憲法ゼロから憲法#32

表現の自由——なぜ特別に守られ、どこまでが「表現」なのか

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第3章 人権各論 ㉜/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

表現の自由は、なぜ特別扱いされるのか——優越的地位の入口

21条1項の広い保障(集会・結社・言論・出版・その他一切の表現の自由)+表現の自由は他の人権より一段強く守られる「優越的地位」を持つとされる 図:21条1項の広い保障

  • 集会・結社・言論・出版・その他一切の表現の自由
  • 表現の自由は他の人権より一段強く守られる「優越的地位」を持つとされる

まず、条文を確認しましょう。

条文日本国憲法 21条1項

日本国憲法 第二十一条一項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する

しかも「その他一切」と続きます。かなり広い保障です。この表現の自由、実は、他の人権よりも、一段強く守られる、と言われています。「優越的地位」と呼ばれる考え方です。順位というより、他の人権を制約するときより、表現の自由を制約するときのほうが、裁判所は厳しい目で見る、というイメージです。そこが、今日の核心です。理由を、順に見ていきましょう。

なぜ手厚いのか——表現の自由が持つ「価値」

表現の自由が持つ価値の層(自己実現の価値=個人の人格発展/自己統治の価値=政治的意思決定への関与/思想の自由市場=自由な競争で真理に近づく)+あらゆる表現が自己統治の価値を持つわけではない=純然たる芸術表現は自己実現のみ+前回の橋=自己実現は個人の人権としての側面・自己統治と思想の自由市場は民主主義という仕組みを支える側面 図:表現の自由が持つ価値の層

  • 自己実現の価値=個人の人格発展
  • 自己統治の価値=政治的意思決定への関与
  • 思想の自由市場=自由な競争で真理に近づく
  • あらゆる表現が自己統治の価値を持つわけではない=純然たる芸術表現は自己実現のみ
  • 前回の橋=自己実現は個人の人権としての側面・自己統治と思想の自由市場は民主主義という仕組みを支える側面

表現の自由が特別に守られる理由を、大きく二つの層に分けて見ていきます。一つは、表現の自由が持つ、価値の層。もう一つは、あとで見る、壊れやすさという性質の層です。まず、価値の層から。代表的に挙げられるのが、自己実現の価値、自己統治の価値、そして思想の自由市場です。自己実現の価値は、表現する活動を通じて、自分自身の人格を発展させていく価値です。絵を描く、文章を書く、意見を言う、といった営みですね。次に、自己統治の価値。表現する活動を通じて、国民が政治的な意思決定に、関わっていく価値です。選挙の前に、候補者の政策を批判したり、支持したりする。これが自己統治の価値です。

最後に、思想の自由市場という考え方。いろいろな意見を自由にぶつけ合う競争の中で、正しい考えが生き残り、真理に近づいていける、という発想です。アメリカで発展したとされる、学説上の考え方です。たとえば、子どもの育て方について、正反対のことを言う人が、両方あらわれる。聞いた人は、二つを見比べて、どちらが筋が通っているかを、自分で選べます。根拠の弱い主張は、反論にさらされて、力を失っていく。この動きのことです。ここで、一つ、注意してほしいことがあります。あらゆる表現が、自己統治の価値を持つわけではありません。

たとえば、選挙の争点について、街頭で意見を述べる。これは、自己統治の価値を、はっきり持ちます。一方で、政治的な主張を一切含まない、純粋な風景画を描いて発表する。これは、自己実現の価値はありますが、自己統治の価値は、通常ありません。「表現の自由だから自己実現と自己統治」とセットで覚えるのは、正確ではありません。この区別、あとで、もう一度効いてきます。覚えておいてください。ここで、前回の宿題も、回収しておきましょう。前回、人権としての側面と、それを支える制度としての側面という見方が、また姿を変えて出てくる、とお伝えしました。自己実現の価値は、個人の人権としての側面。自己統治の価値と、思想の自由市場は、民主主義という仕組みを支える側面、と整理できます。

もう一つの理由——表現の自由という権利の「壊れ方」

性質の層=萎縮効果(規制されるという威嚇を受けただけで表現行為が縮む)+価値(何を守るか)と性質(どう壊れるか)の区別+萎縮効果は話し手本人だけでなく今しゃべっていない人まで黙らせる=個人でなく仕組みに及ぶ害 図:性質の層

  • 萎縮効果(規制されるという威嚇を受けただけで表現行為が縮む)
  • 価値(何を守るか)と性質(どう壊れるか)の区別
  • 萎縮効果は話し手本人だけでなく今しゃべっていない人まで黙らせる=個人でなく仕組みに及ぶ害

次は、性質の層です。表現の自由には、萎縮効果という壊れ方があります。法律の言葉は明確でなければならない、という話をした回で、あいまいな規制が起こすものとして、名前が出ました。規制されるかもしれない、という威嚇を受けただけで、実際には問題のない表現まで、話し手が自分から控えてしまう。これが萎縮効果です。町内会の掲示板を、想像してください。ある人の貼り紙が、理由がはっきりしないまま、撤去されたとします。すると、ほかの住民たちは、本当は問題のない意見表示まで、貼るのをやめてしまいます。ここで、大事な区別をしておきます。価値の層は、表現の自由が「何を守っているか」という話でした。性質の層は、表現の自由という権利が「どう壊れるか」という話です。

この区別、あとで、もう一度使います。最後に、もう一つ、前回の見方を重ねておきましょう。萎縮効果は、実際に発言した人だけでなく、今、まだ何も言っていない人まで、黙らせてしまいます。害が、特定の個人にとどまらず、社会全体の議論という仕組みにまで、及んでしまう。これも、前回の見方と、重なりますね。

二重の基準の、いちばん下にある石

二重の基準論の根っこ(精神的自由は厳格に/経済的自由は緩やかに)+二つの論拠のうち一つが民主的政治過程論+その根っこにあるのが自己統治の価値+ここでは再確認だけで再演しない 図:二重の基準論の根っこ

  • 精神的自由は厳格に
  • 経済的自由は緩やかに
  • 二つの論拠のうち一つが民主的政治過程論
  • その根っこにあるのが自己統治の価値
  • ここでは再確認だけで再演しない

ここで、物差しの使い分けを見た回の、二重の基準論を思い出してください。あの使い分けの論拠は、二つありました。その一つが、民主的政治過程論です。精神的自由が傷つくと、民主政治のプロセス自体が壊れてしまう。あとから選挙で回復するのも、難しくなる、という理屈です。今日は、ここで、再演はしません。ただ、一点だけ。あの理屈の、いちばん下にある石が、実は、この自己統治の価値なんです。表現の自由が特に厚く守られる理由と、二重の基準論の根拠が、同じ場所でつながっています。

「保障範囲」という問いを立てる——入口と出口は別

21条の保障範囲=「表現の自由の内容」(内心の精神活動を外部に公表する全ての活動・方法は全ての表現媒体に及ぶ)+入口(21条に含まれるか)と出口(規制してよいか)は別問題+入口で外れると出口の審査にすら乗らない 図:21条の保障範囲

  • 「表現の自由の内容」(内心の精神活動を外部に公表する全ての活動・方法は全ての表現媒体に及ぶ)
  • 入口(21条に含まれるか)と出口(規制してよいか)は別問題
  • 入口で外れると出口の審査にすら乗らない

ここで、今日いちばん大事な区別を、立てておきます。二十一条の保障範囲を考えるとき、実は、二つの別々の問いがあります。一つ目、その表現が、そもそも二十一条で守られるか。入口の問いです。二つ目、その表現を、国が規制してよいか。出口の問いです。この二つ、必ず切り分けてください。プライバシー権の定義を見た回で、入口に入ることと実際に守られることは別だ、と一度だけ顔を出した形です。今日は、これを正面から立てます。入口で外れてしまうと、その表現は、憲法の議論にすら、乗りません。二十一条の話として、規制の当否を、裁判所に審査してもらうことすら、できなくなる、ということです。逆に、入口を通っても、出口で規制されることは、あります。さっきの、選挙前に街頭で政策を批判する、という例で考えてください。これは入口を通ります。では、真夜中に、大音量でもよいのか。これが出口の問いです。

ここで、範囲の物差しを、一つ確認しておきましょう。表現の自由の内容は、内心の精神活動を、外部に公表する全ての活動に、及びます。方法についても、口頭、文書、映像など、あらゆる表現媒体に、及ぶと考えられています。「これは表現か」を判定するときは、この広い物差しを、まず当ててみてください。この後、三つの疑わしい表現が、出てきます。儲けるための広告、言葉によらない行動、そして、わいせつな表現です。三つ目が、冒頭で触れた、過激な内容の本にあたります。答えを急がず、一つずつ、入口と出口の両方を、確かめていきましょう。まず、広告からです。

一つ目の疑い——「儲けるための広告」は表現か

営利広告の位置づけ(精神的自由=21条か経済的自由=22条かという問い)+含める理由=消費者への情報提供・自律的選択を促す・知る権利に奉仕+ただし扱いは違う理由=自己統治の価値がない・虚偽誇大に流れやすい・真偽の判定が容易・萎縮しにくい 図:営利広告の位置づけ

  • 精神的自由=21条か経済的自由=22条かという問い
  • 含める理由=消費者への情報提供・自律的選択を促す・知る権利に奉仕
  • ただし扱いは違う理由=自己統治の価値がない・虚偽誇大に流れやすい・真偽の判定が容易・萎縮しにくい

まず一つ目の疑いです。パン屋さんが、「国産小麦百パーセント」という看板を、店先に出したとします。この広告、表現の自由で守られるんでしょうか。それとも、単なる経済活動でしょうか。精神的自由か、経済的自由か。どちらとみなすか、という問いです。結論から言うと、通説は、営利広告も、二十一条一項の「表現」に含める、と考えます。理由は、消費者に情報を提供し、その自律的な選択を、後押しするからです。どのお店に、どんな品質の商品があるのか。広告は、それを知る材料になります。国民が必要な情報を得る権利——知る権利に、奉仕する、という理由づけです。

中身は、報道や取材の自由を扱う回で、じっくり見ます。今日は、広告が知る権利に奉仕する、という筋だけ、押さえておいてください。さて、営利広告は、入口では、表現に含まれます。ただし、ここからが大事です。含め方は同じでも、扱いは、他の表現と同じではありません。儲けを目的にした広告は、通常、自己統治の価値を持ちません。選挙や政治とは、関係ない場面がほとんどですから。営利広告も、純粋な風景画と、同じ構造です。もう一つ。「国産小麦百パーセント」が本当かどうかは、原材料の表示などで、比較的簡単に確かめられます。政治的な意見の真偽を判定するより、真偽の判定が、しやすいんです。さらに、虚偽や誇大な表現に、流れやすい、という事情もあります。そして、規制されても、萎縮しにくい。営利という強い動機があるからです。

広告は、規制されても、また別の言い方で、宣伝を続けようとします。こうした特徴があるので、営利広告への規制は、他の表現より、ゆるやかな審査になじみます。二重の基準の根っこにあった自己統治の価値が、ここで効いています。入れる、入れない、の二択ではなく、入れるけれど扱いが違う、という第三の答えです。

二つ目の疑い——言葉によらない「行動」は表現か

象徴的言論(言葉によらず行動で主張を外に出す行為)+含める要件=意見表明のために行われ、受け手もそう理解している場合+なぜ受け手の理解が要るか=理解されないと単なる行動で伝達になっていない 図:象徴的言論

  • 言葉によらず行動で主張を外に出す行為
  • 含める要件=意見表明のために行われ、受け手もそう理解している場合
  • なぜ受け手の理解が要るか=理解されないと単なる行動で伝達になっていない

二つ目の疑いです。言葉を、まったく使わない場合は、どうでしょう。たとえば、ある政策に抗議する意思表示として、集会に集まった人たちが、無言のまま、同じ色の服をそろえて並ぶ。こうした、言葉によらず、行動で主張を外に出す表現を、象徴的言論と呼びます。これも、表現に含まれるんでしょうか。通説は、二つの条件がそろえば、これも表現に含める、と考えます。一つ、その行動が、意見表明のために行われていること。二つ、受け手も、それを意見表明だと理解していること。表現というのは、送り手から受け手への、伝達です。受け手が、何のメッセージだとも理解しなければ、それは伝達になっていません。単に、行動しているだけ、ということになってしまいます。先ほどの例に、戻りましょう。抗議の意図を持って、集会で、みんなが同じ色の服をそろえて並ぶ。周りの人も、その色をきっかけに、何かを訴えていると理解する。この場合は、二つの条件を、どちらも満たします。

一方で、たまたま同じ色の服を着ていた人が、たまたま近くに集まっていたら、どうでしょう。本人にも訴える意図がなく、周りも、何かの主張だとは理解しない。この場合は、単なる行動であって、表現とは言えません。一定の要件を満たせば、この行動も、入口では、表現に含まれます。どこまで規制できるかという、出口の話は、規制の種類ごとの回で、扱います。今日は、名前だけ、押さえておいてください。次は、今日いちばんの山場です。

三つ目の疑い——わいせつ表現は表現か・無価値表現論の否定

刑法175条(わいせつ物頒布等罪・現行は拘禁刑)+無価値表現論=わいせつ表現は無価値表現だから保障範囲の外という見解がかつて有力+捨てられた理由=①法律の解釈が憲法の保障範囲を決めることになる転倒(最高法規性)②萎縮効果の再登場 図:刑法175条

  • わいせつ物頒布等罪・現行は拘禁刑
  • 無価値表現論=わいせつ表現は無価値表現だから保障範囲の外という見解がかつて有力
  • 捨てられた理由=①法律の解釈が憲法の保障範囲を決めることになる転倒(最高法規性)②萎縮効果の再登場

三つ目の疑いです。ここが、今日いちばんの山場です。わが国の刑法は、明治の時代から、わいせつな文書などを配ることを、処罰してきました。

条文刑法 175条

刑法 第百七十五条 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の拘禁刑若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は拘禁刑及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。

この歴史があるからこそ、かつては、こう考える見解が、有力でした。わいせつな表現は、無価値な表現だから、そもそも二十一条の保障範囲の外にある、という考え方です。無価値表現論と呼ばれます。しかし、この考え方は、今では、否定されています。理由は、二つあります。一つ目。この考え方だと、法律が処罰しているという理由だけで、憲法の保障の外に、置かれてしまいます。憲法とは何かを見た回で確認した、憲法は国の法秩序の中でいちばん強い法、という話を、思い出してください。憲法の保障範囲を決めるのは、憲法自身のはずです。それなのに、下にあるはずの法律の規定や解釈が、憲法の範囲を、勝手に決めてしまう。これは、上下が、逆転しています。たとえば、国会が、「わいせつ」にあたる範囲を広げる法律を作ったとします。無価値表現論のままだと、広げた分だけ、二十一条の守りが、後ろに下がります。

理由の二つ目は、萎縮効果です。わいせつという理由で、法律の外に置かれてしまうと、本来なら保障されるべき、際どい表現まで、発表をためらってしまいます。芸術や、文学の表現には、性を扱うものも、少なくありません。この二つの理由から、わいせつ表現も、入口では、二十一条の「表現」に含める、というのが、今の到達点です。ただし、だからといって、わいせつ物を配る自由が、無制限に認められるわけではありません。

代わりに何をするか——定義づけ衡量論という道具

定義づけ衡量論(保障範囲には入れたまま出口のほうを厳格に定義づける)+わいせつの定義を表現の自由と保護法益の調整をはかりながら絞る+入口を狭めるのでなく出口の網の目を細かく定義するという発想 図:定義づけ衡量論

  • 保障範囲には入れたまま出口のほうを厳格に定義づける
  • わいせつの定義を表現の自由と保護法益の調整をはかりながら絞る
  • 入口を狭めるのでなく出口の網の目を細かく定義するという発想

折り合いのつけ方は、こうです。わいせつな表現も、保障範囲——入口には、入れたままにします。その代わり、出口のほうを、精密にします。刑法百七十五条の「わいせつ」という概念を、表現の自由を尊重しながら、守るべき利益との調整をはかりつつ、厳格に定義づけていく。この考え方を、定義づけ衡量論と呼びます。目の粗いふるいを、思い浮かべてください。目が粗いと、本来なら残したいものまで、こぼれ落ちてしまいます。目を、うんと細かく作れば、本当に取り除くべきものだけを、すくい取れます。「入口を狭める」のではなく、「出口の網の目を、細かく定義する」。これが、この先ずっと使う道具です。

では、実際にこの道具が使われた、四つの判例を、見ていきましょう。

わいせつ判例、前半——出発点と、最初の変化

わいせつ判例の出発点と最初の変化(チャタレイ事件=わいせつ文書の定義を示し刑法175条を公共の福祉のための制約として合憲)+悪徳の栄え事件=芸術性・思想性が性的刺激を緩和しうると認め文書全体との関連で判断+ただし結論はわいせつ性を肯定 図:わいせつ判例の出発点と最初の変化

  • チャタレイ事件=わいせつ文書の定義を示し刑法175条を公共の福祉のための制約として合憲
  • 悪徳の栄え事件=芸術性・思想性が性的刺激を緩和しうると認め文書全体との関連で判断
  • ただし結論はわいせつ性を肯定

最初の事件です。ある文学作品の翻訳を出版した人が、わいせつ物頒布の罪に、問われました。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和32年3月13日

チャタレイ事件——わいせつ文書の定義 「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」 刑法百七十五条は、「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなす」という趣旨で、合憲と判断された。

この判決が、わいせつ文書の定義を示し、この後の出発点になりました。合憲の理由にも、注目してください。公共の福祉は、人権どうしがぶつかったときに調整をはかる、実質的公平の原理——人権の限界を見た回で、そう確認しましたね。この判決の「公共の福祉」の使い方は、当時の最高裁が述べたもので、その理解と、そのまま同じ意味とは、限りません。時代によって、言葉の使われ方は、変わります。時制を、分けて考えてください。さて、この判決の結論は、上告棄却。有罪が、確定しました。この定義が、その後の判例でも、繰り返し使われていきます。次の事件です。ある小説の翻訳を出版した人が、同じく、わいせつ物頒布の罪に、問われました。

判例最高裁判所大法廷判決・昭和44年10月15日

「悪徳の栄え」事件——芸術性・思想性は考慮できるのか 文書の芸術性・思想性は、「文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」が、その程度に至らない限り、猥褻の文書としての取扱いを免れない。 わいせつ性の判断は、特定の章句だけでなく、「文書全体との関連において判断されなければならない」。

少し前に確認した弁別を、思い出してください。純粋な風景画のような表現には、自己統治の価値は、通常ない、という話でした。価値がまったくない、というわけではありません。自己統治の価値はなくても、自己実現の価値は、残っています。だから芸術性は、切り捨てる理由ではなく、わいせつ性を量るときの、要素の一つになります。この判決も、芸術性・思想性が、性的刺激を和らげる方向に、働きうると認めています。わいせつ性の判断を、章句の一部だけでなく、文書全体との関連で、行うべきだという枠組みも、示しました。無罪には、なっていません。ここが、正確に押さえてほしいところです。結論は、やはり、上告棄却。わいせつ性は、肯定されました。

芸術性・思想性による緩和が、刑法が処罰する程度を、下回るところまでは、認められなかった、ということです。判断のしかたが変わっても、結論が動くとは限らない。ここは、暗記だけで済ませず、正確に押さえてください。

わいせつ判例、後半——具体化と、初めて動いた結論

わいせつ判例の具体化と結論の転換(四畳半襖の下張事件=考慮要素を列挙し全体としてみたときの好色的興味で判断するが結論は肯定)+第2次メイプルソープ事件=同じ判断枠組みで初めて該当しないという結論+ただし刑事事件でなく関税定率法の行政事件 図:わいせつ判例の具体化と結論の転換

  • 四畳半襖の下張事件=考慮要素を列挙し全体としてみたときの好色的興味で判断するが結論は肯定
  • 第2次メイプルソープ事件=同じ判断枠組みで初めて該当しないという結論
  • ただし刑事事件でなく関税定率法の行政事件

三つ目の事件です。ある小説の一部を雑誌に掲載した人たちが、わいせつ物頒布の罪に、問われました。

判例最高裁判所第二小法廷判決・昭和55年11月28日

「四畳半襖の下張」事件——考慮要素をさらに具体化 「文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、 さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり」

描写の程度、文書全体に占める比重、思想との関連性、構成、そして芸術性による緩和の程度。考慮すべき要素を、より具体的に、並べています。それでも、結論は、上告棄却。またしても、わいせつ性が、肯定されました。判断の枠組みが、精密になっても、結論は、なかなか動きません。では、四件目です。ある写真集を、国内に持ち込もうとした人が、税関で、止められました。ここは、慎重に見ていく必要があります。

写真集を輸入しようとした場面(A=写真集を国内に持ち込もうとした人/B=税関当局/BがAに対し輸入禁制品(当時の関税定率法21条1項4号)該当を通知/現行では関税法69条の11第1項7号/Aが通知の取消しと国家賠償を求めて出訴=行政事件で刑事事件ではない) 図:写真集を輸入しようとした場面

  • A=写真集を国内に持ち込もうとした人
  • B=税関当局
  • BがAに対し輸入禁制品(当時の関税定率法21条1項4号)該当を通知
  • 現行では関税法69条の11第1項7号
  • Aが通知の取消しと国家賠償を求めて出訴=行政事件で刑事事件ではない

Aさんが、写真集を持って、国内に戻ってきたとします。税関のBが、この写真集を、輸入してはいけない物にあたる、と通知しました。Aさんは、この通知の取り消しと、国家賠償を求めて、裁判を起こしました。刑事事件ではなく、行政事件です。

判例最高裁判所第三小法廷判決・平成20年2月19日

第2次メイプルソープ事件——初めて「該当しない」 「本件写真集における芸術性など性的刺激を緩和させる要素の存在、本件各写真の本件写真集全体に占める比重、その表現手法等の観点から写真集を全体としてみたときには、 本件写真集が主として見る者の好色的興味に訴えるものと認めることは困難といわざるを得ない」として、輸入禁制品には該当しないと判断された。

そこが、今日いちばん、間違えやすい場所です。この事件、実は、刑事事件ではありません。写真集を持ち込んだ人を処罰するかどうかの裁判ではなく、税関の通知を取り消すかどうかを争った、行政事件です。「最高裁がわいせつでないと判断した」と、一般化しては、いけません。判断の対象は、あくまで、関税の輸入規制にあたるか、という点でした。この違いは、必ず正確に扱ってください。この判決が引用している条文は、当時の法律のものです。今は、法律の名前も、条文の番号も、変わっています。そのうえで、注目してほしいのは、判断の枠組みです。芸術性による緩和、写真集全体に占める比重、表現手法。四畳半襖の下張事件と、同じ観点を使っています。事件の種類は違う。でも、わいせつかどうかを量る観点は、同じ。ここを分けて見てください。

わいせつ4判例の変遷表(チャタレイ=わいせつの定義を示した出発点/悪徳の栄え=文書全体との関連という枠組みと芸術性・思想性の考慮を認めるが結論は肯定/四畳半襖の下張=考慮要素をさらに具体化するが結論は肯定/メイプルソープ=同じ枠組みのもとで初めて結論が否定・行政事件) 図:わいせつ4判例の変遷表

  • チャタレイ=わいせつの定義を示した出発点
  • 悪徳の栄え=文書全体との関連という枠組みと芸術性・思想性の考慮を認めるが結論は肯定
  • 四畳半襖の下張=考慮要素をさらに具体化するが結論は肯定
  • メイプルソープ=同じ枠組みのもとで初めて結論が否定・行政事件

ここで、四件をまとめて、振り返ってみましょう。チャタレイ事件は、わいせつ文書の定義を示した、出発点でした。悪徳の栄え事件で、文書全体との関連で判断するという枠組みと、芸術性・思想性の考慮が、認められました。四畳半襖の下張事件で、その考慮要素が、さらに具体的になりました。そして、メイプルソープ事件で、同じ枠組みのもとで、初めて結論が動きました。そう見えるかもしれませんが、それは、正確ではありません。一部だけを切り出して見る判断から、全体を見る判断へと、判断のしかたが、動いていった。それが、この流れの実体です。そして、判断のしかたが変わっても、三つ続けて、結論は肯定のままでした。

その積み重ねの先に、初めて結論が動いた。ここが、暗記で終わらせてほしくない部分です。動いた決め手は、この写真集の中身のほうにあります。前の三つと同じ観点で量ったところ、緩和させる要素のほうが、勝ちました。三つの判例で積み上げた観点が、その違いを測れる形にしていました。そこまで、押さえておいてください。

今日の地図(保存版)

まとめ=今日の1問の答え(価値の層と性質の層ゆえに手厚く保護され、営利広告・象徴的言論・わいせつ表現のような疑わしいものにも入口では及ぶがただし出口の扱いは同じでない)+次回への橋=入れたうえで他人の権利とどう折り合いをつけるか 図:まとめ

  • 今日の1問の答え(価値の層と性質の層ゆえに手厚く保護され、営利広告・象徴的言論・わいせつ表現のような疑わしいものにも入口では及ぶがただし出口の扱いは同じでない)
  • 次回への橋=入れたうえで他人の権利とどう折り合いをつけるか

今日の内容を、一枚の地図に、戻しましょう。今日の一問は、これでした。表現の自由は、なぜ他の人権より、手厚く守られるのか。そして、その手厚い保護は、「これも表現なのか」と疑われるものにまで、及ぶのか。手厚く守られる理由は、二つの層でした。自己実現、自己統治、思想の自由市場という、価値の層。そして、規制の威嚇だけで縮んでしまう、萎縮効果という、性質の層です。この二つの層があるからこそ、表現の自由は、特に厚く守られます。そして、その保護は、営利広告、象徴的言論、わいせつ表現のように、疑わしいものにも、及びます。

ただし、出口での扱いは、同じではありません。営利広告には、緩和された審査がなじみ、わいせつ表現には、定義づけ衡量論という道具で、精密な線引きが、試みられてきました。今日見た、無価値表現論を捨てた理由——法律が憲法の範囲を決めてしまう転倒と、萎縮効果。この形は、実は、この先の回でも、また出てきます。ただ、今日は、ここまでにしておきます。表現は、入口では、幅広く含まれる。今日、繰り返し確認しましたね。では、入れたうえで、他人の権利と、どう折り合いをつけるのか。名誉を傷つける表現、プライバシーを侵す表現。そうしたものと、どう調整するのか、という問題です。

参照条文

  • 日本国憲法 21条1項
  • 刑法 175条

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