もう一つの物差しと、政教分離の正体
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第3章 人権各論 ㉚/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
測る道具②——空知太神社事件

まず、事件の中身を、見てみましょう。ある市が、自分の持っている土地を、神社の施設——鳥居や、祠などです——の敷地として、無償で、提供し続けていました。この状態が、政教分離に反するかどうかが、住民訴訟で争われました。財政面から政教分離を支える条文を、もう一度、確認しておきましょう。
条文日本国憲法 89条
日本国憲法 第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
前回は、財布のひもの話として確認しました。今日は、この条文が、実際に、土地の無償提供という場面で、どう働くかを見ます。最高裁は、この事件で、目的効果基準を、使いませんでした。代わりに、こういう物差しを立てています。
⭐ 論文で書く規範:諸般の事情の総合的判断 国公有地の無償提供等が憲法に違反するかどうかは、当該宗教的施設の性格・無償提供に至った経緯・無償提供の態様・これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断する。 (規範(判例型))
二段階で測るのではなく、いくつもの事情を、まとめて一つの物差しにしています。実際の判決文を、見てみましょう。
判例最高裁判所大法廷判決・平成22年1月20日(民集64巻1号1頁・平成19年(行ツ)第260号)
空知太神社事件①——基準の定立(総合的判断) 「国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が……信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」
一つの行為の目的と効果だけでなく、これまでの経緯や、提供のやり方、今の状態そのものを、まるごと見ています。そう思いますよね。でも、違います。最高裁は、こう言っています。
判例最高裁判所大法廷判決・平成22年1月20日(民集64巻1号1頁・平成19年(行ツ)第260号)
空知太神社事件②——「判例変更ではない」 「以上のように解すべきことは、当裁判所の判例(最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁〔津地鎮祭事件〕、最高裁平成4年(行ツ)第156号同9年4月2日大法廷判決・民集51巻4号1673頁〔愛媛玉串料訴訟〕等)の趣旨とするところからも明らかである。」
津地鎮祭事件と、玉串料訴訟——どちらも、目的効果基準を使った判例です。その「趣旨とするところ」から明らかだ、と述べています。目的効果基準も、総合的判断も、行きつく先は同じだ、ということです。国家と宗教の距離が、信教の自由の確保という目的に照らして、行き過ぎていないか——そこを測ろうとしている点では、変わりません。物差しの形が違うだけで、乗り換えたわけではないんです。ここが、今日、いちばん間違えやすいところです。施設の性格は、鳥居や祠——神社の施設そのものです。提供の態様は、対価をとらないまま、長く続いてきました。市の土地が、そういう形で使われ続けている。だから、国家と宗教の距離が、信教の自由の確保という目的に照らして、相当とされる限度を超えている、と評価されたんです。結論としては、この無償提供は、八十九条と、二十条一項後段——宗教団体への特権付与にあたるとして、違憲と判断されました。ただし、施設をすぐに撤去することだけが、唯一の是正方法ではありません。有償の契約に切り替えるといった、合理的な方法も考えられるとして、高等裁判所に、審理が差し戻されています。
無償で提供し続けている状態が、問題の核心でした。裏を返せば、同じ土地の利用でも、きちんと対価を払う形に切り替えれば、この違憲という評価は変わりうる、ということでもあります。
なぜ、基準が二つあるのか

実は、ここは、はっきりした答えが、ありません。学説の間でも、議論があります。よく言われる見方の一つは、こうです。目的効果基準は、一つの行為——地鎮祭を行う、玉串料を支出する、といった、ある時点の行為——の目的と効果を測るのに向いています。一方、総合的判断は、土地を無償で提供し続けている、といった、続いている状態を測るのに向いている、という見方です。たとえるなら、体温計と、総合健診の違いに近いかもしれません。体温計は、今、熱が出ているという、一つの症状を測るのに向いています。総合健診は、いくつもの検査値を組み合わせて、体全体が、今どういう状態にあるかを診ます。行為を測るか、状態を診るか——似たような違いです。
ただ、これも、決定打ではありません。行為と状態、という切り分けだけでは、説明しきれない事案も出てきます。ですから、正直にお伝えします。なぜ二つの物差しがあるのか、はっきりした答えは、まだ無いんです。試験対策としては、事案に応じて、あてはめが書きやすい方の物差しを選べば、十分です。大事なのは、「判例変更ではない」——二つの物差しが、並んで存在している、という理解のほうです。
那覇市孔子廟事件——総合判断の系列

もう一件、同じ系列の判例を見ておきましょう。那覇市が、ある団体に対して、市が持つ都市公園の中に、孔子をまつる、孔子廟という施設の設置を許可し、その公園の使用料を、全額、免除していました。この免除が、政教分離に反するかどうかが、やはり住民訴訟で争われました。最高裁の判断を、見てみましょう。
判例最高裁判所大法廷判決・令和3年2月24日(令和元年(行ツ)第222号・同年(行ヒ)第262号)
那覇市孔子廟事件①——総合的判断の枠組み 「当該宗教的施設の性格、当該免除をすることとした経緯、当該免除に伴う当該国公有地の無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」
空知太で立てた、総合的判断の枠組みが、そのまま使われています。実際に、あてはめた結論は、こうなりました。
判例最高裁判所大法廷判決・令和3年2月24日(令和元年(行ツ)第222号・同年(行ヒ)第262号)
那覇市孔子廟事件②——結論(違憲) 「本件免除は……信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとして、憲法20条3項の禁止する宗教的活動に該当する」
宗教的活動の意味そのものは、前回、逐語で覚えると言った定義——目的が宗教的意義をもち、効果が援助や圧迫になる行為——のままです。変わったのは、測り方です。この判決は、目的と効果の二段階ではなく、いまの総合的判断で測っています。施設の性格、免除に至った経緯、免除の態様、一般人の評価——この四つ全部が、独立に検討されています。中でも重かったのは、施設の宗教的な性格の強さと、優遇の手厚さです。使用料を、一部の減額ではなく、全額免除していました。あわせて見ると、国家と宗教の距離として、相当とされる限度を超えている、と評価されたんです。
目的効果基準ではなく、総合的判断が使われる場面は、こうした、無償での提供や、免除といった、見返りを求めずに利益を与え続ける、便宜供与が問題になる場面に、よく見られます。孔子廟で最高裁が判断したのは、二十条三項だけです。八十九条と二十条一項後段については、判断するまでもない、と述べて、そこには立ち入っていません。物差しは同じでも、この判決が答えたのは、二十条三項の問いだ、ということです。
政教分離の法的性質——制度的保障説と人権説

ここで、少し立ち止まって、政教分離そのものが、法的に何なのかを、確認しておきましょう。そこが、今日、いちばん大事な問いです。判例と、通説は、政教分離を、人権としては扱いません。制度的保障、と解しています。人権の性質を扱った回で、理論そのものは、しっかり確認しました。核心と周辺の区別も、採用するための二つの要件も、あのとき見ています。ただ、政教分離に、実際どう当てはまるかは、「信教の自由の回でじっくり」と、送っていたはずです。制度的保障とは、人権そのものではなく、その人権を支える”仕組み”を、客観的に保障する理論でした。この考え方では、制度の核心部分は、法律の改廃では変えられず、憲法改正が必要になります。でも、核心でない、周辺の部分は、法律でかなり動かせてしまいます。
同じ構造が、政教分離にも、当てはまります。政教分離を、国と国との間に引かれた、柵に例えてみましょう。「国境に、柵がある」という仕組みそのもの——国家と宗教は、分かれているべきだ、という大枠——は、簡単には動かせない、核心部分です。でも、その柵を、実際に、どこに、どれくらいの高さで立てるかは——公金の支出を、どこまで認めるか。公有地の提供を、どこまで認めるか——法律の解釈や、そのときどきの判断で、かなり動かせてしまう、周辺の部分になります。柵そのものは、まだ立っていますから、形のうえでは、政教分離は保たれたことになります。
国家と宗教の結びつきが、かなりの程度、許容されうることになり、少数者の、信教の自由が、かえって害されうる——あのとき立てた評価が、ここで、具体的な姿をとって、立ち現れているんです。条文の文言のうえで、政教分離を、個人の人権として読むのは、無理があるからです。二十条の一項後段や、三項は、「してはならない」と、国の側の行為を禁じる形で、書かれています。個人に、何かを請求する権利を、与える書き方には、なっていません。ただし、これに対して、少数説として、政教分離を人権として捉えるべきだ、という人権説があります。周辺部分が、法律でどんどん動かせてしまうのなら、結局、政教分離は、緩められていく一方ではないか——そういう批判から出てくる立場です。
切り捨てずに、押さえておいてください。ただ、答案の基本線は、判例・通説である、制度的保障説です。制度的保障は、「使えば安心」という理論ではなく、「使われている場面ほど、警戒して読む」理論だ、ということを、政教分離という、具体的な場面で確認できたと思います。ここで、検算しておきましょう。まず一つ目、核心の明確さです。政教分離の核心は、「国家と宗教は、分離されるべきだ」という大枠でした。ここは、ぶれません。二つ目、人権との関係の密接さです。政教分離は、二十条一項前段が保障する、信教の自由を、国家からの介入という角度から支える制度です。関係は、密接だと言えます。
だからこそ、制度的保障という理論を、政教分離に持ち出すこと自体は、正当化されます。問題は、その先——周辺部分が、どこまで動かせてしまうか、というところにあるんです。
裁判でどう争うか——住民訴訟という入口

そこが、次の壁です。裁判所が扱えるのは、原則として、具体的な権利義務をめぐる紛争——法律上の争訟、と呼ばれるものに限られます。この一般論そのものは、司法権の回で、あらためて確認します。制度的保障説に立つ以上、政教分離は、個人の人権そのものではありません。だから、「政教分離に違反している」というだけでは、具体的な権利義務の紛争にならず、原則として、法律上の争訟にあたらないんです。実際、この四件は、すべて、住民訴訟という形で争われています。自治体の財産管理などが適正かどうかを、住民が、自分自身の具体的な権利侵害を示さなくても、争うことができる、特別な訴訟の形です。法律上の争訟にあたらなくても、法律が特別に認めた、いわば例外の入口なんです。
マンションの管理費で考えてみてください。自分の部屋が傷ついたわけではなくても、みんなで出したお金が、おかしな使われ方をしていないかは、住んでいる人なら、誰でも問えますよね。公金や、公有地という、みんなの財布の使われ方も、同じです。住民という立場だけで、裁判の場に乗せられる——それが、この入口です。この入口を使うための要件——どういう条件を満たせば、住民訴訟を起こせるのか——は、司法権の回で、じっくり扱います。今日は、「なぜ、政教分離の事件は、住民訴訟という形で争われているのか」——その理由だけ、持ち帰ってください。
今日の地図(保存版)
図:五つの判例の位置づけ一覧
今日の内容を、一枚の地図に、戻しましょう。今日の一問は、二つありました。最高裁は、なぜ、ある事件で、目的効果基準を使わなかったのか。そして、政教分離とは、法的には、いったい何なのか。空知太神社事件で、最高裁は、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断する、というもう一つの物差しを使いました。ただし、これは判例変更ではありません。目的効果基準も、総合的判断も、行きつく先は同じ——国家と宗教の距離が、行き過ぎていないかを測る、という点で、変わりません。学説でも、はっきりした答えは、まだありません。一回きりの行為を測るのが目的効果基準、続いている状態を測るのが総合的判断、という見方も紹介しましたが、これも決め手ではありません。分からないことは、分からないと、正直にお伝えしました。
判例・通説は、政教分離を、個人の人権としてではなく、制度的保障として扱っています。国家と宗教は分離されるべきだという大枠は動かせない核心ですが、その先——どこまでの関わりを認めるかという周辺部分は、法律の解釈しだいで、かなり動いてしまいます。ここで一度、並べておきましょう。目的効果基準で合憲となったのが、津地鎮祭事件と、前回見た自衛官合祀拒否事件——国の関わりは協力にとどまり、宗教的活動とまではいえない、とされた事件です。同じ物差しで違憲となったのが、愛媛玉串料訴訟。そして、諸般の事情の総合的判断で違憲となったのが、空知太神社事件と、那覇市孔子廟事件です。
結論を丸暗記するのではなく、どちらの物差しを、なぜ使ったのか——そこまで説明できるようにしておいてください。制度的保障だからこそ、住民訴訟という入口が、大事な役割を果たしていました。
図:第3章 精神的自由権その1の全体地図
これで、十九条の思想・良心の自由から、二十条の信教の自由、そして政教分離まで——精神的な自由の柱の、最初のまとまりが、一区切りつきました。次は、少し場所を変えて、学問をする自由を見ていきます。大学の自治という、また別の制度が、登場します。ただ、今日作った「人権そのものか、それを支える制度か」という見方は、次でも、また顔を出します。
参照条文
- 日本国憲法 89条