権利はある。それでも、通らない——権利濫用
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第1章 民法総則 ⑪/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
今日の地図(保存版)
図:今日の地図
- 三本の柱・柱自身の制限・1条と信義則は名前と一行で再掲
- 権利はあってもそれが通るとは限らないという今日配るもの
少し、これまでの話を、振り返っておきます。民法は、人の自由を、所有権絶対、契約自由、過失責任という、三本の柱で、立てていました。そして、その柱を定めた条文自身に、最初から、制限が、書き込まれていました。そして、個別の法律が届かない場面のために、民法1条があり、そこに、信義則という考え方が、備わっていました。では、前回、その信義則から生まれた二つの考え方も、思い出せますか。守っているものが違いましたね。何と何だったでしょうか?禁反言とクリーンハンズ——相手の信頼と、法秩序そのものでしたね。そして、前に、一つ、問いを、残していました。条文にも反していない、正当な権利の行使、そのものが、通らなくなることは、あるのか。
今日は、その1条の、もう一つの中身に、入っていきます。今日、配るのは、これです。権利は、ある。それでも、通らないことがある。順番に、見ていきましょう。
権利はある。それでも、通らない
図:権利濫用の入口
- 権利はある。それでも、通らないことがある
- これから見る二つの事件はどちらも大審院の時代の判断
ここで、さきほどの1条に、戻ります。1条は、三つの項に分かれていて、二項が、いま出てきた信義則。三項が、今日の本体です。「権利の濫用は、これを許さない」。これが、権利濫用です。乱暴に使う、というイメージは、近いです。正確には、いくら権利を持っていても、その使い方が行き過ぎていれば、その行使は認めない、という考え方です。ここが、大事な点です。権利があるかどうかと、その権利が通るかどうかは、別の問いになります。そこが、この条文の狙いです。権利を持つ場面と、権利を使う場面は、起きていることが違うからです。権利を持つかどうかは、その人ひとりの話です。ところが、権利を使う場面には、必ず、相手や周りがいます。だから民法は、持つところまでは広く認めておいて、使う場面でだけ、行き過ぎを止めるという組み立てにしました。
持つ資格を奪うと、その人の自由そのものが削られます。使い方だけを見れば、自由を残したまま、行き過ぎだけを止められます。この後、大審院——今の最高裁にあたる、当時の裁判所が出した、二つの有名な事件を、見ていきます。どちらも、まさに、権利はあるのに、通らなかった場面です。
判例①——濫用だから、賠償を払う側
図:信玄公旗掛松事件の要約板
- 原告は松の持ち主・被告は国・請求は不法行為に基づく損害賠償・結論は賠償を認める
- 蒸気機関車の煤煙と振動で由緒ある松が枯れたという事案
一つ目は、信玄公旗掛松事件と呼ばれる事件です。武田信玄が、かつて旗を立てかけたと伝わる、由緒ある松の木が、舞台になります。その松のそばを、蒸気機関車が、走っていました。機関車が出す、煤煙や、振動が、長年、松に、ダメージを与え続けていました。そして、ついに、その松は、枯れてしまいました。松の持ち主は、機関車を走らせていた、国を相手取り、損害賠償を求めて、訴えを起こしました。根拠になったのが、この条文です。
条文民法709条
民法 第709条(不法行為による損害賠償) 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
故意や過失があったかどうかを見る、その手前が、争いになりました。国からすれば、鉄道を走らせるのは、正当な事業です。鉄道を走らせる権利、自体は、あります。権利は、あるんです。だから、国の言い分は、こうなります。権利を使ってやったことなら、責任は、負わない。そういう理屈です。争点は、そこでした。「権利の行使だ」と言えれば、709条の責任から、外れるのか。大審院の答えは、こうです。国による、この権利の行使には、濫用があった。濫用にあたる以上、「権利を使っただけだ」という言い分は、通りません。だから、不法行為の責任を認めました。
判例大判大正8年3月3日(民録25輯356頁)
信玄公旗掛松事件——権利の行使に、濫用があった 蒸気機関車の煤煙・振動により、由緒ある松が枯死したとして、松の所有者が、国を相手に、不法行為に基づく損害賠償を求めた事件。大審院は、国による権利の行使に濫用があったとして、国の不法行為責任を肯定した。
鉄道を走らせて得られるものと、松の持ち主が失ったもの——この二つを並べると、あまりに、開きがあります。鉄道を走らせる権利があるからといって、由緒ある松を、なすすべなく枯らしてよい、ということには、なりません。この事件では、濫用が認められた結果、国が、賠償を払う側になりました。この形を、覚えておいてください。もう一つの事件と、あとで、対比します。
判例②——濫用だから、請求が通らない側
図:宇奈月温泉事件の関係図
- Aは温泉の経営者・Bは元の地主・Cは土地を買い取った人
- Aが設置した木のパイプの一部がBの土地のごく一部を通っていたという事案
二つ目は、宇奈月温泉事件です。富山県の温泉地の名前です。ここに、温泉を経営していた人を、Aとします。Aは、山の源泉から、温泉まで、お湯を引くための、木のパイプを、設置していました。ところが、そのパイプの、ごく一部が、別の人が所有する土地を通っていました。この土地の持ち主を、Bとします。ここに、Cという人物が、登場します。Cは、Bから、その土地を、買い取りました。Cの狙いは、まさに、そこです。木のパイプが、その土地を通っている、という一点を利用して、Aに、木のパイプを撤去するか、さもなければ、高額で買い取れ、と迫りました。
Aが応じなかったため、Cは、裁判に訴え出ました。ここで、Cが持ち出した権利、前に、名前を聞いたことがありますよね。自分の土地に、他人の物が入り込んでいるとき、それを取り除いてほしい、と言える権利です。妨害排除請求権——物権的請求権の一つとして、以前、配った権利ですね。Cは、木のパイプを撤去してほしい、と、まさに、妨害排除請求権を使って、訴えました。ところが、大審院の判断は、違いました。Cによる、除去の請求を、権利濫用にあたるとして、退けました。
判例大判昭和10年10月5日(民集14巻1965頁)
宇奈月温泉事件——除去請求は、権利の濫用にあたる 引湯管の一部が、他人の所有地のごく一部を通っていたことを理由に、その土地を買い取った者が、除去を請求した事件。大審院は、この除去請求は権利の濫用にあたるとして、請求を棄却した。
理由は、いくつかあります。パイプが横切っているのは、Cの土地の、ごく一部だけでした。撤去するとなれば、Aが負担する費用は、莫大です。それに対して、Cが実際に受ける不利益は、わずかでした。しかも、Cは、その事情を知ったうえで、あえて土地を買い取り、高額な買取りを狙っていました。権利はあるんです。自分の土地に、他人のパイプが入り込んでいる以上、除去を求める権利、自体は、たしかにあります。でも、その使い方が、権利濫用にあたるとされ、請求そのものが、通りませんでした。冒頭の、パイプをどけろと言えるか、という問い——その答えが、これです。
ちなみに、Cは、自分で、木のパイプを撤去したわけではなく、あくまで、裁判を起こしています。以前見た、自力救済の禁止のとおりですね。実力行使ではなく、あくまで、裁判という手続きを、選んでいます。では、この二つの事件を並べて、比べてみましょう。
山場——同じ「濫用」なのに、効果がまるで違う
図:二判例の効果の対比板
- 信玄公旗掛松は濫用だから賠償を払う側
- 宇奈月温泉は濫用だから請求が通らない側
- 濫用という同じ言葉が攻める側と守る側の両方で使われているという発見
信玄公旗掛松事件では、国の権利行使が濫用にあたるとされ、国が、賠償を払う側に、なりました。一方、宇奈月温泉事件では、Cの権利行使が濫用にあたるとされ、Cの請求が、通らない側に、なりました。ここが、山場です。同じ「濫用」というラベルが、まったく違う二つの場面で、使われています。信玄公旗掛松は、すでに起きてしまった損害を、清算する場面でした。だから、濫用があったことで、賠償という形で、責任を取らされます。宇奈月温泉は、これから権利行使を認めるかどうかを、判断する場面でした。だから、濫用があったことで、その行使自体が、認められません。
分かれ目は、濫用と言われた権利行使が、もう結果を出してしまったのか、それとも、これから裁判所に認めてもらうものなのかです。松は、すでに枯れています。今から止めても、戻りません。残っているのは、お金で清算することだけです。一方、パイプは、まだ、そこにあります。Cの請求は、これから認めてもらうものでした。だから、裁判所は、認めない、と言えば足ります。信玄公旗掛松では、濫用が、国を、攻める材料になりました。宇奈月温泉では、濫用が、Aを、守る盾になりました。それが、今日、この二つの事件を並べた、一番の理由です。では、次に、そもそも、どういうときに「濫用」と判断されるのか——その中身に、入っていきましょう。
山場——権利濫用の要件は、客観が主・主観は加重
図:境界ペアの板
- 害意なし×極端な不均衡は濫用になりうる
- 害意あり×釣り合っていればなりにくい
- 意地悪かどうかでは決まらないという核心
権利濫用に、あたるかどうか。これを判断するとき、何が、決め手になると思いますか。意地悪だったから濫用だ、と思いがちなんですが、それだけでは、ありません。ここが、今日、最後の山場です。判断は、基本的には、客観面——当事者どうしの、利益の釣り合いを、比べることから、始まります。そのうえで、主観面——相手を困らせようという、害意の有無も、考慮されます。ただし、これは、あくまで、加重する要素です。害意があれば、より、濫用と認められやすくなる、という位置づけです。害意が、無いと、絶対に濫用にならない、という意味では、ありません。
意地悪な気持ちが無くても、濫用になることは、あります。二つの場面を、比べてみましょう。一つ目。Xさんが、自分の土地に、隣のYさんの物置小屋の角が、10センチだけ、はみ出していることに、気づきました。Xさんは、Yさんに、恨みは、ありません。それでも、「越境は、越境だから」と、小屋を、全部、解体するよう、求めました。小屋の解体には、200万円かかります。その費用を負担するのは、Yさんです。それに対して、Xさんが実際に受けている不利益は、その10センチが使えないことだけです。害意は、無い。でも、得られる利益と、相手が被る不利益が、極端に釣り合っていません。この場合、権利濫用になりうる、と判断される可能性があります。
もう一つ、逆の場面も、見てみましょう。Mさんは、隣人のNさんと、過去にトラブルがあり、正直、少し、困らせたい気持ちも、ありました。Nさんの新しい塀が、Mさんの土地に、5センチだけ、はみ出していたので、作り直しを求めました。Nさんが負担する作り直しの費用は、Mさんが被る実害——駐車スペースが5センチ狭くなること——と比べて、それほど、大きくありません。害意は、ある。でも、得られる利益と、相手が被る不利益は、それなりに釣り合っています。この場合は、権利濫用には、なりにくい、と判断されます。
害意があるほうが濫用になりにくい、という話では、ありません。この二つを、並べてみてください。害意の有無と、濫用になるかどうかは、単純に、対応していません。決め手は、意地悪かどうかでは、ありません。決め手は、利益の釣り合いです。害意は、あくまで、そこに乗る、加重要素です。権利濫用は、「意地悪の禁止」ではありません。今日、いちばん、持ち帰ってほしいことの一つです。
権利濫用の効果は、三つ
図:効果3段の板
- 効果が生じない
- 不法行為になる
- 834条のような明文があるときだけ権利剥奪
- 濫用なら何でも権利を取り上げられるわけではないという歯止め
権利濫用と判断されたとき、その効果は、大きく、三つに分かれます。一つ目は、権利の行使の効果が、生じない。さっきの、宇奈月温泉事件の形です。除去を求める権利はあっても、その行使は、効果を持ちません。二つ目は、権利の行使が、不法行為になる。信玄公旗掛松事件の形です。行使したこと自体が、損害賠償の理由になります。そして、三つ目——権利そのものが、剥奪される場合も、あります。ただし、ここには、大事な歯止めがあります。明文がある場合に、限られます。たとえば、834条という条文があります。親が、子を虐待したときなどに、家庭裁判所が、その親の、親権を奪うことができる、という条文です。
でも、これは、834条という、はっきりした条文が、あるからこそ、できることです。「濫用だったから、権利を取り上げる」を、勝手に一般化してはいけません。三つ目の効果は、あくまで、明文があるときだけの、特別な話です。この歯止めは、必ず、覚えておいてください。
信義則と権利濫用——適用範囲は、区別するのか
図:適用範囲の板
- かつては信義則は債権法・権利濫用は物権法と区別する見解が有力だったが現在は区別しない見解が通説
- 判例も両者を厳格には区別していないという補足
ここで、一つだけ、補足しておきます。信義則と、権利濫用、この二つの適用される範囲についてです。かつては、「信義則は、主に、契約など、債権に関する場面で使う」「権利濫用は、主に、物権に関する場面で使う」と、区別する見解が、有力でした。信義則の二つは、約束をめぐる場面。権利濫用の二つは、土地の使い方をめぐる場面でした。ただ、現在は、そこまで厳格に、区別する必要は無い、という見解が、通説になっています。実際の場面では、どちらの性質も、混ざり合っていることが、多いからです。その後のいくつかの最高裁判例も、両方を、厳格には区別していません。
分けて学んだことが、無駄になったわけでは、ありません。まず、それぞれが、何を守っているのかを、はっきり分けて理解することが、最初の一歩です。そのうえで、実際の場面では、両方が、重なり合って働くこともある——そう捉えてください。では、今日、最後の話に、入ります。
決着——一般条項は、最後の道具
図:決着の板
- 個別条文をまず探し無い時やおかしい時に初めて1条という順序
- 前に置いた日当たりの問いをこの順序で解く
前に、もう一度、大事な形で戻ってくる、と言っておいた言葉があります。一般条項です。信義則も、権利濫用も、この一般条項の仲間です。特定の場面を狙い撃ちにせず、広く効く——だからこそ、ここで、大事な注意を、一つ、伝えます。一般条項は、便利な道具です。でも、便利だからといって、いきなり持ち出してよいわけでは、ありません。民法は、1000を超える条文を、持っています。何か問題が起きるたびに、「信義則だから」「権利濫用だから」と、いきなり結論を出してしまうと——その1000を超える条文が、無かったことになってしまいます。
だから、一般条項は、最後の道具です。まず、個別の条文を探す。それで、答えが出るなら、それで終わりです。条文が無い、あるいは、当てはめると、明らかにおかしい——そのときに、初めて、1条の出番になります。では、この順序で、三本の柱を見たときの、あの問いに、もう一段、答えましょう。自分の土地に、南隣の家の日当たりを、全部奪う建物を、建ててよいか。まず、個別の法律が、線を引きます。建築基準法には、建物の高さや、日当たりに関する規制が、あります。それでも、なお、問題が残る場合は、次に、不法行為の判断——今日見た、709条の枠組みで、考えます。ここは、詳しくは、また別の回で扱います。
そして、どちらの道具も届かない、本当に例外的な場面のために、最後に、民法1条が、待っています。「日当たりを奪う建物は、権利濫用だ」と、いきなり結論づけるのは、実は、順序として、正しくありません。まず、個別の条文を、探す。それが、今日の、いちばんの教訓です。
図:今日のまとめ
- 三本の柱等は前に確認・今日は権利濫用=二判例の効果対比・客観が主で主観は加重・効果3つ・適用範囲は厳格区別しない
- 次は権利を持つのは誰なのかという出発点を扱うという予告
今日、配ったものを、まとめましょう。三本の柱と、そこにかかる制限、対等な当事者という前提——これは、前に、見ましたね。今日は、その二つのうちの、権利濫用を、じっくり見ました。信玄公旗掛松事件と、宇奈月温泉事件——二つの判例を、見ましたね。判断は、客観面——利益の釣り合いが、主役でした。害意の有無は、あくまで、加重する要素でした。効果は、三つ。行使の効果が生じない、不法行為になる、そして、明文があるときだけ、権利そのものが剥奪される。信義則と権利濫用、適用範囲を厳格には区別しない、というのが、現在の通説でしたね。
そして、一般条項は、最後の道具——この順序も、渡しました。すべて、「自由には、最初からブレーキが一組になっている」という、一つの発見に、つながっています。さて、次は、「権利を持つのは、誰なのか」という話に、入っていきます。今日は、権利が「通るかどうか」を見ました。次は、そもそも、権利を持てるのは、どんな存在なのか、という、出発点の話です。
参照条文
- 民法709条