憲法ゼロから憲法#37

知る権利とアクセス権——21条は「言う自由」だけの条文か

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第3章 人権各論 ㊲/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

21条1項に書いてあるのは「言う自由」だけ

21条1項の文言構造(保障されているのは送り手の自由だけ)+自前の講演設例の対比(話す自由=21条にある/聞く自由・後で読み返す自由=文言上どこにも書いていない) 図:21条1項の文言構造

  • 保障されているのは送り手の自由だけ
  • 自前の講演設例の対比(話す自由=21条にある/聞く自由・後で読み返す自由=文言上どこにも書いていない)

まず、条文を確認しましょう。

条文日本国憲法 21条1項

日本国憲法 第二十一条一項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する

あのときは、何が「表現」に含まれるかを、見ました。今日は、同じ条文を、別の角度から読みます。この条文、よく見ると、誰の自由を保障しているでしょうか。文言のうえでは、情報の送り手の自由としてしか、書かれていません。話す人、書く人、発信する人です。情報を出す側、ということです。ここに、素朴な違和感を、立ててみましょう。ある講演会を、想像してください。あなたは、聴衆として、会場にいます。講演者が話す自由は、二十一条で、はっきり守られています。では、あなたが、その話を聞く自由は、どうでしょうか。

もっと言えば、あとで、その講演の記録を、読み返す自由は。聞く自由も、読み返す自由も、文言上は、出てきません。ここに、条文の姿と、現実の感覚の、ずれがあります。憲法の教科書は、当然のように、知る権利という言葉を、使います。でも、その言葉、二十一条のどこにも、書かれていないんです。条文に無い言葉が、なぜ当然のように使われているのか。ここから、今日の核心に入っていきます。

なぜ受け手の側から読み直すのか

論証の流れ(①表現行為は受け手の存在を前提とする/②送り手と受け手がマスメディアの発達で分離・固定化する/③21条1項を受け手の側から再構成し知る権利を導く)+②の不都合=文言どおりだと表現の自由の担い手はほぼマスメディアだけになる 図:論証の流れ

  • ①表現行為は受け手の存在を前提とする
  • ②送り手と受け手がマスメディアの発達で分離・固定化する
  • ③21条1項を受け手の側から再構成し知る権利を導く
  • ②の不都合=文言どおりだと表現の自由の担い手はほぼマスメディアだけになる

この飛躍を埋める、二つの理由があります。順番に、見ていきましょう。一つ目です。表現行為は、そもそも、受け手の存在を前提にしています。たとえば、あなたが、誰もいない部屋で、壁に向かって、一人で話したとします。それは、表現とは呼べません。誰にも届かない以上、表現活動として、まったく意味を持たないんです。表現は、誰かに伝わって、初めて、表現として機能します。表現行為という営みそのものが、受け手の存在を、織り込んでいるんです。だから、送り手の自由だけを保障して、受け手の自由を保障しない、というのは、表現という営みの半分しか、見ていないことになります。

二つ目は、もっと現実的な理由です。マスメディアの発達です。テレビや、新聞、雑誌のような、マスメディアが発達した結果、情報を発信する人と、情報を受け取る人が、はっきりと分離し、固定化しました。狭い共同体の中で、噂話をするような場面なら、話す人と、聞く人は、いつでも入れ替わります。でも、テレビ局が、全国に向けて放送する時代になると、放送できるのは、限られたテレビ局だけで、視聴者は、ただ受け取るだけになります。ここで、条文の文言に、忠実に戻ってみましょう。二十一条一項は、送り手の自由だけを、保障しています。そのまま読むと、この自由を持てるのは、誰になりますか。

文言だけをたどると、答えはマスメディアだけ。ここが、いちばん壊れるところです。友人との会話なら、私たちも、もちろん話す側に立てます。でも、社会に向けて、多くの人に届く形で発信する手段は、マスメディアが、握っています。文言どおりに読むと、表現の自由を持っているのは、事実上、マスメディアだけ、ということになってしまいます。私たち一般の国民は、情報を受け取るだけの立場になってしまい、表現の自由という、この重要な権利から、締め出されてしまうんです。この不都合を、放っておくわけにはいきません。そこで、二十一条一項を、受け手の側から、再構成します。

論文で書く規範:論証——知る権利の理由づけ 21条1項が文言上守っているのは、送り手の自由だけである。しかし、①表現は受け手がいて初めて成り立つ(誰にも届かない表現行為は、表現活動としての意味を持たない)。②マスメディアが発達した結果、送り手と受け手が分離し、役割が固定したため、文言どおりに読むと、この自由を現実に持てるのはほぼマスメディアだけになってしまう。そこで、この条文を受け手の側から再構成し、同項は受け手の自由、すなわち「知る権利」をも保障していると解する。これが通説である。 (規範(通説で立てる))

これが、知る権利という考え方です。二十一条一項は、送り手の自由だけでなく、受け手の自由——情報を受け取る自由も、保障している、と読み直すんです。理由まで押さえられるかどうか。そこが、今日、いちばん大事なところです。「知る権利は、二十一条から導かれる」という結論だけを、覚えないでください。覚えるべきは、二つ目の、あの不都合です。そう読まないと、表現の自由の担い手が、マスメディアだけに、限定されてしまう。ここが答案でも、いちばん問われるところです。

最高裁はどこで認めたか——よど号とレペタ

よど号事件(19条・21条=派生原理/13条=趣旨に沿う)とレペタ事件(21条の趣旨・目的から派生原理として当然に導かれる)の対比+レペタ事件がよど号事件を自ら引用している関係

この考え方、最高裁も、実際に認めています。二つの判例を見てみましょう。一つ目は、被収容者の人権の回で見た、あの事件です。よど号ハイジャック新聞記事抹消事件です。あのとき、最高裁は、閲読の自由——新聞や本を読む自由が、十九条や、二十一条の趣旨、目的から、いわばその派生原理として、導かれる、と述べていました。十三条は、少し役回りが違いました。十九条・二十一条は「派生原理として導かれる」根拠、十三条のほうは、読む自由を認めること自体が、個人として尊重される、と定めた十三条の趣旨に沿う、という補強でした。

この事件そのものは、もう扱っていますので、今日は、ここまでにします。もう一つ、レペタ事件という判例があります。ここでは、根拠判例としての顔だけ、押さえておきましょう。

判例最大判平成元年3月8日(大法廷)

レペタ事件——知る権利の根拠 「憲法21条1項の規定は、表現の自由を保障している。……このような情報等に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところである(最高裁昭和52年(オ)第927号同58年6月22日大法廷判決……参照)。」

ここで、正確に読んでほしいことがあります。「二十一条から、当然に導かれる」と、縮めないでください。正確には、二十一条の趣旨、目的から、その派生原理として、導かれる、という言い方です。二十一条が、直接、知る権利を書いている、と言っているわけではないんです。実は、この判決文、括弧の中で、よど号事件の判決を、自分から引用しているんです。同じ理由づけの型を、もう一度使っている、ということです。なお、このレペタ事件、実は、法廷でのメモという、もう一つの論点も持っています。そちらは、別の回で、正面から扱います。今日は、「知る権利を、最高裁が認めた根拠判例」として、この一文だけ、押さえてください。

知る権利の三側面——分類は相対的、の中身

知る権利の三側面(自由権的側面=外国からの本の輸入を公権力が不当に妨げない/参政権的側面=事実・意見を知って初めて政治に有効に参加できる/社会権的側面=公権力に情報公開を積極的に要求する)+それぞれの具体例 図:知る権利の三側面

  • 自由権的側面=外国からの本の輸入を公権力が不当に妨げない
  • 参政権的側面=事実・意見を知って初めて政治に有効に参加できる
  • 社会権的側面=公権力に情報公開を積極的に要求する
  • それぞれの具体例

ここで、少し前に扱った話を、思い出してください。人権の分類——自由権や、参政権や、社会権という分け方は、実は、絶対的なものではなく、相対的だ、という話をしましたね。あのとき、知る権利は、その代表例として、名前だけ出しました。今日は、その中身です。知る権利は、実は、三つの側面を持つ、複合的な権利です。一つずつ、具体例で見ていきましょう。一つ目、自由権的側面です。情報を、自由に受け取ることを、妨げられない、という側面です。たとえば、外国で出版された本を、国内に住むあなたが、輸入して読みたいとします。公権力が、正当な理由もなく、この輸入を、不当に禁止したら、どうでしょうか。

これは、情報を受け取る自由を、公権力から妨げられている場面です。二つ目、参政権的側面です。私たちが、選挙で、誰に投票するかを決めるには、さまざまな事実や、意見を、知っている必要があります。候補者の経歴も、政策も、まったく知らないまま投票したら、どうなりますか。知る権利があって、初めて、政治に有効に参加できます。選挙権という、参政権を、下から支える役割です。三つ目、社会権的側面です。社会権的・国務請求権的側面、とも呼ばれます。人権の分類のときに、受益権と呼んだ側面が、これです。

国や自治体に対して、こちらから、情報を出すように求めていく権利です。「この行政文書を、開示してほしい」というような、請求の場面です。方向は、まさに逆です。自由権的側面は「妨げるな」という、消極的な自由。社会権的側面は「公開しろ」という、積極的な請求。方向が、正反対です。試験で問われるのは、「知る権利は何権か」を覚えることではありません。問題文の中で、どの側面が問題になっているかを、見分けることです。今日は、その見分ける力を、さらに一段、鍛えていきます。

社会権的側面だけ性質が違う——抽象的権利

権利の強さ3段階の再掲(具体的権利=裁判規範性あり/抽象的権利=具体化する法律があって初めて動く/プログラム規定=目標のみ)+知る権利の社会権的側面と25条生存権を同じ列に並べる 図:権利の強さ3段階の再掲

  • 具体的権利=裁判規範性あり
  • 抽象的権利=具体化する法律があって初めて動く
  • プログラム規定=目標のみ
  • 知る権利の社会権的側面と25条生存権を同じ列に並べる

三つの側面のうち、実は、一つだけ、性質が違うものがあります。社会権的側面です。ここで、以前使った、あの道具を、また使います。権利には、強さの段階がある、という話です。三段階、ありましたね。具体的権利は、それだけで裁判所を動かせる、いちばん強い段階。次が、抽象的権利。具体化する法律があって、初めて動く権利でした。そして、プログラム規定は、国の目標を示すだけの規定でしたね。ここで、もう一度、定義し直しません。あの道具を、そのまま使います。知る権利の社会権的側面——「情報を公開しろ」という請求は、この三段階のうち、抽象的権利にとどまります。

考えてみてください。「情報を公開しろ」と言っても、どの情報を、誰に対して、どんな手続で、請求できるのか。憲法の条文だけでは、決まらないんです。だから、それを具体化する法律ができて、はじめて、裁判規範性——裁判所を動かす力が、認められます。そこまでの、抽象的権利にとどまるんです。現在、その役割を担っているのが、国の情報公開法と、自治体の情報公開条例です。この法律を使った、実際の争い方は、また別の回で扱います。今日は、名前だけ、押さえておいてください。似ているのは、二十五条の生存権です。まったく同じ構造でした。生活保護法のような、具体化する法律があって、初めて、具体的な請求として、機能する、という位置づけでしたね。

知る権利の社会権的側面と、生存権は、同じ棚に、並べて理解しておくと、忘れにくくなります。一方で、自由権的側面と、参政権的側面は、この抽象的権利の話とは、別です。こちらは、「妨げるな」という、通常の自由権と同じ強さで、保障されます。この差を、正確に押さえておいてください。

弁別演習:図書館に「買ってくれ」と「見せてくれ」

図書館2場面(場面A=新刊の購入請求=社会権的側面・広い裁量/場面B=既存本の閲覧請求を理由なく拒否=自由権的側面への制約・厳格審査)+判例ではなく学説上の分析例 図:図書館2場面

  • 場面A=新刊の購入請求=社会権的側面・広い裁量
  • 場面B=既存本の閲覧請求を理由なく拒否=自由権的側面への制約・厳格審査
  • 判例ではなく学説上の分析例

ここで、今日いちばんの、弁別問題を、出します。ある町の、公立図書館を、舞台にします。二つの場面を、比べてみましょう。場面Aです。ある利用者が、図書館に、こう頼みます。「地元の歴史を扱った、新しく出た本を、まだ蔵書にないので、買ってほしい」。場面Bです。別の利用者が、図書館に、こう頼みます。「もう書棚にある、郷土史の本を、閲覧させてほしい」。すると、図書館側は、特に理由も示さず、この請求を、拒否しました。ここで、あなたに、考えてほしいことがあります。この二つ、どちらも、図書館に対する請求です。でも、憲法上、審査の厳しさは、同じでしょうか。

では、一つずつ、見ていきましょう。まず、場面Aです。まだ買っていない本を、買ってほしい、という請求。これは、もっぱら社会権的側面の問題です。憲法だけからは、どの本を、いつ、いくらで買うべきか、決まりません。だから、購入するかどうかは、図書館長らの、広い裁量に委ねられます。少なくとも、憲法上、強く保護される請求ではありません。では、場面Bは、どうでしょうか。「公権力の持つ情報を、見せろ」という点だけ見れば、これも、社会権的側面の問題に、見えるかもしれません。ここで、公立図書館の役割に、立ち返ってみましょう。公立図書館は、一般公衆に、広く図書を提供する、という役割を、担っています。

すでに買ってある本は、蔵書として、公開されているはずのものです。すでに蔵書に入っている本は、原則として、自由に閲覧を求めることができる。それが、出発点です。その原則を、理由も示さずに拒否することは、一般市民の知る権利に対する、不当な介入にあたる、と構成できます。場面Bは、自由権的側面に対する制約として、扱うことができます。そうなると、社会権的側面のような、広い裁量では、済まされません。厳格な審査が、必要になります。規制の物差しを作った回で見たとおり、目的の重さと、手段の必要性を、裁判所が立ち入って確かめる、という意味です。

ここが、今日の、いちばんの山場です。「情報を求める」という表面だけを見ると、同じに見える二つの請求が、実際には、まったく違う扱いを受けます。ここで、二つ、注意しておきたいことがあります。一つ目。今の場面Bの分析は、最高裁が実際に、こう判断した、という判例ではありません。あくまで、学説上の分析の一例です。判例の結論と、混同しないでください。二つ目。この、著者ではなく利用者が主語の話、実は、前にも似た話を、扱っていますよね。あちらは、司書が独断で、著者たちの本を、除籍・廃棄した事件でした。でも、あの事件で問題になったのは、著作者の側の、表現の自由でした。

今日の話は、利用者の側——読みたい人の、知る権利です。同じ図書館の話でも、誰の権利かによって、まったく別の議論になる、ということを、押さえておいてください。

自由権的側面の制約が実際に争われた例——有害図書自動販売機規制

岐阜県青少年保護育成条例事件の事案要旨(有害図書に指定された図書を自動販売機に収納することを禁止)+青少年に対しても成人に対しても21条1項に違反しないという結論 図:岐阜県青少年保護育成条例事件の事案要旨

  • 有害図書に指定された図書を自動販売機に収納することを禁止
  • 青少年に対しても成人に対しても21条1項に違反しないという結論

今の弁別、実際に、自由権的側面の制約が争われた判例が、あります。有害図書に指定された、雑誌や本を、自動販売機に、収納することを禁じる条例です。この条例の合憲性が、争われました。

判例最判平成元年9月19日(第三小法廷)

岐阜県青少年保護育成条例事件 「有害図書の自動販売機への収納の禁止は、青少年に対する関係において、憲法21条1項に違反しないことはもとより、成人に対する関係においても、有害図書の流通を幾分制約することにはなるものの、青少年の健全な育成を阻害する有害環境を浄化するための規制に伴う必要やむをえない制約であるから、憲法21条1項に違反するものではない。」

ここが、今日、いちばん効くところです。有害図書を自動販売機で買いたい、という自由は、誰の権利ですか。青少年だけでなく、成人にとっても、この規制は、知る権利、自由権的側面への、制約になります。理由は、いま読んだ、青少年の健全な育成を妨げる環境を、浄化するため、です。この目的のためなら、成人の知る権利を、幾分制約しても、必要やむをえない制約として、許される、という判断です。場面Bの厳格な審査と、この合憲の判断は、矛盾しません。ここで、正確に、整理しておきましょう。自由権的側面への制約だからといって、当然に、違憲になるわけではありません。自由権的側面だから厳しく見る、という話と、個別の規制が、結論として合憲か違憲か、という話は、別です。

この規制は、自動販売機という、購入しやすい方法を、制約しただけです。有害図書そのものを、全面的に、禁止しているわけではありません。できます。ただ、そこは、法廷意見が理由として述べたところではありません。法廷意見が挙げた理由は、あくまで、有害環境を浄化するという、目的の正当性です。「自由権的側面なら、当然に厳格審査で、必ず違憲」という、短絡には、注意してください。厳格に見る、ということと、その結果、違憲になるかは、別の話だ、ということを、この判例が、はっきり見せてくれています。なお、この判決には、伊藤正己裁判官の、補足意見が付いています。

その補足意見のほうは、成人には、この規制を受ける図書を、手に入れる方法が残っている、という点にも触れています。ただ、今、見た合憲の判断そのものは、裁判官全員一致の、法廷意見です。「入手する方法が残っている」という理由づけは、補足意見のほう。混ぜないでください。

アクセス権とは何か——知る権利と向きが違う理由

知る権利とアクセス権の向きの対比(知る権利=公権力・情報の担い手から国民へ/アクセス権=国民からマスメディアへ発信の場を求める) 図:知る権利とアクセス権の向きの対比

  • 知る権利=公権力・情報の担い手から国民へ
  • アクセス権=国民からマスメディアへ発信の場を求める

ここまで、知る権利を、見てきました。次は、少し似ているけれど、違う権利です。アクセス権です。別名、反論権とも呼ばれます。一般国民が、マスメディアに対して、自分の意見を発表する場を、提供しろ、と要求する権利です。さっき見た、テレビ局が、全国に向けて放送する場面を、思い出してください。ただ受け取るだけだった視聴者が、「その番組で、私の意見も流してほしい」と、放送局に求める。これが、アクセス権の形です。ここで、大事な違いを、確認しておきましょう。知る権利は、公権力や、情報を持つ側から、私たちが、情報を受け取る権利でした。アクセス権は、逆です。私たちの側から、マスメディアという私人に向けて、発信する場を、求める権利です。

二つとも、同じ現実から、生まれています。マスメディアが発達して、送り手と受け手が、分離・固定化した、という現実です。知る権利は、「固定化された受け手として、せめて情報だけは受け取らせろ」。アクセス権は、「固定化された受け手のままでは終わらず、自分も発信させろ」。ここで、混同しやすい点も、押さえておきましょう。「国に対して、情報公開を求める」ことと、混同しないでください。あちらは、公権力に向けた請求でした。アクセス権は、私人であるマスメディアに向けた請求です。この向きの違いを、はっきり分けておいてください。では、このアクセス権、実際には、認められているんでしょうか。

サンケイ新聞事件——なぜ反論権は認められないのか

サンケイ新聞事件の事案(A=自由民主党/B=日本共産党/C=産業経済新聞社)+Aの意見広告掲載にBが同スペースの無料反論文掲載をCへ請求・訴訟当事者はBとCのみ+萎縮効果の理由づけ 図:サンケイ新聞事件の事案

  • A=自由民主党
  • B=日本共産党
  • C=産業経済新聞社
  • Aの意見広告掲載にBが同スペースの無料反論文掲載をCへ請求・訴訟当事者はBとCのみ
  • 萎縮効果の理由づけ

実際に、アクセス権が争われた、有名な事件があります。ある新聞に、自由民主党が、日本共産党を批判する、意見広告を、掲載しました。これに対して、日本共産党が、その新聞社に、同じスペースで、無料で、無修正の反論文を、掲載するよう、求めました。相手を取り違えやすいところです。訴えられたのは、広告を出した自民党ではなく、広告を掲載した、新聞社の側です。自民党は、この訴訟の、当事者ではありません。取り違えないように、注意してください。この、反論文を無料で掲載させる権利——アクセス権について、最高裁は、どう判断したでしょうか。

判例最判昭和62年4月24日(第二小法廷)

反論文掲載請求事件(サンケイ新聞事件) 「その掲載を強制されることになり、また、そのために本来ならば他に利用できたはずの紙面を割かなければならなくなる等の負担を強いられる……これらの負担が、批判的記事、ことに公的事項に関する批判的記事の掲載をちゆうちよさせ、憲法の保障する表現の自由を間接的に侵す危険につながるおそれも多分に存する。」「不法行為が成立する場合……は別論として、……具体的な成文法がないのに、反論権を認めるに等しい……反論文掲載請求権をたやすく認めることはできない。」

ここで、結論よりも、理由づけに、注目してください。もし、反論文の無料掲載を、強制されたら、何が起きるでしょうか。編集方針に合わない文章でも、載せることを強いられる。それに加えて、もう一つ、負担があります。本来なら、別の記事に使えたはずの、貴重な紙面を、反論文のために、割かなければならなくなります。この二つの負担を、新聞社が、常に覚悟しなければならないとしたら、新聞社は、どう行動すると思いますか。強制されるくらいなら書かないでおこう、という方向に、新聞社を押します。とくに、公的な事項についての、批判的な記事ほど、掲載を、ためらわせることになります。

萎縮効果です。規制されるかもしれない、という威嚇だけで、本来やってよいはずの表現まで、やめてしまう効果でしたね。同じ道具が、ここでも、そのまま効いています。表現の自由を、間接的に侵す危険がある。だから、具体的な、成文法の根拠がない限り、反論文掲載請求権を、たやすく認めることはできない、というのが、この判決の考え方です。この判決が閉じたのは、成文法なしに一般制度として反論権を認めることだけです。判決文は別に、記事が不法行為になる場合の救済は「別論」——つまり、この判断とは切り離す、とも言っています。一般的な制度として、反論権を、簡単には作れない、ということです。なお、放送法には、訂正放送という制度が、あります。真実でない放送で、権利を侵された本人などが、放送から三か月以内に請求すると、放送局が調べたうえで、訂正または取消しの放送をする、という制度です。

訂正放送は、反論権とは、別物です。判決文自身が、要件も内容も、著しく異なる、と述べています。訂正放送は、反論権を根拠づけるものでは、ない、と明言されています。現在も、アクセス権を、正面から認める法律は、作られていません。この判決が示した、「立法があれば別」という射程が、そのまま、今の到達点になっています。

今日の地図(保存版)

三側面の地図完成版(自由権的側面/参政権的側面/社会権的側面=抽象的権利)+論証の結論と次回への橋(報道機関の自由) 図:三側面の地図完成版

  • 自由権的側面
  • 参政権的側面
  • 社会権的側面=抽象的権利
  • 論証の結論と次回への橋(報道機関の自由)

では、今日のまとめです。冒頭の一問に、戻りましょう。「二十一条一項が保障しているのは、本当に、話す自由だけなのか」。条文が書いているのは、送り手の自由まで。でも、一つ目、表現行為は、受け手を前提にしていること。二つ目、マスメディアの発達で、送り手と受け手が、分離・固定化したこと。この二つの理由から、二十一条一項を、受け手の側から、読み直しました。知る権利には、自由権的な面、参政権的な面、そして、社会権的な面。三つの顔がありました。社会権的側面だけは、具体化する法律があって、初めて動く、抽象的権利にとどまる。

買ってくれ、は社会権的側面で、広い裁量。見せてくれを、理由なく拒むのは、自由権的側面への制約として、厳格な審査。そして、自由権的側面の制約であっても、目的が正当で、その規制に伴う、やむをえない制約といえるなら、合憲になりうることも、有害図書の判例で見ました。最後に、知る権利と、向きが逆の、アクセス権も見ました。でも、具体的な、成文法の根拠がない限り、たやすくは、認められない。萎縮効果が、その理由でした。今日で、受け取る自由まで、二十一条に読み込みました。でも、まだ、残っている問いがあります。その情報を、実際に運んでいる、報道機関の側は、どこまで守られるんでしょうか。

楽しみにしていてください。

参照条文

  • 日本国憲法 21条1項

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