心裡留保93条
印刷のコツ
プリンターでは次の設定がおすすめです。
- 用紙:A4 / 向き:縦
- 拡大縮小:「実際のサイズ」(フィット縮小しない)
- 両面印刷:オン、とじ方は「長辺をとじる」(左綴じ)
- モノクロ印刷OK(強調は色でなく太字なので白黒でも読めます)
第1章 民法総則 ㉙/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
フリマ出品欄に書いた冗談
図:問いかけ板
- フリマの出品欄に「この時計、1000円で譲ります」と冗談で書いたら、知らない人から即決の連絡が来た
- この約束は成立してしまうのか
- 答えは書かない
今日は、あるフリマアプリの出品から始めます。出品者は、手放す気もない時計を、ふざけて出品欄に書きました。「この時計、1000円で譲ります」。本人も、冗談のつもりでした。ところが数分後、見知らぬ人から連絡が来ます。「買います」。出品者は慌てます。「あれは冗談です」と言えば、なかったことにできるでしょうか。ところが、この約束はいったん成立してしまいます。鍵は、守るべき信頼が誰にあるか、です。今日は、この不思議さの正体を、条文で分解します。
前回配った地図、ここを埋めます
図:想起板
- 前回、意思表示と本心のズレを5つの型に分けた
- 今日の主役=表意者が、自分で分かっていて言った嘘——心裡留保
- 原則は有効・他の4つの型は次回以降
本題に入る前に、一つだけ確かめさせてください。前回、意思表示と本心がずれる場面を、5つの型に分けましたね。前回の5つの型のうち、原則が有効になるのは、どれだったか覚えていますか?ええと……表意者が、自分で分かっていて言った嘘のほうです。相手と示し合わせる嘘や、ただの勘違いとは、そこが違いました。前回は「原則は有効」という結論の1行だけでした。今日は、その1行を条文の要件で開きます。どこまでが有効で、どこから無効に変わるのか。地図の、あの1マスの中身を、ちゃんと埋めるんですね。
心裡留保とは何か
図:意義板
- 表意者が、自分の真意でないことを自分で知りながらする意思表示
- 相手と示し合わせる嘘とはここで区別する
この場面を指す名前が、心裡留保です。中身はシンプルです。表意者が、自分の真意でないことを自分で知りながらする意思表示です。出品者は、時計を売る気が無いのに、売ると書きました。本心と表示がずれていることを、本人が最初から分かっています。ここで一つだけ、区別しておきます。相手と示し合わせて、ありもしない売買を装う場合もあります。今日は、あくまで表意者の一方的な嘘です。相手が本心を知らされていない、というのが今日の場面の前提です。
原則は有効——自分で分かっていたから

では、なぜこの約束は、いったん有効になるのでしょうか。冗談なら無効にしてあげたいという、その感覚はよく分かります。ですが、ここで守られるべき人を考えてください。出品者は、自分の言葉が本心と違うことを、最初から知っていました。だとすると、その本人を守ってやる理由がありません。守られないのは、嘘をついた側だからです。守るべき信頼が本人の側には無い、と言い換えてもいいです。一方、買い手はどうでしょうか。買い手は、書いてあるとおりに信じて連絡しただけです。買い手の信頼のほうを、法は先に守ります。だから、言葉どおりの効力を認めます。条文を確認しましょう。
条文民法93条1項本文
民法 第九十三条(心裡留保)第一項本文 意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。
分かっていて言ったのに、それでも効力は妨げられない、と条文自身が言っています。冗談のつもりだった、では覆りません。ここまでが、原則の部分です。
ただし書——知っていた、または知ることができた
図:境界の板
- 相手が気づいていた・気づけたはずのときは無効に転じる
- どちらも「相手には守るべき信頼が無い」という同じ理由
- 境界ペアの例
ですが、原則には続きがあります。買い手の側にも条件が付きます。買い手が、出品者の本心を知っていた場合、あるいは知ることができた場合は、話が変わります。「知ることができた」の範囲を、条文で丁寧に読みます。条文を見てください。先ほどの本文には、ただし書が続きます。
条文民法93条1項ただし書
民法 第九十三条(心裡留保)第一項ただし書 ただし、相手方がその意思表示が表意者の真意ではないことを知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
「知り」が悪意、「知ることができたとき」が有過失です。この2つは、どちらも対等に無効の原因になります。ここを素通りすると、条文の半分を読み飛ばすことになります。出品者の時計に、当てはめてみましょう。買い手が、以前の出品者の投稿を見ていたとします。そこには「この時計は壊れているので、出品しただけです。売る気はありません」と書いてあったとします。買い手が、それを見て気づいていたなら悪意です。見てはいなかったけれど、簡単に確認できる状況だったとしたら、どうでしょう。確認しなかったという、その落ち度が有過失です。気づけたのに確認しなかった買い手には、守るべき信頼がありません。だから、この場合は無効に転じます。
出品欄にも他の投稿にも、それらしい事情が何も無かったときは、買い手が気づく手がかりがありません。買い手の信頼は、そのまま守られます。有効のままです。悪意でも有過失でも、結論は同じ、無効です。
どこまで及ぶか——身分行為には届かない
図:適用範囲の板
- 契約・取消しや解除のような単独行為・合同行為には及ぶ
- 婚姻や養子縁組のような身分行為には及ばない
- 理由は当事者本人の意思そのものを絶対視するため
今の話は、契約だけでなく、取消しや解除のような単独行為、複数人が同じ目的で行う合同行為にも及びます。ただし、届かない場所が一つだけあります。婚姻や養子縁組のような、身分行為です。身分行為では、当事者本人が本当にそうしたいと思っているかどうかを、絶対視するからです。契約なら、言葉を信じた相手を守るために、嘘をついた本人を言葉どおりに縛れます。けれど、親子や夫婦になるつもりの無い人を、相手が信じたからといって親子や夫婦にしてしまうことはできません。だから、相手の信頼を守るという今日の原則有効の仕組みは、身分行為ではそもそも働きません。
本人に真意が無ければ、相手が気づいていたかどうかを問わず、端的に効力が否定されます。ここに、養子縁組が争われた判例があります。
判例最判昭和23年12月23日(民集2巻14号493頁)
効果意思の無い養子縁組 真に養親子関係を設定する効果意思がない場合、届出について当事者間に意思の一致があっても、養子縁組は無効である(現行802条1号)。この無効は絶対的なものであり、93条ただし書を適用する必要もない。
届出をする意思の合致があっても、それだけでは足りません。本当に親子になる意思が無ければ、無効です。相手が知っていたかどうかを問わない、そこが、今日ここまで見てきた仕組みとの違いです。もう一つだけ、深入りしない範囲で触れておきます。今日のただし書は、かつて、代理人が自分の利益を図って権限内の取引をする、代理権の濫用という場面にも、考え方を借りられていました。代理人は、代理を頼んだ本人のための取引に見せながら、本心では自分のために動いています。相手がその本心を知っていた、または知ることができたなら、頼んだ本人に効果を及ぼさない、という形で、今日のただし書の考え方が使われていたんです。今は、そのための条文が別に新設されています。中身は別の回で扱います。
山場——無効になった後、その事情を知らない人はどうなるか
図:問いの板
- ただし書で無効になった意思表示は、誰との関係でも無効なのか
- フリマの転得者を思い浮かべてから先へ進む
ここで、もう一段先に進みます。ただし書で無効になった意思表示は、誰との関係でも無効なのでしょうか。本当にそうか、場面を作って確かめましょう。買い手が、出品者の本心に気づけたはずだったとします。ただし書どおり、無効です。ところが、その買い手は、時計を受け取った後、別の人にすぐ転売していました。この転売の相手は、最初の冗談のいきさつを何も知りません。転売の相手まで無効に巻き込まれるのかどうか、そこが今日の山場です。順番に確かめます。

無効を、誰にでも通せる世界を考えてみます。そうすると、出品者は転売の相手にまで「あの時計は無効だから返してほしい」と言えます。いきさつを知らずに買った人が、いきなり時計を取り上げられます。ここに、民法が線を引きます。無効になった後も、その事情を知らずに関わった人は別扱いにします。条文を見てみましょう。
条文民法93条2項
民法 第九十三条(心裡留保)第二項 前項ただし書の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
事情を知らない転売の相手に対しては、出品者は無効を主張できません。つまり、転売の相手との関係では、時計のやりとりは有効に扱われます。無効なのに有効みたいに扱われる相手がいる、そこが、今日いちばん不思議に見えるところです。でも、軸は今までと同じです。転売の相手は、いきさつを知らずに関わった、守るべき信頼を持つ人です。守るべき信頼がいちばん薄いのは、出品者自身です。
山場のつづき——第三者とは誰か、なぜ善意だけで足りるか
図:要件板
- 第三者の意義=当事者・包括承継人以外で、新たな法律上の利害関係を持つに至った者
- 要件は善意のみ・無過失は不要
- 出品者本人の落ち度がいちばん大きいから
ここで、条文の「第三者」が誰を指すのかを、はっきりさせます。当事者と、当事者の地位をそのまま引き継いだ人は含みません。心裡留保でできた取引を土台に、新しく利害関係を持つに至った人を指します。第三者に当たらない人もいます。たとえば、買い手が亡くなって、その子どもが時計を相続した場合です。子どもは買い手の立場をそのまま引き継いだだけなので、第三者ではありません。もう一つ、転売の相手が、冗談のいきさつを知ったうえで買っていたなら、善意ではないので守られません。つまり、第三者の側に求められる要件は、善意だけです。
事情を知らなかった、それだけで足ります。うっかり確認しなかった、という落ち度があっても構いません。無過失までは要りません。ここは、しっかり押さえてください。なぜ、ここだけ保護のハードルが低いのでしょうか。出品者本人の落ち度を思い出してください。自分で分かっていて、嘘の出品をしたのは出品者自身です。落ち度がいちばん大きい本人が、無効の巻き添えで第三者にまで迷惑をかけるのは、筋が通りません。嘘の見た目を自分で作った本人より、それを信じた人を守る、ということです。この、見た目と信頼の組み立ては、実はこの後、繰り返し出てきます。相手と示し合わせる嘘でも、「善意の第三者に対抗することができない」という、同じ言い回しの条文が出てきます。
三段構え、同じものさし
図:到達点の板
- 原則は有効・自分で分かっていたから
- ただし書で無効・相手が気づいていた気づけたはずだから
- 第三者保護・事情を知らない人は守られる
- すべて守るべき信頼があるかどうかで測られている
- 次回、相手と示し合わせる型へ
今日の道のりを、一本にまとめます。心裡留保は、5つの型の中で、原則が有効になる唯一の型でした。ただし、相手が気づいていた、あるいは気づけたはずのときは、無効に転じます。そして、無効になった後も、その事情を知らない第三者には対抗できません。原則も、ただし書も、第三者保護も、測っているものさしは一つです。守るべき信頼があるかどうか、それだけです。前回の、本人の救済と取引の安全の綱引きで言えば、原則と第三者保護は取引の安全の側、ただし書は本人の救済の側に立っています。身分行為に届かないのは、本人の意思そのものを絶対視するためでした。代理権の濫用とのつながりは、今は別の条文の話になります。
今日と同じ、原則・例外・第三者保護という骨組みが、また出てきます。
参照条文
- 民法93条1項本文
- 民法93条1項ただし書
- 民法93条2項