憲法ゼロから憲法#31

学問の自由と大学の自治——誰の、何を守るのか

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第3章 人権各論 ㉛/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

なぜ、二十三条という独立の条文があるのか

二十三条が独立にある理由=研究の自由は19条に発表の自由は21条1項にすでに含まれる+それでも独立の条文を置いた理由=学問の批判的性質(既存の常識を疑う)ゆえに権力から狙われやすい+明治憲法下で現に弾圧された歴史(滝川事件・天皇機関説事件)

研究する自由は、実は、思想・良心の自由——十九条に、もう含まれています。そして、研究の結果を発表する自由は、表現の自由——二十一条一項に含まれます。普通に考えると、そうですよね。でも、独立の条文が、わざわざ置かれています。理由は、二つあります。一つは、学問という営みの性質です。学問は、既存の常識を疑い、通説をひっくり返すことを、仕事にしています。だからこそ、時の権力にとって、都合が悪くなりやすいんです。もう一つの理由は、実際に、そうした弾圧が起きた歴史があることです。昭和八年、京都大学の滝川幸辰教授という、刑法学の先生がいました。

その学説が、自由主義的すぎるとされ、文部省から休職を命じられています。もう一件、昭和十年には、天皇機関説事件が起きています。天皇を、国家の一機関だとする学説が、「国体」に反する異説だとされました。天皇を中心とした国のあり方、という当時の建前です。代表的な学者だった、美濃部達吉教授の著書は発売禁止となり、あらゆる公職からも追放されています。二件とも、学説が気に入らないという理由で、研究者が地位や発表の場を、奪われた事件です。この歴史があるからこそ、憲法は、学問の自由を独立の条文として、書き込みました。

条文日本国憲法 23条

日本国憲法 第二十三条 学問の自由は、これを保障する

十九条と、同じ「これを」という言い回しで、内容を、まるごと保障する形です。短い条文ですが、この一文の中に、今日見ていく中身が、全部詰まっています。

学問の自由の中身は三つ——同じ強さで並んでいない

学問の自由の3つの中身と制約の強さ(研究の自由=内心にとどまる・19条と同じ強さ/研究結果発表の自由=外部行為・21条と同じ制約/教授の自由=相手のある行為・外へ出るほど制約に服す) 図:学問の自由の3つの中身と制約の強さ

二十三条が守る中身は、大きく三つに分かれます。研究の自由、研究結果を発表する自由、そして、教授の自由です。三つとも同じ強さ、というわけではありません。外へ出る行為ほど、制約に服しやすくなります。研究の自由は、頭の中で考え、調べる段階です。内心にとどまる限り、十九条の思想・良心の自由と、同じ強さで守られます。次に、研究結果を発表する自由。これは外に出る行為ですから、二十一条の表現の自由と同じ制約に服します。最後が、教授の自由です。大学の先生が、教室で学生に教える自由ですね。内心にとどまる研究、外へ出る発表、相手に働きかける教授。外へ出るほど、制約に服する場面が増えていく並びです。この教授の自由、誰にどこまで認められるかが、大きな論点になっています。名前の似た「教育の自由」との混同に、都度注意しながら進めます。

教授の自由は誰のものか——判例が動いた一点

判例変更の分解(ポポロ判旨①=「教育ないし教授の自由は、学問の自由と密接な関係を有するけれども、必ずしもこれに含まれるものではない」/旭川学テで「その結果を教授する自由をも含む」に変更/変更されたのは教授の自由の一点だけで大学の自治・学生の位置づけは生きている) 図:判例変更の分解

大学の先生——教授その他の研究者に、教授の自由が認められることに、争いはありません。問題は、小学校や中学校、高校の先生にも、同じ自由が認められるかです。これは、教育を受ける権利の回で、じっくり論点として扱います。名前だけ、押さえておいてください。この論点は、教師の教育の自由と呼ばれています。似ていますが、別の言葉として区別してください。ここで、一点だけ正確に扱いたいことがあります。実は、教授の自由について、判例が、途中で立場を変えています。今日の主役、東大ポポロ事件は、こう述べていました。教育や教授の自由は、学問の自由と密接な関係はあるが、必ずしも含まれない、と。

ところが、その後の旭川学力テスト事件が、これを改めています。国が実施した学力テストをめぐって、教育の場での自由がどこまで及ぶかが争われた事件です。学問の自由は、研究の自由だけでなく、教授する自由も含む、と述べました。ここは、必ず正確に扱ってください。ポポロ事件の判旨のうち、変更されたのは、この教授の自由の部分だけです。このあと見ていく、大学の自治や学生の位置づけの判断は、変更されていません。今も、生きています。古い判例を、まるごと現在のものとして扱うのは、誤りです。まるごと過去のものとして扱うのも、誤りです。ここを正確に切り分けてください。

研究の自由の限界——原則は、厳格な審査

原則=研究の自由は一般に思想・良心の自由に含まれる+内心は絶対という道具を思い出す+だから研究の自由への制約とりわけ内容規制は原則許されず厳格審査基準が妥当する

教授の自由の主体を、押さえました。ここからは、三つの中身の一つ目——研究の自由に戻って、その限界を見ます。ここで、少し前に扱った、内心は絶対という話を、思い出してください。研究の自由は、頭の中で考え、調べる、という意味を持ちます。一般に、思想・良心の自由に含まれると考えられています。だとすれば、研究の自由に対する制約は、原則として許されないはずです。とりわけ、研究の中身そのものに踏み込む制約は、そうです。たとえば、刑法の学説が自由主義的すぎる、という理由で、大学での職を、いったん奪う。最初に見た、滝川事件が、まさにこの形でした。

だから、中身に踏み込む制約が、いちばん許されにくいんです。答案の言葉で言えば、厳格な審査基準が妥当する、ということになります。目的は必要不可欠、手段は必要最小限度、と国の側に証明させる基準です。そう考えるのが、原則です。ただ、そうだとすると、いちばん厳しいとはいえ「審査」に載せること自体が、おかしくなります。次に、疑ってみましょう。

研究の自由の限界——例外は、先端科学技術

原則(思想良心の自由に含まれるから厳格審査基準)→例外(人間の尊厳を根底から揺るがす先端科学技術の類型は必要最小限の制約もやむを得ないとする見解が有力)の原則例外フロー

ここで、慎重になる必要があります。仮に、人に感染する新しい病原体を、実験室で人工的に作り出す研究があったとします。何の歯止めもなく完全に自由にできるとしたら、どうでしょう。実験室からの一つの漏出事故で、取り返しのつかない被害が社会に及びかねません。ここが、内心の絶対性という道具の、限界です。研究そのものは頭の中の営みでも、それを試す実験行為は外の世界に働きかけます。取り返しのつかない結果を、もたらしうるんです。だから、人間の尊厳を根底から揺るがしかねない、そういう限られた類型に絞ったうえでなら、制約を最小限にとどめる形で認めてよい、とする立場が、有力に唱えられています。

原則は、厳格な審査基準。ただし、限られた類型については、例外的に、必要最小限の制約が許される。この原則と例外の形で、押さえておいてください。研究結果を発表する自由も、外部的な行為である以上、公共の福祉による制約には服します。教授の自由に対する制約は、教育を受ける権利の回で、扱います。

二十三条の二階建て構造——大学の自治という制度

23条の二階建て構造=1階=人権としての学問の自由/2階=制度としての大学の自治+23条は明文で大学の自治と書いていない

もう一度、二十三条の条文を、見てみましょう。「学問の自由は、これを保障する。」——これだけです。「大学の自治」は、条文に一言も出てきません。それでも、学問の中心地である大学の内部行政を大学自身に委ね、外部の干渉を排除する制度が、この条文から読み込まれています。ここで、少し前に確認した理論を、思い出してください。人権そのものではなく、それを支える”仕組み”を、客観的に保障する理論——制度的保障です。理論そのものは、人権の性質を扱った回で確認しました。二つの要件で検算するのは、政教分離に続いて、二回目です。二十三条は、二階建てになっている、とイメージしてください。一階は、人権としての学問の自由。二階は、制度としての大学の自治です。

制度的保障2要件の検算(核心の明確さ=大学の内部行政の自主決定/人権との密接さ=学問の自由そのものを支える/人権の性質を扱った回の警告がここで効く) 図:制度的保障2要件の検算

あのとき確認した、二つの要件で、検算しておきましょう。一つ目、制度の核心が明確であること。大学の自治の核心は、大学の内部行政を、大学自身が決める、その一点です。そこは、動きません。人権との関係が、密接であること。大学の自治は、大学における学問の自由を、支えるための制度です。研究者たちが、外部の干渉を受けずに研究し、教える自由を、支えています。逆に、人事を大学の外が決められるとしたら、どうなるか。自治が無ければ、学問の自由は、その場で崩れます。ここも、じゅうぶん密接だと言えます。だから、大学の自治にも、制度的保障という理論を使うこと自体は、無理のない話です。ただ、政教分離のときと、結論は同じでも、含みが違います。あのときは、制度を守ることで、少数者の信教の自由が、かえって害されうる、という話でした。

この制度は、いったい、誰のために認められているのか。まず、その中身を三つ押さえてから、答えに向かいます。

大学の自治の中身——三つの柱

大学の自治の内容3つ=人事の自治/施設管理の自治/学生管理の自治+ノートでは研究教育の内容方法と予算管理を加えた5つに分ける整理もある

大学の自治の、具体的な中身を見ておきましょう。主なものは、三つです。一つ目、人事の自治。誰を教授として採用し、誰を昇進させるかを、大学が自分で決めます。二つ目、施設管理の自治。大学の建物やキャンパスの使い方を、大学が自分で管理します。三つ目、学生管理の自治。学生の入学や卒業、懲戒処分の扱いを、大学が自分で決めます。整理のしかたによっては、五つに分ける挙げ方もあります。研究教育の内容・方法や、予算管理まで含めた整理です。どちらが正解、というより、人事・施設・学生という中心の三つ。そこに、自主性が広がる、とイメージしておけば十分です。この自治、誰のために認められた制度なのか。実際の事件で、たどっていきましょう。

東大ポポロ事件——事案を追う

東大ポポロ事件の関係図(A=大学公認の学生団体/B=観客を装い会場に潜入した私服警察官/C=大学当局/AがBを発見し身柄拘束・警察手帳を取り上げ・暴行し暴力行為等処罰法違反で起訴/第一審無罪・控訴審無罪・最高裁大法廷が原判決と第一審判決を破棄し差戻し) 図:東大ポポロ事件の関係図

ここでは、記号を使って整理しましょう。大学公認の学生団体をA、潜入していた私服警察官をB、大学当局をCとします。昭和二十七年、二月二十日。東京大学の構内にある教室で、Aが演劇発表会を開いていました。Bは、入場券を買って観客を装い、会場に入り込んでいました。警備公安活動として、学生の動きを探っていましたが、Aの学生たちが、これを見つけてしまいます。学生たちは、Bの身柄を取り押さえ、警察手帳を取り上げました。謝罪文を書かせるなどしたうえ、暴行を加えています。暴力行為等処罰に関する法律違反として、起訴されました。第一審は無罪、控訴審もこれを支持して無罪でした。大学の自治を守るための正当な行為だ、という判断です。

ところが、最高裁大法廷は、この判断を破棄します。原判決と、第一審の判決を破棄して、東京地方裁判所に、審理を差し戻しました。差し戻された後、実際にどう判断されたかは、今日確認できる資料の範囲を超えるため、立ち入りません。最高裁が破棄した理由を、これから判旨を分解しながら、見ていきましょう。

東大ポポロ事件——判旨を四つに分ける

ポポロ判旨4点の分解表(①学問の自由の意味=教授の自由の部分は後に変更/②大学の自治=人事・施設・学生管理にある程度及ぶ/③学生の位置づけ=一般国民と同じ自由は持つが自治の主体ではない/④あてはめ=政治的社会的活動かつ公開集会に準じるので自治を享有しない) 図:ポポロ判旨4点の分解表

最高裁の判旨は、大きく四つに分けられます。まず一つ目、学問の自由とは何かについての、判断です。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和38年5月22日

東大ポポロ事件①——学問の自由の意味 「……学問の自由は、学問的研究の自由とその研究結果の発表の自由とを含むものであつて……教育ないし教授の自由は、学問の自由と密接な関係を有するけれども、必ずしもこれに含まれるものではない。」 「しかし、大学については……学校教育法五二条が『大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究』することを目的とするとしていることとに基づいて、大学において教授その他の研究者がその専門の研究の結果を教授する自由は、これを保障されると解するのを相当とする。」

「必ずしもこれに含まれるものではない」という言い方は、旭川学力テスト事件で改められています。ただ、大学の教授その他の研究者については、この判決自身が、学校教育法五二条を根拠に、教授する自由を認めています。五十二条というのは、判決が出た当時の条文番号です。今の学校教育法では、同じ内容が八十三条に置かれています。判決を引用するときは五十二条のまま、現行法として語るときは八十三条。このように、使い分けてください。二つ目、大学の自治についての判断です。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和38年5月22日

東大ポポロ事件②——大学の自治 「大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている。この自治は、とくに大学の教授その他の研究者の人事に関して認められ……また、大学の施設と学生の管理についてもある程度で認められ……」

この判決が、大学の自治の内容を、まさにこの形で示しています。三つ目が、今日、いちばん大事な部分です。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和38年5月22日

東大ポポロ事件③——学生の位置づけ 「もとより、憲法二三条の学問の自由は、学生も一般の国民と同じように享有する。しかし、大学の学生としてそれ以上に学問の自由を享有し、また大学当局の自治的管理による施設を利用できるのは、大学の本質に基づき、大学の教授その他の研究者の有する特別な学問の自由と自治の効果としてである。」 「大学における学生の集会も、右の範囲において自由と自治を認められるものであつて、大学の公認した学内団体であるとか、大学の許可した学内集会であるとかいうことのみによつて、特別な自由と自治を享有するものではない。」

ここは、次でもう一度正確に整理します。四つ目、実際のあてはめです。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和38年5月22日

東大ポポロ事件④——あてはめ(結論) 本件集会は、反植民地闘争デーの一環として行われ、松川事件に取材した演劇・資金カンパ・渋谷事件の報告等を含むものであって、「実社会の政治的社会的活動」にあたる。また、入場券を発行して一般の公衆の入場を許していたことから、「公開の集会またはこれに準じるもの」であった。 「したがつて、本件の集会に警察官が立ち入つたことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない。」

政治的な社会運動の性格を帯び、しかも一般公衆に開かれた集会だった。だから、大学の学問の自由と自治が及ぶ範囲の外にある、と判断されました。警察官が立ち入っても、自治を侵したことにはならない、という結論です。守られる範囲には、境界があります。ここを、正確に整理していきましょう。

学生が持つもの、持たないもの——ここが核心

学生の弁別板=一般国民と同じ23条の自由=持つ/大学の自治の主体としての地位=持たない/施設利用等は教授らの自治の効果として

判旨は、はっきり、こう言っています。「もとより、憲法二三条の学問の自由は、学生も一般の国民と同じように享有する。」ここは、絶対に取り違えないでください。学生に、学問の自由が無い、ということでは、まったくありません。一般の国民と同じ立場で、しっかり持っています。しかし、続きがあります。大学の学生としてそれ以上に学問の自由を享有し、施設を利用できるのは、教授その他の研究者の有する、特別な学問の自由と自治の効果としてです。大学の自治という制度そのものの主体は、教授その他の研究者です。学生は、その制度の中で、施設を使わせてもらったり、集会を開いたりします。ただ、それは制度の主体としての権利ではなく、主体である研究者たちの自治の、いわば波及効果なんです。たとえてみましょう。ある研究室を、想像してください。所長や研究員たちが、誰を新しく迎えるか、どんな設備を入れるかを、自分たちで決めています。これが、自治です。

そこに所属して学ぼうとする学生も、実験室に入って学ぶことができます。ただ、それは、所長や研究員たちが、運営方針として認めているから、できることです。学ぶ権利そのものは、学生にもある。でも、研究室という制度をどう運営するか決める側、つまり自治の主体には、入っていません。ここで、少し前に確認した警告を、思い出してください。制度を守ることと、その中身の充実を守ることは、別だ、という話です。大学の自治という制度が、しっかり守られていても、それは、学生という立場の充実まで、自動的に約束してくれるわけではありません。制度が守っているのは、あくまで、教授その他の研究者による、自主的な運営です。だから、学生の集会が、大学の自治の傘の下に入るのは、それが学問的な研究や、その発表のためのものである限度に、とどまります。政治的な社会運動として、外部に開かれてしまえば、傘の外に出てしまうんです。

大学の自治という制度が、そもそも何のために認められたかを、思い出してください。学問の中心地である大学が、外部の権力に介入されずに、自主的に運営される。その自主性を担っているのは、実際に研究し、教えている、教授その他の研究者です。制度は、その担い手を守ることで、学問という営みそのものを、守ろうとしているんです。「守られているのは誰か」——今日の一問の答えは、ここにあります。学問の自由という人権は、学生も含めた、みんなのもの。でも、大学の自治という制度の主体は、教授その他の研究者。学生は、制度の外にいるのではなく、制度の中にいながら、主体ではない立ち位置にいます。

警察と大学——治外法権ではない

警察と大学の場合分けフロー(①犯罪捜査=令状に基づけば可・大学関係者の立会いが必要と解される/②大学の要請=大学が援助を求めれば可・独自判断での立入は不可/③公安活動=大学の了解なしの立入は原則許されない/いずれも判例ではなく学説の整理) 図:警察と大学の場合分けフロー

施設管理の自治との関係で、もう一つ、大事な問題があります。警察は、大学の構内に、立ち入れるのか、という問題です。大学の自治が認められているといっても、大学が治外法権になっているわけではありません。ここから先は、判例が決めたルールではなく、学説による整理です。ポポロ事件自身は、これから話す場合分けを、判示していません。場合分けは、大きく三つです。一つ目、犯罪捜査。裁判官の令状など、適法な要件を備えていれば、警察は構内に立ち入ることができる、と考えられています。大学の実験室から高価な機材が盗まれ、令状に基づいて警察が学内を捜索する場面です。ただし、思想調査のような公安活動の隠れ蓑にならないよう、大学関係者の立会いが必要だ、と考えられています。二つ目、大学の要請。大学構内で不法行為が起き、大学自身が警察力の援助を求めれば、立ち入りが認められます。

見知らぬ人物が学内に侵入し、大学が気づいて自ら通報し、立ち入りを求める場合です。逆に、要請もないのに警察が独自の判断で立ち入るのは、自治の趣旨に反して許されません。三つ目、公安活動。将来の犯罪発生に備えた、警察の情報収集活動ですね。大学の了解なしの立ち入りは、原則として許されません。そうした情報収集こそ、三つ目の型にあたります。この三つは、大学の自治を正面から否定するものではありません。自治は、大学の自主的な運営を守る制度であって、構内で起きたことすべてを、警察から遮断する制度ではありません。ポポロ事件で言えたのは、あの事件で警察官が立ち入ったこと自体は、自治を侵さなかった、という限度です。三類型は、その後の学説が、場合分けとして整理したものだ、と理解しておいてください。

今日の地図(保存版)

まとめ=23条の二階建て構造の再確認(1階=人権としての学問の自由/2階=制度としての大学の自治)+今日の一問への答え+19条→20条→23条を1枚に+次章=表現の自由への橋

今日の内容を、一枚の地図に、戻しましょう。今日の一問は、これでした。二十三条は、学問の自由という人権のほかに、大学の自治という制度まで守っている。では、その制度は誰のためのもので、守られているのは誰なのか。二十三条は、二階建てです。一階は、人権としての学問の自由——研究の自由、発表の自由、そして教授の自由。これは、学生も含めた、一般の国民が、同じように持っています。二階は、制度としての大学の自治。人事、施設管理、学生管理という柱を中心に、大学の内部行政を大学自身が決める仕組みです。この制度の主体は、教授その他の研究者です。

学生も、一階の人権は、確かに持っています。でも、二階の主体ではありません。施設を使えたり、集会を開いたりするのは、教授らの自治が効果として及んでいるからです。ポポロ事件は、その境界を、正面から示した判例でした。あわせて、教授の自由の判例変更や、研究の自由の原則と例外、警察と大学の場合分けも、確認しましたね。これで、十九条の思想・良心の自由から、二十条の信教の自由、そして、二十三条の学問の自由まで——精神的な自由の柱、最初のまとまりが、出そろいました。次は、場所を移して、外に向かって発信する自由——表現の自由を見ていきます。

ただ、今日確認した、「人権としての側面と、それを支える制度としての側面」という見方は、次でも、また、姿を変えて出てきます。

参照条文

  • 日本国憲法 23条

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