ではなく「しない自由」のほうが問題になります。そこが大事なところです。もし学校が、「本当に信じているのか」まで確かめようとすれば、一つ目の、信仰の自由に踏み込みます。どれに当たるかを見分けることには、意味があります。この後で見るように、一つ目だけは絶対的に守られ、二つ目と三つ目は、そうではないからです。

「絶対」なのは信仰だけ

信仰=内心にとどまる限り絶対的に自由(前回の絶対=調整の土俵に乗らないの再演)+行為・結社=外に出るので無条件の絶対では守れない、という非対称 図:「絶対」なのはどこか

  • 信仰の自由=内心にとどまる限り絶対的に自由(前回の「絶対=調整の土俵に乗らない」の再会)
  • 宗教的行為・宗教的結社=外に出るので、無条件の絶対では守れない

ここで、大事な非対称を、一つ、宣言しておきます。この三つのうち、絶対的に自由なのは、信仰の自由だけです。「絶対」という言葉は、前回、思想・良心の自由で見ました。あのときの意味が、そのまま、ここでも効きます。内心にとどまっている限り、他人の権利とぶつかりようがなく、そもそも調整するという土俵に乗らない、という意味でした。では、宗教的な行事に参加することも絶対に自由かというと、そこは、注意が必要です。行為と結社は、信仰そのものとは、扱いが違います。部屋の中でひとり祈っているだけなら、誰の権利ともぶつからない——部屋の中で、静かに祈る自由と、道の真ん中に立って、拡声器で教えを説いてまわる自由は、同じ「信じること」に発していても、扱いが違います。

前者は、内心にとどまり、誰の目にも触れません。後者は、外に出て、社会と接触します。だから、宗教的行為の自由や、宗教的結社の自由は、外に出て社会と接触する以上、無条件の絶対では、守り切れません。公共の福祉による調整の対象になりえます。この非対称が、これから見ていく判例すべての、出発点になります。

規制の二つのかたち——狙いうち規制と、中立的・一般的規制

狙いうち規制=特定の宗教を名指しで不利に扱う・当然に制約+中立的・一般的規制=宗教に中立な一般ルールが特定の信者に重い負担+実質的負担があれば間接的ながら制約(前回の間接的制約の再演)

では、行為と結社が、条件付きの自由だとして、実際、どんな形で規制されるのか。ここには、大きく分けて、二つのかたちがあります。あります。一つ目は、狙いうち規制です。特定の宗教、あるいは、その信者であることを理由に、名指しで不利に扱う規制です。たとえば、ある宗教の信者は、この職業に就いてはいけない、と決めてしまうような場合です。問題は、二つ目のほうです。中立的・一般的規制と呼びます。宗教とは無関係に、誰にでも一律に適用される、中立的なルールが、たまたま、特定の信者にだけ、重い負担を課してしまう場合です。

みんなに一律に適用される、勤務のルールがあるとします。日曜日は、必ず出勤、という決まりです。このルール自体は、特定の宗教を狙い撃ちにしていません。誰にでも同じように、適用されます。でも、日曜日を、大切な礼拝の日としている信者にとっては、信仰か仕事かを選ばされる、重い負担になります。ここが、争いのあるところです。この重い負担は、「制約」にあたるのか。見た目は中立だから、制約ではない、という考え方もできます。でも、それで切ってしまうと、宗教を名指ししてさえいなければ、どれだけ重い負担を課しても、憲法の問題にならずに済んでしまいます。だから、実質的な負担がそれだけ大きいなら、間接的ながら、制約にあたると解するべきです。

前回、起立斉唱事件で作った道具です。内心そのものを、直接、狙い撃ちにしてはいないけれど、外部の行動を求めることを通して、事実上、内心に圧力がかかる——あの中間の器が、ここでも、そのまま働きます。作り直す必要はありません。同じ道具を、この先の判例で、繰り返し使っていきます。

審査の強さ

行為・結社の自由=人格の核心に関わるので厳格審査と親和的+間接的な制約なら中間的な審査に緩む場合がある

もう一点、規制が争われたとき、どれくらい厳しい物差しで審査するかにも触れておきます。宗教的行為の自由や、宗教的結社の自由は、人格の核心に関わる自由なので、厳格な審査と、親和的です。ただし、いま見た、間接的な制約にとどまる場合は、中間的な審査に緩むこともあります。さっきの、日曜日は必ず出勤、というルールが、そうです。国は、その人の信仰そのものを禁じたわけではありません。だから、正面から信仰を禁じる規制と、まったく同じ厳しさで測るとは限らない、ということです。この物差しを頭に置きながら、実際の判例を、四件、見ていきましょう。

加持祈祷事件——保障の範囲外という読み方

事案=線香護摩による加持祈祷を精神障害を患う被害者に施術し死亡させた傷害致死事件+判旨は保障の限界を逸脱=保障の有無のレベルであり制約の正当化ではない

一件目です。加持祈祷事件と呼ばれます。ある宗教的な儀式で、線香やお香をたいて祈りを捧げる、加持祈祷という方法があります。この事件では、精神的な病を患っていた被害者に、この加持祈祷が施されました。施術の結果、被害者が、亡くなってしまったんです。行った人物は、傷害致死罪に問われました。この点が、まさに争われました。行った側は、これは宗教行為であり、信教の自由の保障を受ける、と主張しました。最高裁の判断を見てみましょう。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和38年5月15日(刑集17巻4号302頁)

加持祈祷事件 「被告人の本件行為は、所論のように一種の宗教行為としてなされたものであったとしても、他人の生命、身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使に当るものであり、これにより被害者を死に致したものである以上、被告人の右行為が著しく反社会的なものであることは否定し得ないところであって、憲法20条1項の信教の自由の保障の限界を逸脱したものというほかはなく」

そこが、この事件でいちばん大事な読み方です。答えは、違います。「制約が正当化された」と読むと、いったんは信教の自由の保障が及んでいて、そのうえで公共の福祉により制約が許された、という順番に見えます。違います。最高裁が言っているのは、「保障の限界を逸脱した」、つまり、そもそも憲法二十条一項の保障が届く範囲の、外にある、ということです。「制約の正当化」と「保障の有無」、この二つのレベルを、はっきり分けて考えてください。境目を、具体で確かめましょう。教団の教義に従って、自分だけで静かに祈りを捧げる、あるいは断食をする——これは、他人の身体に触れていません。保障の範囲に、しっかり入ります。

他人の生命、身体に危害を及ぼす、違法な有形力の行使にまで踏み込んでいます。ここまで来ると、宗教行為という看板を掲げていても、そもそも保障が届く範囲の、外に出てしまう。この線引きを、答案でも、保障の有無のレベルで書けるようにしておいてください。

牧会活動事件——正当業務行為

事案=捜査機関から逃走中の高校生2名を教会に約1週間宿泊させ説得のうえ任意出頭させた牧師が犯人蔵匿罪に問われた事件+神戸簡易裁判所の下級審判決

二件目、牧会活動事件です。牧師が、信者の魂の面倒を見る、宗教上の活動のことです。この事件では、捜査機関から嫌疑を受けて逃げていた高校生二人を、ある牧師が、教会に、約一週間、宿泊させました。牧師は、その間、二人を説得し続け、最終的には、警察に任意で出頭させました。ですが、この牧師自身が、犯人蔵匿罪に問われました。ここは、注意が必要です。この判断を下したのは、神戸簡易裁判所です。最高裁ではなく、下級審の判決です。ただ、内容として、よく取り上げられる判断なので、見ておきましょう。

判例神戸簡易裁判所判決・昭和50年2月20日(犯人蔵匿被告事件)

牧会活動事件 牧会活動は「形式的には宗教の職にある牧師の職の内容をなすものであり、実質的には日本国憲法20条の信教の自由のうち礼拝の自由にいう礼拝の一内容をなすもの」であり、その制約は「結果的に行為の実体である内面的信仰の自由を事実上侵すおそれが多分にある」ので、制約する場合は「最大限に慎重な配慮」を要する。 行為が目的において正当な範囲にとどまり手段方法において相当である限り、「正当な業務行為として」違法性を阻却し、「罪とならない」。

宗教的な行為への制約は、信仰の自由を事実上侵すおそれが大きいので、最大限に慎重な配慮が要る、という前提を立てたうえで、牧師の説得が、目的において正当な範囲にとどまり、手段としても相当だった、という理由で、正当な業務行為として、罪に問われませんでした。加持祈祷事件は、他人の生命身体への危害という、保障の範囲そのものの外に出ていました。この事件は、他人の生命身体に危害を加えていません。行為が、保障の範囲の内側にとどまっていたからこそ、正当な業務行為かどうかという、次の段階の判断に進めたんです。

オウム真理教解散命令事件——法人格の解散と、信仰の禁止は別

事案=大量殺人目的でサリンを生成した宗教法人に対する解散命令請求+法人格の解散≠信仰の禁止という前提+世俗的目的・間接的で事実上の支障・司法審査による手続の適正の3段

三件目です。ある宗教法人が、大量殺人を目的として、サリンを生成していたことが発覚しました。この法人に対して、法律が定める解散命令の要件にあたるとして、解散命令が請求されました。そこは、先に、はっきりさせておきたいところです。解散命令は、宗教法人という法人格を、失わせる制度です。信仰そのものを禁止する制度ではありません。別です。解散命令が出ても、信者が、法人格のない団体として活動を続けることも、新しく団体を作ることも、妨げられません。この前提を、先に押さえたうえで、最高裁の理由づけを見てみましょう。三段構えです。

判例最高裁判所第一小法廷決定・平成8年1月30日(民集50巻1号199頁)

オウム真理教解散命令事件 「専ら宗教法人の世俗的側面を対象とし、かつ、専ら世俗的目的によるものであって、宗教団体や信者の精神的・宗教的側面に容喙する意図によるものではなく」 解散命令によって宗教上の行為に何らかの支障が生じることは避けられないとしても、「その支障は、解散命令に伴う間接的で事実上のものにとどまる」 「裁判所の司法審査によって発せられたものであるから、その手続の適正も担保されている」

一つ目です。この制度は、専ら宗教法人の世俗的な側面、つまり、法人としての活動を対象にしていて、精神的・宗教的な側面に、口を出す意図によるものではない、としています。二つ目です。解散命令によって、宗教上の行為に、何らかの支障が生じることは、避けられません。でも、その支障は、解散命令に伴う、間接的で事実上のものにとどまる、としています。前回、起立斉唱事件で作った「間接的制約」と、同じ発想です。法人格を失うという措置を介して、事実上、支障が生じる。あの中間の器が、ここでも働いています。そして、三つ目。この命令は、裁判所の司法審査によって発せられたものなので、手続の適正も担保されている、としています。この三段——世俗的な目的、間接的で事実上の支障、裁判所による手続の適正——を理由に、解散命令は、合憲と判断されました。法人格を失わせることと、信仰を禁じることは違う、という前提が最初にあったからこそ、この三段の理由づけが成り立ちます。

剣道実技拒否事件——代替措置と、裁量の逸脱

事案=絶対平和主義を教義とする宗教の信者である学生が体育の剣道実技を教義上の理由で拒否し2回の原級留置ののちこの学生に退学処分+公立の神戸市立工業高等専門学校+核心は代替措置を取らなかったことが裁量権の範囲を超えるか

今日、いちばんの山です。四件目、剣道実技拒否事件です。ある公立の高等専門学校で、体育の必修科目として、剣道の実技がありました。この学校には、絶対平和主義を教義とする宗教の信者である学生がいました。対人での格闘や、武道の実技を、教義上の理由から、行わないという立場です。その学生は、この教義を理由に、剣道の実技を拒否しました。その結果、剣道の実技を含む体育の単位が認められず、原級留置、つまり留年になりました。翌年度も、同じ理由で拒否し、再び原級留置になりました。そして、学則により、退学処分を受けました。

この学生は、処分の取り消しを求めて、争いました。ここで一つ、確認しておきたいことがあります。この学校は、公立です。国との関係が問題になる事件で、以前扱った私人どうしの話とは、場面が違います。私立学校であれば、また別の問題になります。

判例最高裁判所第二小法廷判決・平成8年3月8日(民集50巻3号469頁)

剣道実技拒否事件①(必須ではない・代替可能) 「高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く」、他の体育科目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも性質上可能である。

一つ目です。高等専門学校において、剣道実技の履修が、必須とまでは言い難い、としています。他の体育科目の履修など、代替的な方法によっても、体育という科目自体は、成り立つ、ということです。そこが、次の段階です。代替的な方法があるなら、それを使えばいい、という話に、当然、進みます。ただ、それを実際に採ったとき、別の問題が持ち上がります。

判例最高裁判所第二小法廷判決・平成8年3月8日(民集50巻3号469頁)

剣道実技拒否事件②(代替措置は政教分離違反にならない) 適切な方法・態様による代替措置を採ったとしても、それが「目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえない」。

もし学校が、この学生にだけ、代替措置を認めたら、特定の宗教を優遇することにならないか——そういう懸念が、背景にありました。この判断枠組みは、目的効果基準と呼ばれます。今日、押さえてほしいのは、結論だけです。適切な代替措置を採っても、それが特定の宗教を助長する効果を持つとも、他の宗教者や無宗教の人に圧迫を加える効果を持つとも、言えない。つまり、代替措置は、政教分離には違反しない、と判断されました。そのうえで、最後の段に進みます。

判例最高裁判所第二小法廷判決・平成8年3月8日(民集50巻3号469頁)

剣道実技拒否事件③(結論=裁量逸脱) 代替措置を採らずに退学処分をしたことは「社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超える違法なものといわざるを得ない」。

三つ目です。退学にするかどうかを決めるのは、まず学校です。この、学校に任された判断の幅を、裁量と言います。ただし、幅がある、というだけで、何をしてもよい、という意味ではありません。学校は、代替措置を、まったく検討していませんでした。その状態で下した退学処分は、社会観念上、著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超える、違法なものだ、とされました。どういうことですか。今回の学校は、信仰を理由に実技ができない学生に対して、そうした代わりの道を、まったく用意せず、いきなり退学にまで進みました。もし学校が、代替のレポート課題を用意したうえで、それでも別の正当な理由から留年させていたなら、話はまた違ったかもしれません。今回は、代替の道が、そもそも検討すらされていなかった、という点が、決め手でした。一つだけ、射程を、はっきりさせておきます。ここで断罪されたのは、「代替措置を、一切検討しなかったこと」です。「信教の自由を理由にすれば、必ず代替措置が認められる」という、一般的なルールが立てられたわけではありません。

ここで、もう一件、対照的な事件に、短く触れておきます。公立小学校の児童が、日曜日に開かれる教会学校への出席を優先して、日曜参観授業を欠席し、指導要録に欠席として記録された、という事件です。ただ、こちらは、東京地方裁判所の下級審判決で、児童側の請求は、退けられました。日曜参観という措置自体は、宗教に中立で、一般的なものです。そして、欠席は年に一日だけで、記録も、単に「欠席」と残るだけでした。同じ、中立的・一般的な規制でも、実質的な負担が小さければ、結論は変わります。剣道実技拒否事件のように、留年を重ねたうえでの退学という、極めて重い負担とは、そこが違います。

今日の地図(保存版)

今日の1問への答え=信仰そのものは絶対・行為結社は外に出るので制約されうるが実質的負担があれば間接的な制約として扱う+判例四件の位置づけ一覧(保障の範囲外/正当業務行為/間接的で事実上の支障/裁量逸脱)+次回は国と宗教の距離=政教分離

今日の一問に、答えを出しておきましょう。信じること自体は、絶対に自由です。では、信仰を理由にした例外扱いに、国はどこまで応じるべきか。行為や結社は、外に出て、社会と接触する以上、無条件の絶対では、守れません。でも、実質的な負担があるなら、間接的な制約として、きちんと扱う必要があります。一件目、加持祈祷事件は、他人の生命身体への危害という、保障の範囲そのものの外に出ていた例でした。二件目、牧会活動事件は、保障の範囲に入ったうえで、正当な業務行為として制約を免れた例でした。三件目、オウム真理教解散命令事件は、法人格の解散という措置を介した、間接的で事実上の支障にとどまるとされた例でした。そして、四件目、剣道実技拒否事件は、代替措置という負担軽減の手段を取らなかったことが、裁量権の逸脱とされた例でした。四件目だけは、二十条に違反するかどうかという憲法の枠組みではなく、学校の判断が行き過ぎだったか、という形で決着しています。

そして、剣道実技拒否事件では、もう一つ、宿題を残しました。今日は、個人の自由の側から、この事件を見ました。

参照条文

  • 日本国憲法 20条

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