集会・結社の自由——「貸さない」は、止めるのと同じか
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第3章 人権各論 ㊸/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
二十一条一項には四つある——集会・結社と三つの違い
図:二十一条一項の四つ
- 集会・結社・言論・出版その他一切の表現の自由=すべて二十一条一項が保障
- 今日は集会と結社が主役
まず、条文を確認しておきましょう。二十一条一項には、実は、四つのことが並んで書かれています。
条文日本国憲法21条1項
憲法21条1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
集会、結社、そして言論、出版、その他一切の表現の自由。これを保障する、とあります。集会と結社が、表現の自由と並んで書かれています。今日は、この二つを正面から見ていきます。まず、言葉の意味を、はっきりさせましょう。「集会」とは、多数人が、共通の目的をもって——一定の場所に、一時的に集まることです。目的は、何でもいいです。政治的な集まりだけでは、ありません。宗教的な集まりも、文化的な集まりも、娯楽のための集まりも入ります。実は、今日の後半で見る判例の一つが——まさに、お葬式の集まりです。そこでも、ちゃんと「集会」として扱われています。ここで、一つ、有力な考え方も押さえておきましょう。平和的な集会に限る、という説です。凶器を持って集まるような場合は——そもそも「集会」に当たらない、という考え方です。これには、刑法にも対応する規定があります。凶器を準備して集まる罪です。
今日は、あくまで「集会」の輪郭として触れるだけに留めます。次に、「結社」です。多数人が、共通の目的をもって、継続的に結合することです。集会と、何が違うのか。ここに、今日の三本柱の一つ目の軸が出てきます。
図:三つの違い
- 集会=一定の場所に一時的に集まる
- 集団行進=動きながら集まる
- 結社=継続的に結合する・時間が軸
- 目的は問わない(政治・宗教・文化・娯楽・冠婚葬祭も含む)
「集会」は、一定の場所に集まることです。基本は、一回きりです。「結社」は、継続的な結合です。時間が、軸になります。そして、実はもう一つ、動く集まりも、条文に含まれます。動いているのだから、集会でも結社でもない気がしますよね。実は、判例は、これも「集会」の一種として扱っています。場所にじっと留まらなくても——対外的に意見を表明する、有効な手段だからです。今日の言葉づかいを、統一しておきます。この動く集まりは、「集団行進」と呼びます。「デモ行進」と、呼ばれることもあります。以後は、「集団行進」で統一します。場所に集まる、動きながら集まる、続けて結びつく。この三つの違いを、まず、頭に入れておいてください。問題文で、「団体」や「集まり」が出てきたら——まず、このどれかに、仕分けます。仕分けが決まれば、当てる道具も、決まります。
場所が要る、という当たり前——だから自由権だけでは足りない
図:場所が要ることの帰結
- 自由権だけでは足りない・貸さないだけで封じられる
- 知る権利で作った構造の再登場(自由権的側面と請求権的側面が同じ条文から出る)
- 論証二十五
さて、三本柱の一つ目です。場所が要る、という話です。集まるには、場所が要る。当たり前ですよね。でも、この当たり前が、実は、大きな問題を生みます。一人で発信するなら、路上でも、紙一枚でも、できます。でも、集会は、他人の空間を、借りないと成立しません。すると、誰かが貸さないと言えば、それだけで封じられます。言うのを止められた、わけではありません。ただ、貸してもらえないだけです。でも、結果は同じで、声を上げられません。だから、集会の自由には、もう一段、必要になります。単に「邪魔するな」という自由権だけでは、足りません。公権力に、「使わせろ」と要求できる権利まで、必要になります。
実は、これ、以前、似た構造を見ましたね。知る権利のところで作った、あの構造です。一つの条文から、自由権的側面と、請求権的側面が、両方出てくる、というものでした。集会の自由も、同じ構造をしています。自由権的側面は、「集会を妨げるな」という、消極的な自由。もう一方は、「公共施設を使わせろ」と要求できる権利です。集会の自由では、請求権的側面と呼びます。この二つ目の権利、通説は、二十一条から導きます。論文で使う道具として、番号が振られています。論証二十五、です。ただ、番号を暗記しても意味はありません。中身が大事です。この権利を具体化した法律があります。地方自治法、二百四十四条です。
条文地方自治法244条
地方自治法244条 1項 普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設(これを公の施設という。)を設けるものとする。 2項 普通地方公共団体(次条第三項に規定する指定管理者を含む。次項において同じ。)は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。 3項 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。
一項は、公の施設とは何かを、定義しています。二項が、核心です。正当な理由がない限り、利用を拒んではならない。逆に言えば、正当な理由があれば拒めます。だから、何が「正当な理由」かが、これから争いになります。もう一つ、見てほしいところがあります。二項の、この括弧書きです。「次条第三項に規定する指定管理者を含む」とあります。公共施設の中には、民間に管理を委ねているものがあります。この括弧書きがあるおかげで、管理者が民間であっても、同じ縛りが及びます。民間だから拒める、という抜け道は、ありません。三項も、押さえておきましょう。利用について、不当な差別的取扱いを、してはならない、とあります。この二つの条文が、これから見る、市民会館の事件の土台になります。
泉佐野市民会館事件①——保障ないし制約から審査基準へ
図:泉佐野市民会館事件の関係図
- A=集会を主催しようとした団体・関西空港建設反対運動を担う
- B=Aと対立抗争を続けていた別のグループ
- C=泉佐野市民会館・利用許可を求められた施設の管理者
- Aが集会のため会館の使用を申請、Cが条例の「公の秩序をみだすおそれ」を理由に不許可、AがCを訴えた
では、三本柱の一つ目を、正面から詰めていきます。泉佐野市民会館事件です。ある団体、図のAが、関西の新しい空港の建設に反対する決起集会のために——泉佐野市民会館の、使用許可を申請しました。ところが、市は、これを不許可としました。理由は、条例の「公の秩序をみだすおそれがある場合」という規定でした。ここで、まず、最初の関門があります。そもそも、この「利用させろ」という主張は、憲法上、保障されているのか。そして、市が拒否できるのは、どんな場合なのか。最高裁の判断を、順番に追っていきます。まず、保障ないし制約の場面です。判決文を見てください。
判例最判平成7年3月7日
泉佐野市民会館事件——住民は原則として利用を認められる 地方自治法二四四条にいう普通地方公共団体の公の施設として、本件会館のように集会の用に供する施設が設けられている場合、住民は、その施設の設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになるので、管理者が正当な理由なくその利用を拒否するときは、憲法の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれが生ずることになる。
さっき見た、地方自治法二百四十四条が、ここで、そのまま効いています。集会に使う施設が設けられている以上——貸すか貸さないかを、市がゼロから選べるわけではない、ということです。そして、正当な理由なく拒否すれば——憲法が保障する、集会の自由の、不当な制限に、つながる。こう、はっきり述べています。では、どんな場合なら拒否できるのか。審査基準の場面に移ります。
判例最判平成7年3月7日
泉佐野市民会館事件——利用を拒否できる場合と審査基準 利用を拒否し得るのは、利用の希望が競合する場合のほかは、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られるものというべきであり……右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。 このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない。
拒否できるのは、限られた場合だけです。他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合。そして、その判断のしかたが書いてあります。集会の自由の重要性と、侵害されるおそれのある権利の内容・危険性の程度を——較量して決める。両方の重さを、比べる。比較衡量です。そして、もう一文、続きます。ここが、今日の最初の落とし穴です。精神的自由を制約するのだから——経済的自由の制約における以上に、厳格な基準の下に、しなければならない。これは、前に習った、いちばん厳しい目盛りの話だと思いますよね。でも、ここは慎重に読む必要があります。以前、目盛りと、天秤の見分け方を、作りましたね。法律そのものを測るときは、目盛り。目の前の一つの処分を測るときは、天秤、でした。
今、ここで、最高裁がしているのは、どちらですか。法律そのものではなく、目の前の、この不許可処分の話です。だとすれば、これは、天秤の場面です。目盛りを、三層のどれかに固定した、という話ではありません。「厳格な基準」という言葉は、天秤を、重く傾ける、という意味です。実際、判決文のこのあとにも——三層のどれかを名指しした言葉は、一度も出てきません。集会の自由の重さと、侵害される利益の重さを、丁寧に較量する。それを、いつもより慎重にやる。それが、「厳格な基準」の中身です。前に習った目盛りを、否定しているわけでは、ありません。使う場所が違うだけです。法律そのものの合憲性を、まるごと測るときは、目盛り。目の前の一つの処分の当てはめを決めるときは、天秤。今日は、後者です。
泉佐野②——ルールは勝ち、結論は負けた
図:合憲限定解釈の作業
- 「公の秩序をみだすおそれ」を「明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見される場合」に絞り込む
- 文言をそのまま使えば不明確になっていた可能性への言及
では、実際に、この事件では、どう判断されたのか。続きを見ましょう。条例の文言は、「公の秩序をみだすおそれがある場合」でした。広すぎる文言は、以前、別の回で見た問題を思い出させませんか。曖昧で、不明確だ、という話に、なりそうですよね。ここで、最高裁は、ある手法を使います。
判例最判平成7年3月7日
泉佐野市民会館事件——合憲限定解釈 単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である。
「公の秩序をみだすおそれ」を、そのままの広さでは使いません。単なる、危険が起きるかもしれない、というだけでは足りない。明らかで、差し迫った危険の発生が、具体的に予見される場合に限る。そこまで狭く、絞り込みました。これ、覚えがありませんか。合憲限定解釈です。ここでも、また使われています。定義は、繰り返しません。あの回で一度使った道具が、また出てきた形です。手法そのものは、違憲審査のしくみを扱う回で、正面から扱います。この絞り込みのおかげで、条例の文言そのものは、合憲だと判断されました。集会の自由は、ルールとしては、勝ちです。ここまでは。では、この絞られたルールを、事件そのものに当てはめます。
判例最判平成7年3月7日
泉佐野市民会館事件——あてはめ 本件集会の実質上の主催者と目されるG派は、関西新空港建設反対運動の主導権をめぐって他のグループと過激な対立抗争を続けており、他のグループの集会を攻撃して妨害し、更には人身に危害を加える事件も引き起こしていたのであって、これに対し他のグループから報復、襲撃を受ける危険があった……本件会館の職員、通行人、付近住民等の生命、身体又は財産が侵害されるという事態を生ずることが、具体的に明らかに予見されることを理由とするものと認められる。
図の、Aに当たる団体は——別のグループと、過激な対立抗争を続けていて——相手の集会を攻撃し、妨害し、人身に危害を加える事件まで起こしていました。だから、報復や、襲撃を受ける危険があった。会館の職員や、通行人、付近の住民の生命や身体が侵害される事態が——具体的に、明らかに予見された。そう認定されました。だから、不許可は適法だと結論づけられました。
図:判例の射程は結論ではなく規範に乗る
- ルールは絞られて集会側に厚くなった=勝ち
- その絞られたルールに当てはめた結果、この事件はたまたま例外に当たった=負け
集会は、開けませんでした。なのに、この判例は、集会の自由の味方のように扱われます。ここが、この回の読み方の土台になります。少し整理しましょう。ルールと、結論を分けて見てください。ルールは、狭く絞られました。条例は、簡単には集会を拒めない、という形になりました。ここは、集会の自由の勝ちです。ところが、その絞られたルールに、この事件を当てはめたら——たまたま、例外に当たってしまった。だから、結論は、集会の自由の負けです。ルールは勝って、結論は負けた。この二つは、両立します。矛盾では、ありません。ここで、覚えておいてほしいことがあります。判例を読むときに、大事なのは——この事件が、勝ったか負けたか、ではありません。どんなルールを、立てたか、です。
判例の射程は、結論では、なく——規範の、ほうに、乗っています。
⭐ 論文で書く規範:判例の射程は、結論ではなく規範に乗る 泉佐野市民会館事件は、集会の自由の主張が退けられた事件である。しかし最高裁が示したのは「明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見される場合に限り拒否できる」という、狭く絞られたルール(規範)だった。このルール自体は、集会の自由に厚い規範である。あてはめの結果、本件の団体側にたまたま具体的な危険が認定されたため、結論だけが負けになった。 答案で判例を使うときは、「勝ったか負けたか」ではなく「どんな規範を立てたか」を抽出し、その規範を自分の事案に当てはめる。負けた事件だからといって規範まで軽く扱うと、射程を見誤る。 (整理(判例の読み方=規範を抽出してから当てはめる))
だから、この判例を使うときは——「負けた判例だから、集会に厳しい」と、決めつけないでください。抽出すべきなのは、あの、絞られたルールです。そのルールを、自分の事案に、当てはめ直す。それが、判例の使い方です。この読み方は、これから答案を書くときも、ずっと使えます。
誰から出た危険か——敵意ある聴衆
図:泉佐野の傍論
- 反対する他のグループが実力で妨害するおそれを理由に利用を拒むことは二十一条の趣旨に反する
- 危険の出どころという新しい軸
続いて、三本柱の二つ目です。人がぶつかる、という話です。実は、さっきの泉佐野の判決文には——まだ紹介していない、もう一つの大事な一文があります。この一文は、事件の結論を出すのに必須の部分ではありません。傍論と呼ばれる部分です。
判例最判平成7年3月7日
泉佐野市民会館事件——敵意ある聴衆の原則(傍論) 主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法二一条の趣旨に反するところである。
主催者は、平穏に集会を開こうとしている。なのに、その集会に反対する別のグループが——実力で妨害しようとしている。そのおそれを理由に——施設の利用を拒むのは、憲法二十一条の趣旨に反する。さっきは、危険があるから不許可でいい、という話でした。逆の話に見えますよね。そこが、今日いちばんの山場です。一見、同じ「危険」の話に見えます。でも、危険の出どころが違います。さっきの泉佐野の事件で、危険を生んでいたのは、誰でしたか。危険は、主催者の側から出ていました。ところが、今見た一文は——反対する、別のグループの側から危険が出た場合の話です。反対する人が妨害する、という理由では、拒めない、ということです。ここに、この構図を、もう一度当てましょう。実際に、この構図が正面から争われた事件があります。
図:上尾市福祉会館事件の関係図
- A=合同葬を主催しようとした団体・労働組合の幹部を追悼する集会
- B=この葬儀に反対する者ら・実力で妨害するおそれがあると懸念された
- C=上尾市福祉会館・市長が使用を不許可とした、理由は反対者らの妨害による混乱への懸念
上尾市福祉会館事件です。ある労働組合の幹部が、殺害される事件がありました。亡くなった幹部を追悼する合同葬のために——図のAが、上尾市福祉会館の使用を申請しました。ここで、思い出してください。さっき、目的は何でもいい、というところで触れましたね。冠婚葬祭も「集会」に含まれる。この事件が、その実例です。ところが、市長は、これを不許可としました。理由は、反対する者らが実力で妨害するおそれがある、という懸念でした。危険は、反対する側から出ています。ここで、一度、皆さんにも考えてもらいたい場面を置いておきます。具体的に、考えてみましょう。ある町の公民館を借りて、大学のサークルが——「駅前再開発は、本当に必要か」という、公開討論会を開こうとしました。
ところが、再開発を推進したい地元業者の団体が——「討論会を実力で妨害する」と、役所に通告してきました。公民館の担当者は、混乱を避けるためとして——討論会の許可を、出さない。そう言える、でしょうか。ここで、一緒に考えてみてください。反対する人が、「妨害する」と言っているだけで——貸さないことが通るとしたら——何が、起きるでしょうか。気に入らない意見の集まりは、相手が「妨害するぞ」と一言言うだけで、潰せることになります。反対されるほど、自由が縮む、という仕組みを認めると——そうなってしまいます。これ、実は、以前、別の場面で見た考え方の裏返しです。表現の自由が、なぜ大事か。思想の自由市場、でしたね。
妨害予告一つで、集会を潰せてしまったら——その、市場そのものが、壊れます。市場を壊す側に、拒否権を渡すわけには、いきません。では、最高裁は、実際の事件で、どう判断したか、見てみましょう。
判例最判平成8年3月15日
上尾市福祉会館事件——敵意ある聴衆の法理 主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。
反対する人が妨害しようとするおそれを理由に——利用を拒めるのは——警察の警備などによっても、なお混乱を防止できない。そういう、特別な事情がある場合に限られる。原則は拒めません。例外的に、特別な事情がある場合だけ拒めます。この考え方には、名前が付いています。敵意ある聴衆の法理、と呼ばれます。敵対的な聴衆、と呼ばれることもあります。この事件は、結局、特別な事情の認定がないまま——不許可は違法だと判断されました。
図:出どころ対比板
- 泉佐野=主催者側から出た危険は原則拒否可
- 上尾=反対する側から出た危険は原則拒否不可・例外は警備でも防げない特別な事情
ここで、泉佐野と、上尾を、並べてみましょう。泉佐野は、主催者の側から、具体的な危険が出ていました。だから、拒否は許されました。上尾は、反対する側から、危険が出ていました。だから、拒否は、原則として、許されません。答案でも、まず、これを仕分けてください。危険は、主催者側から出ているのか、反対する側から出ているのか。それで、当てる規範が変わります。一人で喋るだけなら、こんな仕分けは、要りません。人がぶつかるからこそ、出てくる問題です。集まる自由が、一人の表現の足し算ではない、という意味が、ここに出ています。
⭐ 論文で書く規範:誰から出た危険かで、扱いが逆転する 危険を理由に公共施設の利用を拒否できるかは、危険の出どころで結論が逆になる。主催者側から具体的な危険が出ている場合(泉佐野)は、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されるなら拒否できる。反対する側から実力での妨害のおそれが出ている場合(上尾=敵意ある聴衆の法理)は、原則として拒否できず、警察の警備等によってもなお混乱を防止できない特別な事情がある場合に限り拒否できる。 反対されるほど自由が縮む仕組みを認めれば、気に入らない集会は妨害予告だけで潰せてしまう。市場を壊す側に拒否権を渡さない、という考え方が、この逆転の理由である。 (整理(危険の出どころで規範が変わる))
動く集会——許可制と届出制、どちらが原則か
図:許可制と届出制の向き
- 許可制=原則できない・役所が許可したときだけできる
- 届出制=原則できる・事前に知らせておく
- 論証二十六の三条件(①許可基準の明確性②不許可事由の限定③救済手続・許可推定条項)
二つ目の柱には、もう一つ、形の違う場面があります。さっき、少し触れた、集団行進です。これも、公共施設と同じように——道路を使わないと成立しません。だから、条例で規制されています。ここで、大事な問いがあります。集団行進を規制する条例には、大きく二つの形があります。許可制と、届出制です。許可制は、「原則、できない。役所が許可したときだけできる」という形です。届出制は、「原則、できる。ただし、事前に知らせておく」という形です。この、原則と例外の向きの問題、実は、以前も見ましたね。事前抑制の、あの回です。出す前に止めるのが、なぜ特別に危ないか——あそこで詰めましたね。原則は、自由に出せる側にある、という話でした。
だから、集団行進も、原則は届出制側にあるべきだ、と考えられています。とはいえ、許可制の文言を使った条例が、すべて違憲というわけではありません。三つの条件を満たせば、実質的に届出制と同じだと扱われます。一つ、許可の基準が明確であること。二つ、不許可にできる事由が限定されていること。三つ、救済の手続や、許可を推定する規定があること。許可も不許可も出ないままのときに、許可されたものとみなす。そういう規定です。この三条件は、論文の道具として、論証二十六、と呼ばれます。集団行進には、少なくとも、真ん中の段の物差しが妥当するとされています。以前の回で作った、もっと制限の少ない手段がないかを問う段です。では、この三条件が、実際にどう使われたのか。次で見ていきましょう。
昭和三十五年の判決だけ、前提が違う
図:東京都公安条例事件の骨格
- 東京都の条例が集団行進の許可制を採用
- 条例の合憲性が争われた
- 昭和三十五年の判決という時期
集団行進の規制が、正面から争われた事件があります。東京都公安条例事件です。東京都の条例は、集団行進をするなら、公安委員会から許可をもらえ、という仕組みでした。この条例が、憲法に反しないか、争われました。最高裁は、まず、こう述べます。
判例最大判昭和三十五年七月二十日
東京都公安条例事件——集団暴徒化論 平穏静粛な集団であつても、時に昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によつて法と秩序を蹂躪し……
平穏な集団でも、時に昂奮し、激昂する。ひどいときには、一瞬にして暴徒に化す。集団それ自体を危険視する。この考え方には、名前があります。集団暴徒化論、と呼ばれます。この前提から、最高裁は、条例の許可制を正当化します。
判例最大判昭和三十五年七月二十日
東京都公安条例事件——実質において届出制 本条例は規定の文面上では許可制を採用しているが、この許可制はその実質において届出制とことなるところがない。
文面は許可制でも、実質は届出制と変わらない。そう述べて、条例を、合憲としました。さっきの、論証二十六の三条件を通した、と見ることもできます。条例の許可基準は——「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」の外は——許可しなければならない、と定めていました。だから、実質、届出制だ、と判断されました。では、この判決は、集団行進に厳しいのか。この判決だけ、前提が、そもそも違います。現在地を、ここで確定しておきましょう。少し、後の判例と比べてみましょう。泉佐野も、上尾も、そして成田新法の判決も——どれも、集会の自由は重要な人権だ、という前提から始まっていました。成田新法の判示は、まだ見ていませんでしたね。少し先取りして、見ておきましょう。
判例最大判平成4年7月1日
成田新法事件——集会の自由の重要性 集会は、国民が様々な意見や情報等に接することにより自己の思想や人格を形成、発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流する場として必要であり、さらに、対外的に意見を表明するための有効な手段であるから、憲法二一条一項の保障する集会の自由は、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならないものである。
自分の考えを、形成し、発展させる場として、必要だ。そして、意見を伝え合う、交流の場としても、必要だ。さらに、対外的に意見を表明する、有効な手段でもある。だから、集会の自由は、民主主義社会で特に尊重されなければならない。自分の考えを形成し、発展させる。これは、自己実現の価値です。そして、対外的に意見を表明する、有効な手段だ。これは、自己統治の価値です。厳密に言うと、「自己実現」「自己統治」という言葉そのものは——判決文には出てきません。ただ、書かれている中身は——学説でいう自己実現と自己統治と、ちょうど同じです。
なお、この事件そのものの中身——工作物の使用を禁止する命令が争われた事件でしたが——それは、また、別の回で正面から扱います。今日、借りるのは、この意義の部分だけです。さて、戻りましょう。集団暴徒化論と、この成田新法の言葉。並べてみると、正反対です。片方は、集会は危ない。もう片方は、集会は大事だ。同じ最高裁の判例の中に——正反対の前提を持つ判決が、並んで生きています。ここで、大事な事実を確認します。この、昭和三十五年の判決を変更する、という判示は——どこにも出ていません。判例変更は、されていません。だから、今も生きています。ただし、学説からは、批判があります。二つ、紹介しましょう。
図:批判2つと現在地
- ①規模・態様を区別せず一律に危険視すれば集会の自由の意義が失われる②許可基準は本当に明確だったのか・許可推定条項が無いなら実質届出制とは言えない
- 今の答案の書き方=論証二十六の三条件を丁寧に検討する
一つ目。規模や、態様を区別せず——一律に危険視してしまうと——集会の自由の意義そのものが、失われてしまう、という批判です。二つ目。東京都の条例の許可基準は——本当に明確だったのか、という批判です。これは、以前、条文の曖昧さを扱った回で作った——明確性の原則を、そのまま当てる批判です。許可を推定する条項も無いなら——「実質において届出制」とは、言えないのではないか、という指摘です。この二つの批判は、覚えておいてください。では、今の現在地を、確定しておきましょう。集団行進を規制する条例は——この、昭和三十五年の判断枠組みが、今も、条文上は生きています。ただし、実際の答案では——さっき見た、論証二十六の三条件を、丁寧に検討することが求められます。許可基準は明確か。不許可の事由は限定されているか。救済の手続や、許可を推定する規定は、あるか。この三つを、一つずつ確かめる。それが、今の答案の書き方です。
そして、あの物差しが、ここにも来ていた
図:広島市暴走族追放条例事件の骨格
- 市長が中止・退去を命令できる条例
- 被告人は命令に違反したとして処罰された
- 条例の「暴走族」の定義が広すぎるとして二十一条一項違反が争われた
さて、三本柱の二つ目の、最後の場面です。もう一つ、集団の危険が問題になった事件があります。広島市の、暴走族追放条例です。暴走族の話も、集会の話につながります。広島市の条例は——市長が、暴走族に対して、中止や退去を命令できる、と定めていました。この事件の被告人は、この命令に違反したとして、処罰されました。ここで、被告人側は、こう主張しました。条例の「暴走族」の定義が広すぎて、二十一条一項に違反する、と。実際、条例の文言だけを見ると、かなり広く読めました。ところが、最高裁は、ここでも、また、あの手法を使います。
判例最判平成19年9月18日
広島市暴走族追放条例事件——合憲限定解釈 本条例が規制の対象としている「暴走族」は,本条例2条7号の定義にもかかわらず,暴走行為を目的として結成された集団である本来的な意味における暴走族の外には,服装,旗,言動などにおいてこのような暴走族に類似し社会通念上これと同視することができる集団に限られるものと解され……
また、合憲限定解釈です。条文の広い定義を、そのままには使いません。本来の意味の暴走族と、それに類似して社会通念上同視できる集団に、限定して解釈する。そうすることで、条例を、合憲としました。そのうえで、最高裁は、こう続けます。
判例最判平成19年9月18日
広島市暴走族追放条例事件——三要素と、猿払・成田新法の引用 規制目的の正当性,弊害防止手段としての合理性,この規制により得られる利益と失われる利益との均衡の観点に照らし,いまだ憲法21条1項,31条に違反するとまではいえない……最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決……,最高裁昭和61年(行ツ)第11号平成4年7月1日大法廷判決……の趣旨に徴して明らかである。
目的、手段、均衡。この数え方は、前に、公務員の場面で見た、あの三つの要素と同じです。あの物差しが、ここにも来ています。一つ目は、規制目的が正当かどうか。二つ目は、弊害を防ぐ手段として、合理的かどうか。三つ目は、得られる利益と、失われる利益の均衡です。さっきの限定解釈が、ここで効いています。命令をかけられるのは、本来の意味の暴走族と——服装や旗や言動で、それと同視できる集団だけです。逆に言うと、そこに当たらない集まりには、中止も退去も、命じられません。文言のままなら入っていたはずの集まりが、外れます。そのうえで、三つを並べて——いまだ二十一条一項にも、三十一条にも違反するとまではいえない。そう結論づけました。
しかも、判決文には、これを裏付ける引用まであります。猿払事件の判決と、成田新法事件の判決を、事件番号で引いています。そのうえで、「その趣旨に徴して明らかである」と述べています。ここで、一つ、正確に押さえておきたいことがあります。この判決文には——「間接的、付随的」という言葉も——「猿払基準」という呼び方も——一度も出てきません。判決がしているのは——あの二つの判決を、事件番号で引いて——「その趣旨に徴して明らかである」と述べているだけです。独自の言葉で、三つの要素を、組み立て直しています。だから、この事件を「猿払基準を使った」と答案に書くのは、正確では、ありません。判文が、そう名乗っているわけではないからです。ここは、区別して覚えてください。判文が、書いていること。それと——教材が、この判決を、どう位置づけているか、ということ。基本書は、しばしば、こう位置づけます。「猿払の緩やかな基準と、間接的・付随的制約論が、一般国民の集会規制にまで引き継がれた」と。これは、教材の評価です。判文の逐語では、ありません。
答案では、判文の言葉と、評価の言葉を、混ぜないでください。
⭐ 論文で書く規範:判文が書いていることと、教材の位置づけを混ぜない 広島市暴走族追放条例事件の判決文には、「間接的、付随的」という言葉も「猿払基準」という呼び方も出てこない。判決がしているのは、猿払事件・成田新法事件を事件番号で引用し、「その趣旨に徴して明らかである」と述べたうえで、規制目的の正当性・弊害防止手段としての合理性・得られる利益と失われる利益との均衡という三要素で判断することだけである。 「猿払の緩やかな基準がここに引き継がれた」という位置づけは、教材(基本書)による評価であって、判決文の逐語ではない。答案では「判例はこう位置づけられている」と書くべきところを、「判例はこう述べている」と鉤括弧で書かないよう区別する。 (整理(判文の逐語と、教材の評価は別))
続けます。反対意見も、付いていました。二人の裁判官です。法廷意見では、ありません。そこは、正確に。なお、多数意見に賛成する、補足意見も、別に付いています。混同しないよう、気をつけてください。まとめましょう。この事件は、一般の国民が対象でした。公務員でも、裁判官でも、ありません。それでも、あの、三つの要素の物差しが、そのまま届きました。前回、この物差しが、公務員の外へ、どこまで歩いたかを見ましたね。今日、行き着いた先が、ここです。集会の場面にまで、来ていました。
続けて結びつく——結社の自由と、その内容五つ
図:結社の内容五つ
- ①結成・不結成の自由②加入・不加入の自由③脱退の自由④団体の意思決定への参加の自由⑤構成員への懲戒権=内部統制権
- 宗教的結社は二十条一項前段、労働組合の結成は二十八条で別建て
さて、三本柱の最後です。続けると内部ができる、という話です。ここから、結社の自由に入ります。もう一度、定義を確認しましょう。「結社」とは、多数人が、共通の目的をもって、継続的に結合することです。集会は、基本、一回きり。結社は、続いていきます。会社、政党、労働組合、サークル、同窓会——どれも、この「結社」に当たります。結社の自由には、いくつかの中身が含まれます。全部で五つです。一つ、結成する自由、そして結成しない自由。二つ、加入する自由、そして加入しない自由。三つ、脱退する自由。四つ、団体の意思決定に加わる自由。五つ、そして、構成員を懲戒する権限です。内部統制権と呼ばれます。
最後の内部統制権だけ、少し毛色が違います。そこが、次の話につながります。なお、宗教的な結社は、実は、二十条一項前段で別建てに保障されます。労働組合の結成は、二十八条で別建てです。どちらも、それぞれ別の回で、正面から扱います。今日は、結社の自由一般の話として進めます。さて、ここで、一つ、気になる組み合わせがあります。「加入しない自由」があるはずなのに——世の中には、加入しなければ仕事ができない団体があります。強制加入団体です。以前、税理士会と司法書士会を扱った回で出てきましたね。強制加入団体だからこそ、効いた理屈がありました。会員の政治的な思想・信条までは、縛ることができない、という話でしたね。あの回は、団体の側から見た話でした。今日は、その同じ話を——結社の自由の側から、見直します。
結社の自由の捻れ——内部統制権と、破防法の補充性
図:自由の中に他人を縛る力がある
- 結社の自由は個人の自由のはず
- その内容に内部統制権=他人の自由を縛る権限が含まれる
- 強制加入団体は加入しない自由の直接の制約だが専門職の専門性・公共性という別の公共目的で正当化される
結社の自由には、不思議な捻れがあります。さっき見た内容の、五つ目です。内部統制権。よく考えてみてください。結社の自由は、個人の自由のはずです。なのに、その中身に——他人の自由を、縛る権限が含まれています。ここが、この回、最後の山です。具体的に、考えてみましょう。加入しない自由が、あるはずです。なのに、強制加入団体は、合憲だとされています。加入しない自由の、直接の制約のはずです。それでも、合憲とされるのは、なぜか。専門職としての専門性や、公共性から——別の公共の目的で、正当化されている、と説明されます。
あの回で、税理士会の側から見えた話が、今日は、加入する側から見えています。向きを変えると、同じ話が、こうつながります。内部統制権も、同じ捻れです。団体には、構成員を縛る力があります。でも、その力にも、限界があります。一つの、極端な例で、この限界を見てみましょう。破壊活動防止法です。この法律は、暴力的な破壊活動を行った団体に対して——段階的な規制を、用意しています。まず、五条一項です。条文が長いので、中身をかいつまんでお伝えします。集団示威運動や、集団行進、公開の集会を——六か月を超えない期間、禁止する。機関紙の発行を禁止する。役職員の行為を禁止する。こういった、活動の一部を制限する処分ができます。
期間を区切った、一部の制限です。そして、これでも足りないときに、初めて、次の段階に進みます。
条文破壊活動防止法7条
破壊活動防止法7条 公安審査委員会は、左に掲げる団体が継続又は反覆して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由があり、且つ、第五条第一項の処分によつては、そのおそれを有効に除去することができないと認められるときは、当該団体に対して、解散の指定を行うことができる。
七条です。ここに、団体を解散させる、指定の規定があります。かなり重い処分です。だから、条文は、簡単にはこれを許しません。見てください。「且つ」でつながれた、もう一つの要件があります。五条一項の処分では——そのおそれを、有効に除去できないと、認められるとき。解散は、いきなりは使えません。まず、五条一項の一部制限を、試す。それでも、危険が除去できないと認められて、初めて——解散の指定に進めます。この要件、専門用語で、補充性と呼ばれます。五条一項では足りないときに限る。それが、補充性です。教材では、「暴力主義的破壊活動を行った団体に、解散の指定ができる」とだけ説明されていることがあります。それは、条文の半分しか、伝えていません。この、補充性の要件が抜け落ちると——意味が変わってしまいます。解散は、いつでも使える最初の手段では、ありません。最後の手段として、初めて組み立てられています。
では、この補充性を知っていると、何が変わるのか。学説には、この法律の違憲説が有力です。補充性の要件を、正しく押さえたうえで、なお違憲だ、と主張することになります。段階を踏んでも、なお、これほど重い制約を——団体の存立そのものに、及ぼしてよいのか、という主張です。実施の機関も、確認しておきましょう。指定を行うのは、公安審査委員会です。公安調査庁では、ありません。ここも、よく間違えられます。ここまでが、結社の自由の捻れです。自由の中に、他人を縛る権限が入っている。その権限にも、限界がある。今日は、この二つの捻れを見ました。では、なぜ、これは矛盾ではないのか。五つの中身を、もう一度、思い出してください。縛る力の中身は、構成員が自分たちで決めたことを、守らせる、という形です。四つ目の、意思決定に加わる自由と、五つ目は、つながっています。
しかも、加入しない自由も、脱退の自由も、同じ五つの中に並んでいます。嫌なら入らない、抜ける。その道が残っているから、矛盾にはなりません。強制加入団体では、そこだけ、その道が塞がっています。だから、別の正当化が要りましたし——思想・信条までは縛れない、という限界も出てきます。なお、この内部統制権は——政党が、党員を除名する場面や——労働組合が、組合員を統制処分する場面にも——そのまま、つながっていきます。それぞれ、別の回で正面から扱います。
今日の地図(保存版)
図:三本柱まとめ
- 場所が要る=利用を要求できる権利、判例の射程は規範に乗る
- 人がぶつかる=危険の出どころで扱いが逆転、原則と例外の向き、判例変更されていない現在地、三要素の物差しが一般国民の集会にまで到達
- 続けると内部ができる=内部統制権とその限界
最後に、今日の話をまとめましょう。冒頭の一問に戻ります。集まる自由は、なぜ、一人の表現の自由の足し算では、ないのか。三つの性質があるから、でしたね。一つずつ、振り返りましょう。一つ目、場所が要ること。貸してもらえなければ、それだけで、封じられます。だから、自由権だけでは足りず、利用を要求できる権利が必要になりました。泉佐野の事件で、この権利の輪郭を見ましたね。判例の射程は、結論では、なく——規範に乗っている。ここも、思い出してください。二つ目、人がぶつかること。危険の出どころで、扱いが逆転しました。主催者側から出た危険なら、拒否できる。反対する側から出た危険なら、原則、拒否できない。
集団行進では、原則と例外の向きも確認しました。そして、昭和三十五年の判決だけ、集団それ自体を危険視する前提でした。今も、判例変更は、されていません。現在地を、正確に押さえておいてください。公務員の場面で作られた物差しが、一般の国民の集会にまで来ていました。三つ目、続けると内部ができること。結社の自由には、内部統制権という、他人を縛る力が含まれていました。その力にも限界がある。破防法の補充性で確認しましたね。だから、集まる自由は、一人の表現の自由の足し算では、ありません。場所、衝突、内部という、固有の問題を抱えているからです。最後に、もう一度、条文に戻りましょう。
条文日本国憲法21条1項
憲法21条1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
集会、結社、言論、出版、その他一切の表現の自由。この四つを、今日で、ようやく全部、通しました。ここまでは、考える、信じる、言うという——心の側の自由を見てきました。次は、少し場所を変えます。食べていくための自由——経済的自由に入ります。楽しみにしていてください。
参照条文
- 日本国憲法21条1項
- 地方自治法244条
- 破壊活動防止法7条