憲法ゼロから憲法#38

報道の自由と取材の自由——「十分尊重に値する」は何を言っているのか

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第3章 人権各論 ㊳/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。

事実を伝えることは「表現」か——入らないように見える理由

21条1項の文言(送り手の自由)と特定の思想を表明する自由という表現の自由の伝統的理解の対比+事実の報道はそこに入らないのではという素朴な違和感

まず、条文を、もう一度、確認しましょう。

条文日本国憲法 21条1項

日本国憲法 第二十一条一項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する

今日は、また、別の角度から読みます。表現の自由は、本来、何を指す言葉でしょうか。正確には、特定の思想を表明する自由を指します。自分の考えや評価を、外に向けて示す自由、ということです。ここで、素朴な違和感を、立ててみましょう。「今日は雨です」という、事実を伝えることと、「この政策はおかしい」という意見は、同じ強さで守られるべきでしょうか。そこに、飛躍があります。新聞やテレビが伝える報道の多くは、記者個人の意見ではなく、事実そのものです。だとすれば、事実を知らせる報道の自由は、表現の自由には、含まれないとも思えてきます。

ここに、埋めなければならない飛躍があります。「思想の表明の自由」という理解のままだと、事実の報道は、二十一条の外に、はみ出してしまうんです。次に、この飛躍を埋める理由を、見ていきましょう。

反論を破る二つの理由——編集という知的作業と、知る権利への奉仕

自前設例=市議会2時間の質疑を放送局Xと放送局Yがそれぞれ20秒だけ切り取って報じる対比+編集という知的作業の中身 図:自前設例

  • 市議会2時間の質疑を放送局Xと放送局Yがそれぞれ20秒だけ切り取って報じる対比
  • 編集という知的作業の中身

この飛躍を埋める理由が、二つあります。順番に見ていきましょう。一つ目です。報道には、実は編集という、知的な作業が入っています。具体的な場面で、考えてみましょう。ある市議会で、議員が、二時間にわたって、ある廃棄物処理施設の建設計画について、質疑に応じたとします。この二時間を、放送局Xが、報じました。Xが選んだのは、その中の、たった二十秒——議員が、質問に、言葉に詰まった場面でした。一方、放送局Yも、同じ二時間から、報じました。Yが選んだのは、まったく別の二十秒——議員が、同じ質問に、的確に反論した場面でした。

詰まった場面だけを見た視聴者は、この議員を、頼りない人物だと感じるかもしれません。的確に反論した場面だけを見た視聴者は、この議員を、有能な人物だと感じるかもしれません。何を選び、どの順に並べ、どこを切るか。この判断そのものが、単なる録画の垂れ流しとは、違います。これが、編集という知的な作業です。報道も、思想の表明と同じように、送り手の知的な判断が現れている営みだ、と言えます。二つ目の理由です。これは、前回作った道具を、そのまま使います。報道の自由は、国民が知る権利を実際に使える状態を、支えています。前回、受け取る自由——知る権利を、二十一条に読み込みました。でも、その知る権利、報道機関が事実を伝えてくれなければ、絵に描いた餅に、なってしまいます。

報道の自由を守ることは、国民の知る権利を、現実のものにするための前提条件でもあるんです。この二つの理由から、最高裁も判断を下しています。判旨を見てみましょう。

判例最大決昭和44年11月26日(大法廷)

博多駅テレビフィルム提出命令事件——報道の自由の保障 「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。したがつて、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法二一条の保障のもとにあることはいうまでもない。」

そして、続きの一文が重要です。「事実の報道の自由は、憲法二十一条の保障のもとにある」。ここ、「保障のもとにある」と、はっきり言い切っています。報道の自由については、この言い切りを、まず押さえてください。この言い切りが、次の話で、大きな意味を持ってきます。

「十分尊重に値する」——言葉の落差を読む

報道の自由=21条の保障のもとにある/取材の自由=21条の精神に照らし十分尊重に値する、という動詞の強さの対比+人権そのものではないというニュアンスとその帰結 図:報道の自由

  • 21条の保障のもとにある
  • 取材の自由=21条の精神に照らし十分尊重に値する、という動詞の強さの対比+人権そのものではないというニュアンスとその帰結

では、報道の前提になっている行為に、目を移しましょう。事実を伝えるには、まず事実を、集めなければなりません。取材とは、その、情報を集める行為です。取材の自由は、報道と同じ強さで、守られているんでしょうか。ここで、もう一度、同じ判例の別の一文を、見てみましょう。

判例最大決昭和44年11月26日(大法廷)

博多駅テレビフィルム提出命令事件——取材の自由の温度 「このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法二一条の精神に照らし十分尊重に値いするものといわなければならない。」

ここが、今日いちばん大事な場所です。報道の自由には、「保障のもとにある」と、言い切りました。取材の自由には、「憲法二十一条の精神に照らし」「十分尊重に値する」。並べて、見てみましょう。報道の自由は、「二十一条の保障のもとにある」。取材の自由は、「二十一条の精神に照らし、十分尊重に値する」。最高裁は、わざわざ、二つの自由に違う言葉を選びました。しかも、同じ判決文の中で、隣り合う場面で、です。選び分けている以上、扱いも分けているはずです。「保障する」は、権利そのものとして扱う言葉です。「尊重に値する」は、程度の問題として、配慮を求める言葉です。

この判示からは、取材の自由は、人権そのものではない、というニュアンスを読み取ることができます。でも、指摘して終わりにしては、いけません。この違いが、だから、何を変えるのか、まで考えましょう。人権そのものとして扱われないなら、その自由を制約することを、正当化するハードルが下がります。人権そのものなら、制約するには、よほど重要な理由と、必要最小限の手段が求められます。でも、「尊重に値する」程度の扱いなら、もう少し緩やかな理由でも、制約が正当化されやすくなります。たとえば、ある役所が、特定の新聞社だけを、記者会見から締め出したとします。

これは、取材の段階を狙った制約です。一方、すでに集め終わった内容について、公表するな、と国が止めるなら、それは報道の段階を狙った制約です。後者は、「保障のもとにある」と言い切られた自由への制約です。でも前者は、「十分尊重に値する」にとどめられた自由への制約になります。だから、どちらの段階を狙った制約なのかで、主張できる、審査の強さが変わってくる可能性があります。ただ、今日見る判例は、その目盛りを先に立てません。その場で、天秤にかける形をとります。そこも含めて、このあと見ていきます。この落差を自分の言葉で、指摘できるかどうか。それが、今日の最初の山場です。

判例と通説が割れる場所——答案での書き方

判例=取材の自由は21条の精神に照らし十分尊重に値するにとどまる/通説=取材は報道の不可欠の前提だから21条1項の一環として保障、という対立表+答案での両建て指針 図:判例

  • 取材の自由は21条の精神に照らし十分尊重に値するにとどまる
  • 通説=取材は報道の不可欠の前提だから21条1項の一環として保障、という対立表+答案での両建て指針

この、判例の控えめな言い方に対して、学説は、違う立場を取っています。通説は、こう考えます。取材は、報道にとって不可欠の前提です。取材ができなければ、報道そのものが成り立ちません。同じ発想です。だから通説は、取材の自由も、報道の自由の一環として、二十一条一項によって、保障されると解します。ここで、答案を書くうえでの実務的な指針を、お話しします。通説で書くほうが、実は書きやすいんです。「保障される」とはっきり書ければ、そのあとの審査の型に素直に乗せられます。一方で、判例の言い回しを知らないままだと、困る場面があります。

設問文が、「十分尊重に値する」という言い回しを、そのまま引用してきたときです。判例の言葉を知らなければ、なぜこの言い回しが使われているのか、対応できません。通説で書き方の型は覚えつつ、判例があえて弱い言葉を選んでいることも、忘れないでください。両建てで押さえる。これが、この場所の答案戦略です。

論文で書く規範:論証——報道の自由と取材の自由 21条1項が守る「表現」とは、本来は自分の考えを世に示すことを指す。報道が運ぶのは事実であって書き手の思想ではないから、報道はここに入らないようにも見える。しかし、①何を選び、どう並べ、どこを切るかという編集の判断が必ず働いており、そこには送り手の知的な作業がある。②報道が無ければ、国民は知る権利を現実に使えない。そこで、報道の自由も21条1項によって保障されると解する。もっとも、その前提である取材の自由について、判例は「憲法21条の精神に照らし十分尊重に値いする」と述べるにとどめ、報道の自由に用いた「保障のもとにある」という言葉を避けた=人権そのものではないというニュアンスが読み取れる。これに対し通説は、取材なしに報道は成り立たない以上、取材の自由も報道と一体のものとして21条1項の保障が及ぶとする。 (規範(判例と通説が割れる/判例=最大決昭44・11・26))

どちらでも無制約ではない——制約の枠組みへ

三段階審査(保障の有無→制約の有無→正当性)の型の再掲+判例・通説どちらの立場を取っても次に必要なのは限界をどう画するかという問い

ここで、以前作った道具を、もう一度使います。人権として保障される、と分かったところで、話が終わるわけではない。保障の有無、制約の有無、そして制約の正当性。この三段階の型でしたね。取材の自由も、まったく同じです。判例のように「十分尊重に値する」と解くにせよ、通説のように「報道の自由の一環として保障される」と解くにせよ、どちらの立場を取っても、取材の自由は無制約ではありえません制約は、どこまで許されるのか、という同じ問いです。ここから、三つの重要な判例を見ていきます。博多駅事件、TBS事件、そして西山記者事件です。

一つずつ、丁寧に見ていきましょう。

博多駅事件の比較衡量——天秤に、何を乗せたか

比較衡量の天秤の図+一面=刑事裁判の必要性/他面=報道機関の不利益+以前の回で作った比較衡量論の構造的偏り批判の受け

  • 比較衡量の天秤の図+一面=刑事裁判の必要性
  • 他面=報道機関の不利益+以前の回で作った比較衡量論の構造的偏り批判の受け

まず、博多駅テレビフィルム提出命令事件から見ていきます。どんな事件かというと、機動隊と学生の衝突がありました。そのとき、テレビ局が撮影していた映像フィルムを、裁判所が、提出するよう命じた、という事件です。この提出命令が、取材の自由を侵害しないかが争われました。最高裁は、こう枠組みを立てました。「公正な裁判の実現」というような憲法上の要請があるときは、取材の自由も、ある程度の制約を受けることは、否定できない。そのうえで、制約が許されるかどうかは、比較衡量、つまり天秤にかけて決める、としました。

一つの皿には、刑事裁判の側の必要性——事件の性質や重さ、証拠としての価値、公正な刑事裁判を実現するための、必要性の有無です。もう一つの皿には、報道機関の側が被る不利益——取材の自由が妨げられる程度、報道の自由への影響、そして、その他、諸般の事情です。ここで、以前の回を、思い出してほしいんです。以前、「公共の福祉」を扱った回で、比較衡量論そのものを批判しましたね。そして、この博多駅の枠組みも、まさに、その形をしています。一面は、国家——公正な刑事裁判の実現。他面は、報道機関という私人的な団体の不利益。

だからこそ、最高裁が、実際に何を、どちらの皿に乗せて、どう評価したのか、一つずつ点検する必要があります。この判例を、判旨をそのまま覚えて、終わりにしてはいけません。

判例最大決昭和44年11月26日(大法廷)

博多駅テレビフィルム提出命令事件——比較衡量の枠組み 「このような場合においても、一面において、審判の対象とされている犯罪の性質、態様、軽重および取材したものの証拠としての価値、ひいては、公正な刑事裁判を実現するにあたつての必要性の有無を考慮するとともに、他面において、取材したものを証拠として提出させられることによつて報道機関の取材の自由が妨げられる程度およびこれが報道の自由に及ぼす影響の度合その他諸般の事情比較衡量して決せられるべきであり、……」

では、実際の事件で、何がそれぞれの皿に乗せられたのか。ここで、一度、皆さんに考えてほしいことがあります。この事件、フィルムの提出が命じられて、合憲、という結論になりました。天秤が、刑事裁判の必要性の側に、傾いたということです。では、報道機関の不利益の皿には、最高裁は、軽く乗せたと思いますか、重く乗せたと思いますか?報道の自由そのものが傷つく、という見方は、自然な直感です。実際は、どうだったか。四つの要素を、一つずつ見ていきましょう。一つ目です。事件の対象は、機動隊員らの、公務員職権乱用罪特別公務員暴行陵虐罪の成否でした。

もう一つは、裁判・検察・警察の仕事をする人などが、職務のうえで、被告人や被疑者などに、暴行を加えたり、ひどい扱いをしたときの罪です。どちらも、かなり重い犯罪です。刑事裁判の必要性の皿を、重くする要素です。二つ目です。事件発生から、二年近くが経ち、被疑者・被害者の特定すら、難しい状態でした。第三者の新しい証言も、もう期待できません。だからこそ、現場を中立的な立場から撮影した、このフィルムが証拠としてきわめて重要であり、罪責の有無を判定するうえでほとんど必須、とされました。ここまでの二つが、刑事裁判の必要性の皿を、重くしました。問題は、ここからです。三つ目——報道機関の不利益の皿です。

判例最大決昭和44年11月26日(大法廷)

博多駅テレビフィルム提出命令事件——不利益の評価 「本件フイルムは、すでに放映されたものを含む放映のために準備されたものであり、それが証拠として使用されることによつて報道機関が蒙る不利益は、報道の自由そのものではなく将来の取材の自由が妨げられるおそれがあるというにとどまるものと解されるのであつて、……」

ここが、最高裁が不利益の皿を、軽くした、いちばんのポイントです。「報道の自由そのもの」ではなく、「将来の取材の自由が妨げられるおそれ」。この言い方、一段抽象化していて、しかも将来形にしています。ここを疑えるかどうかが、理解の分かれ目です。本当にそれだけの不利益なのか——ここは疑ってよい所です。たとえば、当時、撮影に協力してくれた、取材対象者との、信頼関係はどうなるんでしょうか。一度、映像を国に出させられたという事実は、今後、報道機関が、取材対象者から信頼して、撮影に応じてもらえるかどうかにも、関わってくるはずです。

でも、最高裁は、この不利益を、「将来の取材の自由が妨げられる、おそれ」という軽い言い方に、とどめました。これが、比較衡量論の構造的な偏りが、実際に現れた場面だ、と見ることができます。そして、四つ目です。提出命令を出した福岡地方裁判所は、フィルムを一度、押収したあとも、時機に応じた仮還付などの措置で、報道機関のフィルム使用に、支障をきたさないよう配慮する、と表明していました。これも、不利益をさらに軽くする、付随事情でした。四つの要素を、まとめます。事件の重さと証拠としての必須性が、刑事裁判の必要性の皿を、重くしました。一方、不利益は「将来のおそれ」にとどめられ、裁判所の配慮の表明も加わって、報道機関側の皿は、軽く扱われました。

この非対称な扱いこそ、「比較衡量論には構造的な偏りがある」という批判の、具体例です。なお、この事件、実は通常の刑事裁判ではありません。付審判請求事件という、手続でした。検察官が不起訴にした事件について、裁判所に、審判を求める特別な手続です。この提出命令の名宛人は、テレビ放送会社、四社でした。この事案の背景も、押さえておいてください。この提出命令の根拠になっているのが、刑事訴訟法の条文です。

条文刑事訴訟法 99条3項

刑事訴訟法 第九十九条第三項 裁判所は、差し押えるべき物を指定し、所有者、所持者又は保管者にその物の提出を命ずることができる

裁判所が直接、物を差し押さえるのではなく、提出するよう命じる、という形の権限です。この条文の力を、どこまで使ってよいか。それを絞ったのが、今見た、比較衡量の枠組みだった、ということです。

TBSビデオテープ差押事件——「裁判」から「捜査」へ広がるとき

博多駅事件=裁判所による提出命令/公正な裁判の実現からTBS事件=捜査機関による差押え/適正迅速な捜査の遂行への拡張の矢印図+37条1項の公平な裁判所との違い 図:博多駅事件

  • 裁判所による提出命令
  • 公正な裁判の実現からTBS事件=捜査機関による差押え
  • 適正迅速な捜査の遂行への拡張の矢印図+37条1項の公平な裁判所との違い

博多駅事件と同じ枠組みのまま、要請の側を、捜査にまで広げた判例があります。TBSビデオテープ差押事件です。今度は、警察官が、報道機関の取材ビデオテープを、差し押さえた事件です。事案を確認しましょう。暴力団の組長が、組員らと共謀して、債権を取り立てるため、暴力団の事務所で、被害者に一か月ほどのけがを負わせました。さらに、被害者の家の前で、団体の威力を示して共同で脅し、事務所でも、団体の威力を示して脅迫した、という事件です。傷害、そして暴力行為等処罰法違反の被疑事件の捜査として、警視庁が、TBSの本社にある取材ビデオテープを、差し押さえました。

そこが、博多駅事件との大きな違いです。博多駅事件は、裁判所による提出命令でした。今回は、捜査機関による差押えです。制約を正当化する、要請の側です。博多駅事件は、「公正な裁判の実現」という要請でした。TBS事件では最高裁は、「公正な刑事裁判を実現するために不可欠である、適正迅速な捜査の遂行」という要請がある場合にも、取材の自由は制約を受ける、としました。一点、正確に押さえておきましょう。この広げ方を最初に示したのは、この決定ではありません。前年の別の決定——日本テレビ事件です。

この決定は、その先例を参照したうえで、同じ枠組みを使っています。ただ、司法試験で問われるのは、こちらの事件です。ここから先は、この事件で見ていきます。なぜ、そこまで広げられるのか。証拠は、裁判が始まる前の、捜査の段階で集まります。そこで集まらなければ、公正な裁判にたどり着けない——だから、捜査の遂行も、裁判のための要請に含まれる。これが、最高裁の理屈です。比較衡量の枠組み自体は、博多駅事件と、同じです。

判例最決平成2年7月9日(第二小法廷)

TBSビデオテープ差押事件——事案と犯罪の重大性 「軽視することのできない悪質な傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反被疑事件」であり、取材ビデオは「事案の全容を解明して犯罪の成否を判断する上で重要な証拠価値を持つもの」である。

ここまでは、博多駅事件と、似た評価です。ただ、不利益の評価は、博多駅事件よりも、さらに軽く出ました。三つの点があります。判旨を見てみましょう。

判例最決平成2年7月9日(第二小法廷)

TBSビデオテープ差押事件——不利益の評価(博多駅事件よりさらに軽く) 「本件差押により申立人の受ける不利益は、本件ビデオテープの放映が不可能となって報道の機会が奪われるというものではなかった」。「報道機関たる申立人が右取材協力者のためその身元を秘匿するなど擁護しなければならない利益は、ほとんど存在しない」。「そのような取材を報道のための取材の自由の一態様として保護しなければならない必要性は疑わしいといわざるを得ない」。

一つ目です。このビデオは、すでに放映用の編集を終え、放映も済ませていました。だから、差押えによって放映が不可能になった、という不利益では、なかったんです。二つ目です。撮影は、暴力団組員の協力を得て、行われました。しかも、その取材協力者自身が、放映を了承していたんです。だから、取材対象者の身元を秘匿しなければならない利益は、ほとんど存在しない、とされました。三つ目です。複数の組員による暴行を、現認しながら、撮影を続けていました。最高裁は、そのような取材を、取材の自由の一態様として、保護しなければならない必要性は、疑わしい、としました。

この三つの理由で、不利益の皿は、博多駅事件よりも、さらに軽く扱われ、結論は、合憲でした。ただ、この事件には、もう一つ、大事な事実があります。この決定は、三対一の、僅差でした。裁判官奥野久之さんの反対意見が、付いています。反対意見の中身までは、深追いしませんが、全員が同じ結論だったわけではない、という事実は、押さえておいてください。さて、ここで、学説からの批判を、見ておきましょう。二点あります。一つ目です。博多駅事件が言う「公正な裁判の実現」は、憲法の明文——三十七条一項が、掲げる要請です。一方、TBS事件が言う「適正迅速な捜査」は、直接には、憲法の明文が掲げる要請では、ありません。

ここで、三十七条一項を、確認しておきましょう。

条文日本国憲法 37条1項

日本国憲法 第三十七条第一項 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。

ここは、大事な区別です。判例が使う「公正な裁判の実現」という言葉は、三十七条一項が体現する、憲法上の要請を、裁判所が、要約した言い回しであって、条文そのものの、逐語では、ありません。ここを混同すると、法的に誤りになります。「公正な裁判」という言葉を見たら、それは判例の要約であって、三十七条一項の文言そのものではない、と、区別してください。さて、批判の二つ目です。裁判所は、事件と利害関係のない、公平な第三者機関です。一方、捜査機関は、事件を追及する側——つまり当事者であって、同じ意味での、第三者機関では、ありません。

この二つの理由から、要請の拡張を、無批判に認めることには、疑問が呈されています。安易に、この拡張を認めてしまうと、報道機関のカメラが、捜査機関の「目」の代わりのように、扱われかねない、という懸念です。これは、一人の個人的な感想ではなく、学説上、一般に指摘されている懸念です。博多駅事件からTBS事件への、この一歩を無条件で受け入れず、どこに危うさがあるのかを、押さえておいてください。

外務省秘密漏えい事件——通称、西山記者事件で問われた取材の「手段」

前2件=取材の成果を国家に出させてよいかの問題/西山記者事件=取材の手段そのものが犯罪になるかという問題、争点の位置の違い 図:前2件

  • 取材の成果を国家に出させてよいかの問題
  • 西山記者事件=取材の手段そのものが犯罪になるかという問題、争点の位置の違い

最後に、もう一つ、性質の違う判例を見ます。外務省秘密漏えい事件、通称、西山記者事件です。西山記者事件は、テレビ局ではなく、新聞記者の事件です。先に、大事な違いを、押さえましょう。博多駅事件も、TBS事件も、「取材の成果——フィルムや、テープを、国家に出させてよいか」という、問題でした。でも、西山記者事件は、違います。これは、「取材の手段そのものが、犯罪になるか」という、まったく、争点の位置が違う問題です。事案を見てみましょう。被告人は、新聞社の政治部の記者で、外務省を担当していました。外務省の事務官だった女性と、ホテルで、肉体関係を持ちました。その直後、「取材に困っている、助けると思って、安川審議官のところに来る書類を、見せてくれ」と依頼して懇願し、いったん、受け入れさせました。

さらに、外務大臣と、駐日アメリカ大使が、沖縄返還協定に関する、請求権問題で会談することを知り、その関係書類を、持ち出すよう申し向けました。以後、十数回にわたって、秘密文書を、持ち出させています。沖縄返還協定が締結されると、取材の必要がなくなり、被告人は、態度を急変させて、関係を消滅させました。さらに、この文書の写しは、国会議員にも、交付されていた、と認定されています。この一連の行為で、被告人は、国家公務員法の、秘密漏示そそのかし罪で、起訴されました。公務員に、秘密を漏らす決意を新たに生じさせるような、働きかけを、すること、という意味です。

役所が秘密だと言えば何でも秘密になる、とはなりません。最高裁は、ここに二つの条件を置いています。一つ、まだ世に知られていないこと。非公知であること。二つ、中身から見ても、秘密として守るだけの価値が本当にあること。しかも、その判定は、裁判所の判断に服するとされています。ここを外すと、秘密の範囲が、役所の言い値になってしまいます。そのうえで、最高裁の判断が、大事なところです。判示は、前段後段の、二つの部分に分かれています。まず、前段——取材の自由への理解が、示されている部分です。

判例最決昭和53年5月31日(第一小法廷)

外務省秘密漏えい事件——正当業務行為としての理解 「報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠き正当な業務行為というべきである。」

ここを、落としてはいけません。「肉体関係を持ったから有罪」という結論だけを覚えると、この前段が、丸ごと消えてしまいます。そそのかし罪の構成要件に当たったとしても、違法性が阻却される——つまり罪にならない余地があると、最高裁は、認めているんです。ここで、この理由づけを支える条文を、確認しましょう。

条文刑法 35条

刑法 第三十五条 法令又は正当な業務による行為は、罰しない。

「正当業務行為」という呼び方は、判例や学説上の呼び方であって、条文そのものの、見出しの言葉ではありません。この三十五条が根拠となって、報道機関の、執拗な説得・要請も、目的が真正で、手段が相当なら、適法になりうる、という理屈です。真に報道の目的から出たこと、そして、手段・方法が社会観念上、是認されること。この二つを満たす限りは、正当な業務行為として、許されます。では、後段——限界の部分を、見てみましょう。

判例最決昭和53年5月31日(第一小法廷)

外務省秘密漏えい事件——限界と結論 「取材の手段・方法が……取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙する等法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合にも正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びるものといわなければならない。」

そして、あてはめです。被告人は、当初から、秘密文書を入手する手段として利用する意図で、女性と、肉体関係を持ちました。そして、女性が拒みがたい心理状態に陥ったことに乗じて、文書を、持ち出させました。利用の必要がなくなると、関係を消滅させています。このような一連の行為は、取材対象者の人格の尊厳を著しく蹂躙するものであり、正当な取材活動の範囲を逸脱している。だから、違法——有罪、という結論になりました。ここで、大事なのは、この判例が、「取材のための、執拗な説得それ自体」を、一律に違法とはしていない、ということです。目的の真正性と、手段の相当性さえ満たせば、適法になりうる、という枠組みを示している点が、答案で効いてくるところです。

三件を1枚に並べる——どこで線が引かれたのか

博多駅事件/TBS事件/西山記者事件の一覧(争われたもの・要請・枠組み・結論)+前2件は同じ比較衡量を共有しつつ要請元が違う・3件目は枠組みそのものが違う 図:博多駅事件/TBS事件/西山記者事件の一覧

  • 争われたもの・要請・枠組み・結論
  • 前2件は同じ比較衡量を共有しつつ要請元が違う・3件目は枠組みそのものが違う

ここで、今日見た三つの判例を、一枚に並べてみましょう。博多駅事件は、争われたのは、裁判所による提出命令。要請は、公正な裁判の実現。枠組みは、比較衡量。結論は、合憲でした。TBS事件は、争われたのは、捜査機関による差押え。要請は、適正迅速な捜査の遂行。枠組みは、同じ比較衡量。結論は、合憲、ただし三対一でした。西山記者事件は、争われたのは、取材の手段そのもの。枠組みは、正当業務行為の成否。結論は、違法・有罪です。博多駅事件と、TBS事件は、同じ比較衡量の枠組みを、共有しています。違うのは、要請の出どころです。博多駅事件は、裁判所による、公正な裁判の実現。TBS事件は、捜査機関による、適正迅速な捜査の遂行。

一方、西山記者事件は、枠組みそのものが違いました。天秤にかけて比べる話ではなく、取材の手段自体が、正当な業務行為の範囲内かどうか、という話です。この一覧は、暗記のための表ではありません。今日、それぞれの節で作ってきた理解が、どの欄に対応しているか。その、位置を示す地図です。

今日の地図(保存版)

今日の1問への回答と3判例の位置の完成版地図+次回への橋(取材源そのものは守れるか)

  • 今日の1問への回答と3判例の位置の完成版地図
  • 次回への橋(取材源そのものは守れるか)

では、今日のまとめです。冒頭の一問に、戻りましょう。「事実を伝えることは、表現なのか」。でも、編集という知的な作業。そして、国民の知る権利への奉仕。この二つの理由で、報道の自由も、二十一条の保障のもとにある、と、最高裁も認めています。判例は、「憲法二十一条の精神に照らし、十分尊重に値する」に、とどめました。通説は、報道の自由の一環として、二十一条一項で保障されると解します。そして、いずれの立場でも、無制約では、ありません。刑事裁判の必要性と、報道機関の不利益とを比較衡量して、限界が決められます。

博多駅事件は、比較衡量の原型でした。TBS事件は、その拡張と危うさを見せてくれました。西山記者事件は、取材の手段そのものの適法性が、問われる場面でした。「将来の取材の自由が妨げられる、おそれ」という言葉に、どれだけの重さが、本当に込められているのか。そこを疑える目を、持っておいてください。今日で、取材がどこまで守られるか、その限界の決め方まで分かりました。では、その、取材の源そのものを、守れるんでしょうか。新聞と放送で、扱いが変わるのは、なぜなんでしょうか。楽しみにしていてください。

参照条文

  • 日本国憲法 21条1項
  • 刑事訴訟法 99条3項
  • 日本国憲法 37条1項
  • 刑法 35条

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